月のようだった
「わざわざこうやって来てくれてるから、何でなのかなあってどうしても気になっちゃって」
僕は池から顔を出した鯉のように口をパクパクと開いた。今飲んでいたもので溺れてしまったような錯覚を陥る。どう答えれば、仕事だと言い切れば良いのか、それとも同情だと顔を暗くして言えば良いのか。それがわからない。
「なんて、何だって良いよ。私からすればどんな理由であろうとも嬉しいし」
しばらくの間、僕が答えに窮しているのを見て、重苦しい雰囲気を霧散させておどけるように結月さんはそう言ってくれた。気を使ってくれたのだろう。答えられなくて申し訳なくなってくる。
「だから、そんな顔しなくて良いってば」
まだ僕が黙ったままでいると、結月さんはそう言った。そして、彼女はステージからぴょんと飛び降りて、下を向いた僕を覗き込んだ。
「ごめん。僕は聞いてばっかりでこんなことも上手く言葉にできなくて」
目を逸らして僕がポツリと溢すと、額に衝撃を感じた。驚いて額を押さえながら結月さんを見ると、彼女は指をピンと伸ばしていた。あれで小突かれたのか。
「私の方もだよ。未練なんてないのにこうして手間を取らせてるし」
「そんなことは――」
ない。そう言おうとしたが遮って結月さんが言う。
「あるの。私も色々考えてみたけど未練なんてちっとも浮かばないんだ」
すると、結月さんは客席に腰かけた。背もたれにもたれて頬をかいている。
「昨日はさ、君の学校生活について教えてくれたじゃん」
「うん」
「でも、言った通り私も楽しんでいたんだ。だから私の未練は学校生活じゃない。私ももしかしたら怪しいと思っていたんだけどね」
結月さんは頭の後ろで腕を組んで空を見上げた。
「他にも、ママとパパや友達についてはどうとかも考えた」
「それって……」
「うん、これも違った」
結月さんが顔を歪めて小さく笑う。そして空になったペットボトルを放り投げたりして弄んだ。
「もちろん会えないと思うと寂しいよ。悲しくもあるし。けどね、なんとなくわかるんだ、未練とは違うなって」
「だったらアイドルについて、何か、何でも良いから。思うことは?」
話題を変えるために重ねて聞くと、結月さんは大きなため息を吐いた。
「それが一番ないかなあ」
「それは、どうして?」
すると、今度は困ったように笑う。
「どうしても聞きたい?」
「嫌なら別に無理に話さなくても」
念を押してくる結月さんに首を振る。彼女にだけ無理に話せというわけにもいかない。僕がそう思っていると、彼女は月を指差した。
「月ってさ、太陽の光で明るく見えるんだよね」
「うん。そうだけど……」
唐突に言い出した結月さんに困惑する。
「ほら見てよ。今日も眩しい」
月はいよいよほとんどまん丸になってきていて、夜空の中で青白く光り、他の星々と比べても圧倒的に目立っていた。
結月さんはそんな月を手でひさしを作って見上げていた。そして、膝を抱えて座り直す。僕にはそれがやけに小さく見えた。
「もうすぐ満月かな」
わざと明るく言ってみる。昨日も、今日も不安定な様子はあった。けれども、今はどこか違う。
しかし、結月さんは僕の言葉に反応しないで更に続ける。
「他にも、月は常に同じ面を向けて地球の周りをぐるぐる回っているって知ってる?」
「うん、僕も聞いたことがある」
結月さんが抱えた膝に顔を埋める。さらに彼女の手からペットボトルが落ちて空虚な音を響かせた。
その姿を見て、僕はステージを降りようとした。彼女の隣に行こうと思ったのだ。
だが、手で制されて止まる。立ち上がろうとついた手は行き場を失って宙ぶらりんになった。中途半端に浮かせた腰を再び下ろす。
月に分厚い雲がかかって辺りが暗くなる。
「私もさ、色んな人の力を借りて脚光を浴びて輝かせてもらった」
「そこには君の力もあったはずだ」
「そうだろうけど、言いたいことはそうじゃないの」
夜風が吹く。ひやりと火を吹き消すように通り過ぎた。
「アイドルとして活動している内に夢破れた人だっていっぱい見てきた。それこそ、憎しみを込めた目で見られることもあった」
「それが理由……?」
力なく結月さんは首を振る。
「悲しくはあったけど、それは耐えられた。押さえ込んで、その人の分まで勝手に頑張ろうって思えた」
雲が流れて月が顔を覗かせる。明るく、どこか幻想的なはずのそれがなぜか恐ろしい。
「そうやって頑張って走って、走って駆け抜けてどんどん有名になれた。そんなようやく芽が出た時に交通事故に遭ったの」
結月さんは月明かりから逃げるように更に顔を下げる。
「わけがわからなかった。痛いのもそうだった。だけど、何よりも。私が事故に遭ったのはアイドルとして仕事に行く途中だったんだ。なのに、それなのに、何も思えなかった。まだ頑張りたいとか、辛かったなあとか、本当に何にも」
結月さんの言葉から熱が引いていく。楽しそうなものでもなければ、苦しそうなものでない。ただ事実を述べた、それだけのような声音だ。酸素が足りない。こうやって口を開けば開くほど風船から空気が抜けていくように彼女の何かも萎んでいく。
「そこでわかったんだ。私はアイドルをやり切ったんじゃないかって。何も思えないのも全部やったから。そう思ったんだ。私はゴールテープを切ったんだ」
思わず大きく息を吸った。そして、結月さんの姿に唇を噛む。未練とはああしたい、こうしたいという思い。それは足りないことから生まれると僕は思っている。しかし、そこに不足がなければ未練など決してできやしない。これが、これこそが彼女が未練なんてないと言う理由だったのか。
「ここにいたのはどうして?」
解決への糸口が見えなくなった。それを認めたくなくて昨夜考えたことで手繰り寄せようとする。
「さあ、私にもわからないよ。けど――」
そこまで言って結月さんは立ち上がって軽やかに回ってみせた。優雅に、華やかに彼女はくるりと回るとステージ上で万雷の拍手を受けているかのように大きく両手を広げた。
彼女に月光が降り注ぐ。
「私ってどこか月に似てるなあって自分で思ってたの。だから、ちょっぴり嫌なことがあっても月みたいだって思えば嬉しかった」
おどけたように「結月って名前だしね」と言うが、そこに今までの朗らかな様子を感じられない。
月がやけに眩しく感じる。普段はよく見えるはずの他の星も見えなくなっているような気がしてきた。
「でも違った。気づいたらここにいて、空を見上げたらわかったんだ。月はあんなに綺麗に輝いてる。だから、本当は比べるまでもなかったんだって。私はただ月に手を伸ばしていただけだった。ここに来て、それを知れたんだ。だから私に残ったものはもう何もないよ」
「でも、君は輝いていただろう」
たとえ結月さんが何を言おうと、彼女が残した足跡は示しているはずだ。月にだって負けない、そんな凄い人だったんだと。
「そうかなあ」
木々についた葉が揺れてざあざあと音を立てた。
僕の言葉も暖簾に腕押しだ。結月さんは曖昧に笑っている、まるで何かを堪えるみたいに。
立ち上がるべきだ。立ち上がって結月さんの下に行くべきだ。そうわかっているのに固定されたみたいに僕の体は動かない。いや、たとえ動けたとしてもかける言葉を僕は持ち合わせていない。
ステージと客席の間、このほんの僅かな距離が深く刻まれた谷のように僕たちを分けている。
「君はそこじゃないはずだ。客席なんかじゃない!」
結月さんに、僕自身にも言い聞かせるように叫ぶ。
「昔の人はさ、北極星を目印にしてたんだって」
しかし、返ってきたのは要領を得ないものだった。結月さんがくるくると指で円を描く。
「どんな夜空でもいつも同じ方角にあるから、道に迷ったときにはそれを見る」
思わず空を見た。結月さんは言ったはずだ。北極星は今日の空にもあると。だが、見えたのは――。
「残念。月が明るくて見えないし、やっぱり思い知らされるね」
夜空ではただ月だけが道しるべを飲み込んで煌々と輝いていた。
「これでわかったでしょ? 私に未練はないよ!」
結月さんが未だ動けないでいる僕に言う。それに返事しようとしたが、言葉にならずに息が漏れた。そんな僕へ彼女は更に続ける。
「それに、月があるとどうしても比べちゃうからステージに立ちたくないんだ」
弾んだ声だ。だけど、背後に昇る月に照らされた結月さんの姿はどこか小さく物悲しいものに思えて仕方がなかった。
「またね! 次はもっと楽しい話をしようね!」
影が薄く伸びて、地面に大きくその姿を映し出した。
それっきり、結月さんは姿を消した。僕は伸ばそうと持ち上げた手をだらりと下ろした。
残った影が僕を嘲笑っていた。
結月さんがいなくなって数分、僕はまだ一人でステージの縁に座っていた。
彼女がいなくなった先を眺めて、居た堪れなくなってそのまま寝転んだ。そうしたら、ステージの冷たさが嫌でも意識をはっきりとさせる。
僕は、手元に残ったペットボトルを弄んだ。中の液体が光を反射してキラキラと憎たらしい。勢いに任せて残りを飲み干す。だが、すでに冷めていて体は全く温まらなかった。
次に八つ当たりのように月を睨んだ。青白いその光が僕の表情を真似て馬鹿にしているんじゃないかと思えてきたのだ。だが、依然としてその表情は変わらないので情けなくなってすぐにやめた。
眩しくなって目元を腕で覆う。すると、浮かんでくるのは結月さんのこと。はっきりと感じる手詰まり、僕には荷が重い。
腹が立ってペットボトルを投げた。他に誰もいない会場にプラスチックの軽い音が響く。
スマホを取り出して藤沢さんに連絡を取ろうとする。そして、指が画面をタップしようとした時、スマホが震えた。
「何だよ……」
気づいてしまったので仕方なく確認する。それは友人からのメッセージだった。その内容は明日遊ばないかというもの。当然、断ろうとした。こんな気分じゃ遊ぼうにも遊べないし、明日も結月さんのところへ会いに行くのだ。そう思っていたはずだった。だが、その書かれてあった行き先を見て考えが揺れた。
……未練がないなんて、あんな顔をして言うのか。月に打ち負かされてそれでも未練がないなんて言ってしまうのか。
手元からするりと抜けたスマホが顔に当たった。鼻を押さえて勢いのままに立ち上がる。そして、両手で頬を張った。じんじんと痛む頬が意識をはっきりとさせ、目的にも形を与えてくれた。
痛みが引くと、僕は藤沢さんに電話をかけた。
「すみません。明日って休んでもいいですか?」
電話越しには今夜も紙の音がした。遠くから話し声も聞こえてきた。他に誰かがいるのだろうか。
困惑した声と共に理由を尋ねられる。
僕はステージから降りて、客席に立つ。そこからステージの方を見ながら言った。
「見たいものがあるんです」
その時、ちょうど友人から日時と集合場所について送られてきた。