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第1話 東京のサラリーマンが、長野の小学生に戻った日に

 

 夏のお盆の入りの午後、新幹線は岐阜の駅に到着した。ドアが開くと、東京よりやわらかい湿気が頬に感じる。

 駅を出ると大量のアブラゼミの鳴き声が俺を包んだ。


「相変わらずうるせぇ」


 胸ポケットのスマホには、母からのメッセージがまだ光っている――


【手術は無事に終わったよ。お父さん、思ったより元気そう。できれば顔見せてやって】


 俺は相川直哉(あいかわなおや)、二十九歳。都内の営業会社で働く独身のサラリーマン。

 数字、上司の顔色、客の機嫌だけを見つめて走り続けてきた。毎日何かが少しずつ削られている気がする。

 そんな俺の三日間だけのお盆休み。


 父の手術がここに重なったのは、きっと運がよかった。そう思いたかった。


 タクシーで病院に着く。白い廊下へ夕方の日刺しが斜めに差し、床のワックスが薄く光っている。

 病室のドアを開けると、父は上体を起こしてテレビを見ていた。点滴が一本。ドラマでしか見ないモニターの数字は落ち着いている。


「おう、直哉。混んでなかったか」

「思ったよりは。父さん……顔色、思ったよりいいじゃん」

「当たり前だ。こんな所でくたばってたまるか」

「何言ってんの。あなた、昨日まではもう俺は終わりだーとかなんとか言ってたじゃない」



 母は丸椅子に腰を下ろし、保冷バッグからゼリー飲料を出した。父は「これ、うまい」と言って、子どもみたいに嬉しそうに吸った。

 東京の暑さ、病院食の味、興味のない近所の誰それの結婚の話。表向きの話がひと通り終わったところで、父のまぶたが重くなりはじめる。眠くなる薬が効いてきたらしい。呼吸がゆっくりになったのを確かめ、俺達は病室を出た。


 実家に着くと、玄関の匂いは昔のままだった。麦茶と醤油と畳の、混じった夏の匂い。

 廊下の先、カレンダーには町内会の行事がぎっしり。棚には小学校の卒業文集がまだ刺さっている。


「お腹減ったでしょ。簡単なものでいい?」

「なんでも。なんでも嬉しい」


 母は手早く野菜炒めと味噌汁、冷ややっこを出した。湯気の向こうで母の横顔が少し若く見えた。箸をつけると、その懐かしさに俺が東の京から持ってきた緊張がほどけた。


「あ、そういえばさ、あんた知っとる?」

「なに?」


「小田切ひかりちゃん。まだ覚えとる?」

「……覚えてるよ。小学校の同級生。小六の時に親さんの都合で転校していったよね」


 母は箸を置いて、少し目を伏せた。


「そう。大学のときに事故があったらしくって。こっちでは『亡くなったらしい』って話、流れてたんよ。

 あんたの顔見て思い出したから。なんか知っとる?」


 俺の箸の先が空中で止まった。


「え……本当に? 俺はなんも知らんよ。」

「詳しくは誰もよう知らんのよ。町内会で立ち話で聞いたことやし。親御さんがこっちに来たって話も聞かんし。……噂かもしれんし。変な話してごめんね、忘れて」


 噂。けれど、俺の胸の奥では大きな喪失感があった。

 彼女の黄色いリボン、太鼓の練習、夏の空。いくつかの断片が一度にぶつかってきて、胸が締め付けられた。


「母さん、俺せっかくやし少し散歩してくるわ」

「暗くなるよ。足下、気ぃつけてよ」



 サンダルをつっかける。夕方の田んぼの水面が空を映し、道端の草むらから虫が鳴く。小学校の通学路。角の駄菓子屋の通りはシャッターに手書きの貼り紙が増えている。


「うわ! この駄菓子屋、とうとうつぶれたのか!」


 そして、俺はあの森に囲まれた神社についた。鳥居の赤い色は薄暗がりでも鮮やかだ。きっとどこかのタイミングで塗りなおしたんだろう。


 石段を上がり、拝殿の前へ。二礼二拍手一礼。掌を胸の前で重ねたまま、目を閉じる。


(なぁ、あの日。俺よ。どうして言えなかったんだ)



 小六の夏。ひかりが転校するって知ったとき、俺は「手紙を書く」って言って、結局書かなかった。

 俺には勇気が足りなかっただけだ。言えていたら、何かが変わっていたかもしれない。その考えが、今さらのように胸に刺さる。



 息を吸う。蝉の声がやけに俺に近づいた。風が生ぬるくなり、身体が軽くなった。


 俺は違和感を感じて目を開けた――


「なんだこれ!?」


 俺の目の前には真夏の昼の太陽が、さんさんと輝き、目の前いっぱいに広がっている。


 賽銭箱の木目が新しい。

 絵馬の焼き印は濃い。

 鳥居の赤はほとんど残っておらずもはや黒ずんでいる。


 そして何より、あのうるさい蝉の声が俺の鼓膜を貫通している。


「どういうことだこれ? 夢か」


 自分の手が、小さい。膝が細い。視界が低い。――小学生の体だと分かった。


「なおやー!」


 境内の端から、前田と上原が走ってくる。泥だらけのサッカーボール。半ズボンの膝。

 あの頃の夏の速度で、全部が近づいてくる。


「太鼓の練習、はじまるぞ!」


「お、お前らもしかして前田と……上原か!?」


 俺は二人を指さして叫んだ。


「何言ってんだよなおや。当たり前じゃんか」

「そ、そうだよね!」


(二人とも可愛いな!)


 俺は次の瞬間、更に目を見開くことになる

 その後ろで、前田の頭の上に薄い黄色のリボンがチラリと見えたからだ。


 ――小田切ひかり。

 もう今だから正直に言おう。俺はこの子のことが好きだった。そう、初恋さ。


 彼女と目が合う。ひかりが控えめに右手を振った。

 胸がきゅっと痛んだ。でも、涙はこぼれなかった。それよりも純粋に嬉しかった。


「なおやも、来ない?」

「……うん。行く、勿論」


 俺はうなずいて、ひかりの隣に並んだ。


 夏の匂いがはっきり届く。太鼓のテントへ向かう足どりが、自然にそろった。


「久しぶりだねなおや! 元気してた?」

「まぁね、最低限は長生きするからね」

「どういうこと?」

「こっちの話!」


 くだらない話を彼女としながら俺は安心していた。俺の気持ちがあの時と変わっていないことに。


 境内の奥のテントには小太鼓が三台、胴太鼓が一台。

 おじさんが合図を出すとひかりは背筋を伸ばし、ばちを握った。腕の中の細い筋が動き、音が遠くまでとぶ。


 右、左、右右。


(懐かしいなこのリズム。今でも身体が覚えてる)


「いいぞー!」


 おじさんの声。ひかりが横目で笑う。汗でリボンの先が頬にくっつき、すぐ離れた。


 休憩になると、ひかりが俺に水筒を差し出す。


「飲む?」

「え? あ、うん。ありがとう」


 ぬるい麦茶が、やけにうまい。金属のキャップが太陽に光る。


「なおや、夏祭り、好き?」

「うん。……好きだよ」


「じゃあ! 太鼓は?」

「勿論、大好き!」


「よかった、なおやはすぐかっこつけるもんね」

「そうかな」


 確かに昔の俺なら、はぐらかしたかもしれない。今の俺は、ちゃんとひかりの顔を見て言えた。


 練習が終わる頃、空はオレンジに傾き、町内放送が流れる。


『夕方5時になりました。気を付けて帰りましょう』と。

 子どもたちが「また明日!」と声を残して散っていく。


「なおや」


「なに、ひかり?」


「また、明日ね」


「うん。わかった……また明日」


 俺が瞬きをすると同時に視界は暗くなった。

 夜の“現在”に戻っていたのだ。


「え?」


 俺は辺りを見渡す。


 絵馬(えま)掛けの板は古び、風がさわさわと木の葉を鳴らす。俺はしばらく立ち尽くし、深く息を吐いた。


「戻って、来たのか……」


 俺は絵馬掛けの絵馬を見る。

そのほとんどが雨風にさらされて何が書いてあったのかわからない。結び目が千切れて地面に落ちてしまっている物が何個かあった。


「そういえば俺も昔、なにか書いたっけ?」


 俺はその後、もう一度過去に行けないか何度か試すがダメだった。


「また明日、か」


 俺は帰宅した。

 母が昔のように。


 「おかえり」と笑う。


 湯気の白と。石鹸の匂い。


 風呂の後に布団に横になって目を閉じた。

 太鼓のリズムが耳の奥で小さく続いた。


 俺は胸の中で祈る。


(明日も、行かせてくれ)


 眠りは、すぐ来た。


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