冷たい雨と小さな出会い
冷たい雨が、しとしとと石畳を叩いていた。
アナグラ王国の裏通り。どこまでも陰鬱な路地の中を、ひとりの少年が泥に足を取られながら、必死に駆けていた。
名はルアン。十四歳。
破れた服に、膝は擦り傷だらけ。胸元に抱えた布袋の中には、今日一日をかけてようやく手に入れた、わずかな銀貨が入っている。
(これで……今日こそ、怒られずにすむ……)
そう願いながら、細い路地を抜けた先――
希望は、あっけなく踏みにじられた。
「おーい、ルアンじゃん!」「なに持ってんの?金?ちょっと貸してよ~」
声をかけてきたのは、同じ街の悪童たち。ルアンと同じくらいの年頃だが、彼らはきれいな服を着て、目に宿るのは冷たい嘲笑だけ。
「や、やめて……!」
袋を守ろうとするルアンだったが、突き飛ばされて泥の上に倒れ込んだ。
転がった袋から、銀貨がこぼれ落ちる。
「うわ~、金じゃん!ラッキー!」「まじで使えるよな、お前って」
彼らは笑いながら、それを拾い集め、軽やかな足取りで去っていった。
雨脚はさらに強くなる。
うずくまったルアンの背に、冷たい泥がじっとりと貼りついていく。
•
帰り着いた家の前で、ルアンは扉を叩いた。
「グラズ……帰ったよ……!」
がちゃり、と重たい音とともに扉が開く。現れたのは、酒臭い男――グラズ。濁った目と、手に持った空の瓶がすべてを物語っていた。
「金は?」
「……と、取られて……でも、ぼく……!」
言い終えるより早く、頬に平手打ちが飛んできた。
「またかよ……クソが。誰がてめぇなんか拾ってやったと思ってんだ。飯が食いてぇなら、稼いでこいって、何回言わせんだ!」
怒鳴り声とともに、ルアンは濡れたまま家から突き飛ばされる。
「出てけ。今日の寝床はねえよ」
――バタン。
無情にも扉が閉まり、鍵の音が響いた。
グラズは、ルアンを拾った育ての親だった。
いつも怒鳴ってばかりで、酒に溺れ、まともな会話をしたことなんてほとんどない。
それでも、ルアンにとっては――世界でただ一人の“家族”だった。
•
家の軒下に座り込んだルアンの身体を、雨が容赦なく打ちつける。
寒さが、芯からじわじわと染み込んでくる。空腹、痛み……それ以上に、胸の奥がぽっかりと空いて、ひどく重たかった。
(ぼくなんて……)
それでも、心の奥から小さく、確かな声が湧き上がる。
「……それでも、ぼくは……生きたい」
必要とされたい。誰かの役に立ちたい。
ただ、それだけの――ちっぽけで、けれど強い願い。
ぽつり、とひとしずく、涙が頬を伝った。
――そのときだった。
空が、割れた。
音もなく、雨音がふっと消え、雲の切れ間から鋭い光が射し込んでくる。
ルアンが顔を上げる。
そこに、“何か”がいた。
•
人のようでいて、人ではない。
光のようで、同時に影でもある。
中性的な白い姿。透き通るような髪が揺れ、瞳は宝石のように澄んでいた。
言葉を失い、ルアンはその存在を見つめる。
身体が震える。恐怖、畏れ……それでも、なぜか心が、あたたかかった。
その存在が、無言でルアンを見つめた――次の瞬間。
『……泣いていたのか』
声が、直接、心に響いた。
ルアンは小さく息を呑む。
逃げようなんて思えなかった。ただ、そこに在ることが自然に感じられた。
『君の“願い”、聞いたよ。まぁ、たまたまだけどね』
「……え……?」
『たまたま通りかかったら、君がちょうど泣いてた。で、まぁ……そういうの、わりと好きなんだよね』
軽い。どこか気まぐれで、悪びれない声音。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
ルアンの脳裏に、幼い頃から耳にしてきた伝承がよみがえる。
――神の消えた世界に残された、天の子たち。
感情を求めて人と契約を交わす、異形の存在。
喉が震える。自然と声が漏れた。
「……もしかして……君は……エピルーク様、ですか……?」
その存在は、ふわりと口元をほころばせた。
『そう呼ぶ人もいる。でも、ぼくはぼくだよ。ルキエルっていうんだ』
「……ルキエル……」
『うん。神の名を継ぐ者――とか言われてるけど、別に偉くなんかないよ。ただの、気まぐれで、ちょっと感情に興味があるだけ』
そして、ルキエルは静かに手を差し出した。
『ねえ、契約しよう。君には少しだけ、可能性がある気がする』
『君が最後まで勝ち残ったら――そのとき、君の“願い”、叶えてあげるよ』
雨はまだ降り続いていた。
けれど、ルアンの胸の奥に、ほんの少しのあたたかさが灯る。
「……いいの?」
『いいよ。たぶん、君の願いはおいしそうだし』
そんな軽口に、思わずルアンはくすっと笑った。
そして、そっとその手を取る。
その手は、あたたかかった。
初めて、誰かに“受け入れられた”気がした。
その瞬間――
夜が、静かに明けた。
雨が止み、空が少しずつ白み始める。
誰にも知られぬ場所で、少年と神の子の契約が、静かに結ばれた――。




