風の音に紛れて、君へ
その日、私は少しだけ無理をして登校した。
朝から身体が重たくて、ベッドの中で何度も「もう休もう」と思ったのに、制服に袖を通してしまったのは、自分でも理由がわからない。
教室の空気はいつも通りざわざわしていて、私の居場所なんてどこにもなかった。
だから私は、廊下の窓辺に立った。
日差しはやわらかくて、でもどこか冷たい春の風が、スカートの裾をそっと揺らした。
――ああ、もうすぐ夏が来る。
でも私は、その季節をきっと迎えられない。
そんなことをぼんやり考えていたときだった。
ふと、隣のクラスの廊下の端に、一人の男の子が立っていた。
何もしていない。
ただ、ぼんやりと外を見ている。
人を寄せつけない静けさのようなものがあって、それでいて、なぜか目が離せなかった。
無表情で、何かに心を閉ざしているように見えたけど、
私はなぜか彼の中に「同じ匂い」を感じた。
気づいたときには、声をかけていた。
「君、たまに、すごく透明になるね」
彼は、少しだけ驚いたようにこちらを見た。
私は思わず笑って、言い訳のように続けた。
「……あ、ごめん。変なこと言った」
その瞬間、彼の目がわずかに動いた気がした。
きっと、私たちの関係はあの瞬間に始まったのだと思う。
あの日、図書室の扉を開けたときのことを、私は今でも覚えている。
静かで、どこか懐かしい空気が流れていた。
窓際の席には、あの子がいた。
机に教科書を広げていたけど、目はページの上をただなぞっているだけ。
きっと集中なんてしていなかった。
なのに、その佇まいがやけに自然で、違和感がなかった。
私は声をかけた。
「ここ、座ってもいい?」
彼は一瞬だけ顔を上げて、すぐに視線を下ろし、静かにうなずいた。
それだけだった。けど、その無口な許可が、妙にうれしかった。
私は、彼と同じ空気の中に身を置けることが、ちょっとした救いのように感じていた。
きっかけはただの一言。
だけど、それは私にとっては大きな一歩だった。
私たちは、特別なことは何も話さなかった。
テストの点数、先生の口癖、最近食べたアイスの味。
本当にどうでもいい話ばかり。
でも、その“どうでもいい話”を、私は誰かとするのがすごく久しぶりだった。
ただ、彼は時々、私の顔をじっと見ることがあった。
そのときの視線が、少しだけ痛かった。
きっと、私の笑顔がどこか歪んでいたからだと思う。
心の奥に沈めていたはずの不安や恐れが、彼の前では少しずつ浮かび上がってしまう。
それでも、私は彼の隣にいる時間が好きだった。
理由はうまく言葉にできなかったけれど、たぶん……私たちは似ていたから。
「薬、飲むの忘れないようにね」
そう母に言われて、私はカバンにピルケースを入れた。
朝の光の中で、何度も聞いたその言葉。
でも私は、それが“祈り”のような響きを持っていることを、ずっと前から知っていた。
――ほんの少しでも、今日を無事に生きられるように。
私の身体は、ずっと前から静かに壊れ始めていた。
病名は、正直どうでもよかった。
だって、それが「終わりに向かっていくもの」だという事実は変わらなかったから。
だけど私は、どうしても“日常”が欲しかった。
普通に制服を着て、普通に教室で授業を受けて、
普通に廊下で誰かとすれ違って、
そして、放課後には静かな図書室で誰かと並んで座る。
それだけで、もう十分すぎるくらいだった。
彼といると、自分が“生きている”ってことを少しだけ忘れられた。
いや、逆かな。
むしろ、“生きている”って実感できたのかもしれない。
ある日、私は試すように言ってしまった。
「ねえ、もしもさ。もしも、私が突然いなくなったら……どうする?」
答えなんて、きっとわかってた。
彼がどう答えるかも、想像できてた。
「どうもしないよ。人ってそういうもんだろ」
――ね、やっぱり。
だけど、その言葉を聞いたとき、私はなぜか少しだけ安心した。
だってきっと彼は、私がいなくなっても壊れたりしない。
きっと、ちゃんと生きていける。
……そう思いたかった。
私は彼に、何も渡してあげられない。
ただの記憶の一部になれるなら、それでよかった。
それで、よかったはずだったのに。
その朝、目を覚ましたときに思った。
――あ、今日で終わりだなって。
根拠なんてなかった。
でも、不思議なくらい確信があった。
身体は少しだけ軽く感じた。
目覚めも、悪くなかった。
まるで、長い旅の前の朝のように。
制服に袖を通す手は少しだけ震えていたけど、それを止めようとは思わなかった。
鏡の前の自分に向かって、静かに言った。
「大丈夫。ちゃんと笑えるから」
学校へは行かなかった。
今日は、どうしても“彼に会いたい”と思った。
何の約束もしていなかった。
でも私はなぜか、「行けば、会える」って信じていた。
私が向かったのは、あの帰り道にある古い団地横の小さな公園。
何か特別な場所だったわけじゃないけれど、
一度だけ彼が「たまに寄り道してる」と言っていたのを、なぜか思い出した。
ブランコの鎖が風に揺れて、乾いた金属音を立てていた。
木々はまだ春の色を残していて、花びらが足元にそっと降ってくる。
ベンチに腰をかけ、ゆっくりと息を吐いた。
カバンの中には、いつものようにピルケースが入っていた。
けれど今日は、それを取り出さなかった。
もう、意味はなかったから。
どれくらい経ったころだろう。
カラン、と自転車の音がして、私は顔を上げた。
――彼だった。
驚いたような顔をして、でも何も言わずに僕の前を通り過ぎようとして、
なぜか数歩戻ってきて、私の隣に座った。
ふたりの間には、言葉がなかった。
沈黙が流れて、風が頬をなでた。
それでも不思議と、心は落ち着いていた。
私は心の中で何度も言葉を選んでいた。
「好きだよ」って言いたかった。
「ありがとう」って伝えたかった。
でもそのどちらも、うまく言葉にならなかった。
だから私は、いつも通りの声で笑った。
「なんか、今日は静かだね」
彼は少しだけ頷いた。
その目はどこか遠くを見ていて、それがなぜか優しく感じられた。
私たちは、それ以上何も言わなかった。
だけどそれが、きっと私たちなりの“さよなら”だったのだと思う。
私は、もうこの世界にはいない。
それなのに、不思議と静かな気持ちだった。
風が木々を揺らし、光が差し込む。
あの小さな公園のベンチも、あの日のままそこにある。
私の姿はどこにもないけれど、たぶん、あの場所のどこかにまだ“気配”だけは残っているような気がしていた。
彼が時々、ひとりでそこを通っているのを感じた。
何も言わず、何も考えていないふうでいて、でもほんの少しだけ立ち止まってくれる。
それだけで、心がふっと温かくなった。
私が消えたあと、彼はどうしているだろう。
何かを思い出してくれているだろうか。
私との時間の中に、少しでも残った“光”があるだろうか。
――ねえ、気づいてた?
私、あの時ずっと君の隣にいたかったんだよ。
ずっと前から、自分の時間があまり残されていないって分かってた。
けど、それを言葉にしてしまったら、全部が壊れてしまいそうで。
だから私は、普通のふりをしていた。
君がくれる静かな優しさの中で、
少しだけ、夢を見ていたんだ。
ねえ、お願いがあるの。
もしも、また同じような春が来たなら――
その風の中で、ほんの少しだけでいいから、
私のことを思い出して。
それだけで、私はずっとそこにいるよ。
――さよならは言わない。
だって君の中に、私がまだ生きていてくれるなら、
それは“終わり”じゃないから。
風の音が優しく耳をくすぐる。
その音の向こうに、彼の声が聞こえた気がした。
きっと、気のせい。
でも、それでいい。
そう思えることが、
きっと、私の“救い”だった。