第2話 二十九歳の俺が、小六の好きな子が転校することを知った時
翌朝――お盆休み二日目
俺のAM5:00のアラームは今日は鳴らなかった。
縁側にすでに日が差し、蝉はもう本気で鳴いている。
台所からは味噌汁の匂いがした。俺は顔を洗うと、母が米を研いでいた。
「おはよう直哉。と言ってももう九時やけどね。今日は午前中に病院行こ」
「うん、わかった」
「その前に、ちょっとだけ裏の草むしり手伝って。腰にくるのよ、あそこ」
「はいはい、ちょっとまってね」
実家の庭の土いじりなんかいつぶりだろう。
朝顔のツルが足首に絡んだ。軍手越しに感じる根の硬さ、土の湿り。汗が首筋を伝っても嫌じゃない。
体が働く感じがして、呼吸が深くなる。
その後、俺達は病院へ向かった。
病院の父は、昨日より顔色がいい。テレビは高校野球。金属バットのカーンという気持ちのいい音が聞こえた。
「よう」
「よう」
父は新聞の四コマを指でたたき、「ちょっと見て見ろ。このオチ、昔から変わらん」と笑う。
昔話がぽろぽろ出てくる。俺の迷子事件。夏祭りで迷子になって、神社に保護された話。若いころに父が母に告白した場所が、あの神社だったこと。
「うまく言えなくてな。『好きなとこ十個言う』って言って、三つで限界やった」
「なんだよそれ! 半分も届いてないじゃんか!」
母は横で「伝わったんよ」と笑った。完璧じゃなくていい。『向き合って言えば届く』。
それは今の俺には刺さる。
それから、昼前に病院を出て、簡単に昼を済ませる。
午後、母は買い物へ。
俺は縁側で風に当たり、立ち上がる。
「さて、今日も神社へ行ってみるか。ひかりにもう一度会いに行く」
鳥居をくぐる。
二礼二拍手一礼。
目を閉じる。蝉の音、木の匂い、そして太鼓のリズム、右、左、右右――。
俺の瞼に映る光が強くなり、昼の青。
「う、まぶし!」
俺は再び自分の身体を確認し、再び戻ってこれたことに安心を覚えた。
ありがたいことに昨日から、そんなに時間軸は進んでなさそうだ。
「なおや!」
俺はその声に振り返った。
ひかりが石段の上で手を振る。今日は白いTシャツにデニムの短パン。頭のリボンはちゃんと黄色い。
「なおや! かき氷、行こ!」
「うん、行く!」
角の電柱のポスターは盆踊り。
風鈴の音。日陰で猫が伸びている。
駄菓子屋の前の道の反対側から、クラスの男子二人が走ってきた。野原と、河村だ。これまた懐かしい。当時のやんちゃ組だっけ?
「野原、見ろよ。またなおやとひかりが一緒にいるぜ!」
「おい、なおやー!」
「なに」
「お前、ひかりと付き合ってんのかー! 夏祭りも一緒に行くんだろー?」
そうか。そういえば当時もこんな感じでからかわれてたっけ。可愛いなぁお前ら。
ひかりが一瞬困ったように笑って、こっちを見る。昔の俺なら顔を真っ赤にして「ちがうって!」と全力否定して、結果的にひかりを遠ざけた。恥ずかしさに負けて、距離を置いた。
――だが、今の俺は、二十九歳のおじさん一歩手間の営業職のサラリーマンだ。
「おう。そうだぞー! 羨ましいだろぉ!」
片手を軽く上げてニヤリと笑って答えると、二人は一拍おいてから。
「な、なんだよ! なおやのくせに! おい行こうぜ!」
「あぁ!」
二人はそのままどこかへ行ってしまった。
ひかりは目を丸くし、それからしずかに笑った。
「……なおや、なんだか大人っぽくなったね」
おっといけないけない。今の俺はあくまでも小六の少年。できるだけ子供でいないとな。
「そんなことないよ! 昨日のテレビのアニメの主役のマネをしたんだ!」
「ふーん、そうなんだ」
店先の手回しの氷削り機。おばちゃんが「ブルーハワイ? イチゴ?」と聞く。
「俺はイチゴで。練乳も」
「私もイチゴね! あ、練乳はなしで!」
ガリガリと荒く氷が削られ、透明な山に赤と緑が染みていく。
スプーンで一口。冷たさが鼻に抜けて、目が勝手に閉じた。
「くあぁ。おいしいね」
「うん。頭がキーンってするね。懐かしいかんじ!」
「懐かしいって、ひかりは子供じゃん」
「たしかに!」
店の脇の木のベンチ。その向かいを、虫取り網を持った子たちが通る。
遠くで今日も太鼓の音が聞こえる。
右、左、右右――。
「ねえ、なおや」
「ん?」
ひかりがスプーンを止めて、言う。リボンの端が風で頬に触れ、また離れた。
「私、私ね。夏休みが終わったら、転校するんだ」
そう。知っている未来を、今、俺は本人の口から聞いた。
かすかに覚えている。当時の俺はここで気の利いたことが言えなくて。
「そう、なんだ。どこに?」
「東京。あ、でも……そんなに遠くないってパパが言ってた! 往復でも一日かからないって」
遠い。
小学生にとって、県の向こうは別の国にも等しい。
昔の俺は目をそらして笑ってごまかした。でも今の俺は、目をそらさない。
「そっか」
「……なおやと離れるの、やだな」
「俺も、やだ。これからもひかりとずっと一緒にこうやって遊んでいたいよ」
ひかりは驚いた顔をして、すぐに嬉しそうに笑った。店の奥で野球中継のテレビの歓声。
「じゃあ来年も、ううん。これから先ずっと神社で太鼓、叩こうね!なおや」
「うん……叩こう」
器の底に色のついた甘い水が残る。スプーンで飲み干す。
その後俺達は夕方に、神社へ向かう。
絵馬掛けの前で足が止まる。そこにかかった絵馬達は現在とは違ってどれも綺麗だった。
『健康でいられますように』
『試験に合格しますように』
『運動会で一番になれますように』
みんな思い思いの願い事を書いている。
俺達も小さな絵馬に願いを書く。
俺は「また会おう」と書いた。ひかりは「夏を好きでいられますように」。二人で絵馬掛けに結ぶ。
ひかりが結び目を整え、黄色いリボンを一緒に結びつけた。
「ほどけにくい結び方、知ってる?」
「知らない。どうやるの?」
ひかりは器用に指を動かして、きゅっと結ぶ。小さく、固い結び目。
「これ、ほどけにくいよ」
「確かに。これならどれだけ時間が経っても地面に落ちたりしないだろうね」
町内放送が鳴り響く。「夕方5時になりました。気を付けて帰りましょう」。太鼓の練習がやみ、境内は少し静かになる。
「ねぇ、なおや。……また明日ね」
ひかりの丸い瞳が俺を見つめている。
「あぁ。必ずまた明日来るよ」
蝉の声が遠くなる。
俺は瞬きをした。
現在の夜――
昔とは違って、人っ子一人いない静かな境内。
「っ! 戻ってきたのか。そういえば、絵馬!」
俺はさっきまでいた絵馬掛けの前に行く。
俺は驚きに目を見張る。
絵馬掛けの一角で、色褪せた黄色いリボンが揺れているのだ。俺はそれを指で軽く触れる。結び目の癖が、確かにそこにあった。
「現実が、変わり始めてる!」
俺は満足感を得て、実家に戻った。
その夜、母が桃をむきながら言う。
「明日は少し涼しくなるって」
「そうなんだ。今年はちょっと早いね」
「直哉、あんたなんだか顔がちょっと軽くなったよ」
「どういう意味だよそれ! そんな顔、ある?」
「うまく言えないけどなんかそんな気がするよ」
父も母も昔から変な言い回しをすることがある。あまり気にしないでおこう。
桃の甘さが喉に落ちる。父のこと、仕事のこと、ひかりのこと。今度はちゃんと向き合いたいな。
そして、二日目のお盆休みは終わっていく。