夜に紛れるような
「アイドルってあの?」
偶像だとかそんな意味ではなく、テレビなどのメディアで目にするあのアイドルで合っているのか。そんな僕の言葉に結月さんはニコリと笑顔を見せて立ち上がった。
「それしかないでしょ。私、松原結月は歌って踊れるアイドルだったんでーす!」
彼女はそう言うとくるりと回ってポーズを取った。腰を軽く曲げて、手を顔の横に添えた姿は今考えたポーズとは思えないほど堂に入っている。
「は、はあ」
「何その返事。もっとちゃんとしたリアクションが欲しいんだけど」
結月さんが笑顔を崩して大きくため息を吐いて、そのままどさりと座り込んだ。
「いや、何か信じられなくて」
全く知らなかった。記憶の中を探ってみてもそれらしき人は見当たらない。一度見れば中々忘れられなさそうだが。
「結構有名になってた思うんだけどなあ。ねえ、本当に知らないの?」
「……うん」
苦笑して言うので申し訳なくなって小さく頷く。結月さんは「そっか」と呟き、大の字になって寝転がった。
「いやでも、僕が知らなかっただけで。きっと他の人は知っているだろうし。僕の友達にも聞いてみるよ、ほら!」
慌ててスマホを取り出して結月さんに向ける。ここまで自身満々に言っていたんだ、それなら一緒にライブへ行ったあの友人ならば知っているはずだ。そうすれば彼女の機嫌も直ると思いたい。
「もう、そんな見え見えのフォローなんていらないよ。どうせ変わってるのは有野君の方だろうし」
僕の考えとは裏腹に、結月さんはおかしくてたまらないといった様子で声を弾ませた。魂胆を見抜かれて口を噤んだ僕をよそにクスクスと笑いながら指折り何かを数え出す。
「あの番組も、ほらこれも。これは知ってるでしょ」
「うん、何回も見たことがある」
結月さんが挙げていった番組はどれも昔からの長寿番組だ。物心ついた時から放送しているもので、ゴールデンタイムにやるそれを鍋をつつきながら、あるいは素麵を啜りながら家族で見ていた。時折、他に見たい番組があっても母がファンであるアイドルグループが出演すると頑なにチャンネルを変えてもらえず取り合いになったことを覚えている。それほど、有名な番組だ。
だが、それが何なのか。そんな僕の疑問を見透かしたように結月さんは自身を指差した。
「全部、私が出たことある番組だよ」
声高々に、心なしか寝転んだまま胸を張って結月さんは言った。
「ほ、本当に?」
「嘘つくわけないでしょ! というか他のフロムハウスの人から教えてもらってないの?」
「……うん、あまり」
藤沢さんからは名前や場所などの簡単な情報のみを伝えられた。当然知っているものと考えていたのか、それとも久保さんの時のように知らない方が良いと考えたのか。だが、一つ合点がいった。あの時、藤沢さんがどこか不思議そうな顔をしていたのはこういうことだったのか。
「多分ニュースでもやってたろうし。テレビぐらい見なよ、この現代っ子め」
「結月さんも現代っ子だと思うけど」
「私は出るぐらいだからテレビ好きだし」
「僕も好きではあるよ」
「だったらなんで見てないの?」
「それは、家にテレビがなくて」
同じく現代っ子である結月さんへ言い返そうとして、すぐに言葉に詰まった。始めは必要だと思っていたが、いざテレビのない生活になると意外と気にならなくなったのだ。テレビ以外にも漫画など他の娯楽もあったし、本当に見ようと思えば好きな番組をいつでも好きに見られるサブスクもあったので必要性を感じられなくなっていた。別にそれが悪いことではないと思うが、こうも勝ち誇られると何だか悔しい。
「ほら、今は他に動画サイトもあるし。僕はそっちで見ているんだ。本当に興味があるものだけを見られるし」
「じゃあ、私は興味も持ってもらえなかったんだ?」
「そ、そんなことは」
絞り出した反論も結月さんが泣きまねをしたせいで機能しない。ふりだとわかっているのに知らなかった罪悪感があるのでつい反応してしまう。目元を覆った手から微かに見える悪戯っ子の目が憎らしい。
「冗談だって! 別にほんのちょっとしか気にしてないから!」
「それ気にしてるじゃないか……」
「どうだろうね!」
結月さんは腹を抱えて笑い転げた。ごろごろとステージの端まで転がって荒く呼吸をしている。やがて笑い声が止み、息を整える音が聞こえるようになると、結月さんは再びころころと転がって戻ってきた。その姿はとてもアイドルという言葉が似合うようなものではない。
「はあ、笑った。最高だよ、ありがとう」
「僕はそれにどう返せばいいかわからないんだけど」
「何でも良いよ。私が勝手に笑ってただけだし」
「じゃあ、笑われました」
「はい、笑ってあげました」
そう言ってまた結月さんはけらけら笑う。僕がむっとして見ても気にもしていない。
「そんなに面白い?」
「面白いよ! 面と向かって知らないなんて言われたの初めてだし!」
それはそうだろう。彼女がアイドルとして関わる芸能人やその関係者は知っているだろうし、プライベートで関わる近しい人だって知らないわけがない。中には知らない人がいることもあるだろうが、そういう人はまず話題にも出さないだろう。
「普通はそういうのって気を使うもんね」
それでは僕がまるで気の使えない無神経な奴みたいじゃないか。
「僕も気を使うぐらいできるよ」
「だろうね。だから良かったあ」
「良かったって何が?」
「一度聞いてみたかったんだ。普通の生活について」
結月さんはそう言って、彼女が寝転んでいる隣を軽く叩く。抵抗してもさっきと同じかそれ以上に強引に手を引かれそうだ。諦めて人一人分の間隔を開けて寝転んだ。縁に座っていた時よりも体全体でステージを感じる。横を向いて頬がつくとひやりと昼間の熱気からは想像もできない冷たさを感じられた。
「ほら」
結月さんが指差した方を追う。顔が正面を向き、真上を見た。しかし、そこにあったのは緩くアーチを描いた屋根だけ。照明も僕たちがいるところだけ灯っていて、隅の方はよく見えなかった。だからだろうか、何本もの資材が複雑に重なり合って作られたこの屋根が大きく見えるのは。遠目に見た時はもっと高い場所にあったと思っていたのだが。
「学校でさ、体育の授業の時に見上げたことを思い出すと全然違うなって。今こうなって改めてここの屋根を見上げて思ったんだ。私はこの下でたくさん汗を流したけど、彼らの多くは青空や体育館の屋根の下で汗をかいてる」
胸の前で結月さんは丸を作ってパスでもするみたいに手を押し出して「引っかけちゃったかもしれないね」と舌を出しておどけてみせた。
「あっという間にボールが足りなくなりそうだ」
「私、運動得意なんですけど!」
少しからかうと結月さんはぶすくれて唇を尖らせた。何度も同じ動作を繰り返してぶつくさと「ほら、また入った」なんて言っている。
「早く聞かせてよ。どんな感じだったの?」
結月さんが急かしてくる。
「部活には入ってたの?」
何から話すべきか悩んでいると結月さんが矢継ぎ早に質問してきた。
「部活はやってたよ、テニス部」
「なんだか意外だ」
「そうかな? ラケット片手に走り回っていたけど」
腕を軽く振ってみせる。寝転んだままだったのでろくに動かなかったが、ボールがあれば見事に打ち抜いたはずだ。
「上手だったんだ」
感心したように言った結月さんに僕は動きを止める。想像のボールは中心を捉えずにあらぬ方へ飛んでいってしまった。
「そうだと良かったけど」
転々と力なく転がったボールという光景を何度見たことか。
「あんまりだったの?」
「まあ、うん」
恥ずかしくなって、声も小さくなる。
「友達に誘われて高校から始めたんだ」
半ば言い訳じみた言葉が出る。
「中学の時はテニス部じゃなかったんだ?」
「軟式の野球部だったよ」
「高校じゃやらなかったの?」
「硬式球に変わるだとか、クラブチームの人も合流するわでハードルが高くなったように感じて、二の足を踏んでしまって」
体験入部をしてみたがまるで違う世界だった。体の分厚さや声の出し方、気合いの入りようと何から何まで知らないものだった。結局、それに怖気付いて入部することはなかった。中学の緩い部活を想像していた僕にはあまりにも荷が重すぎた。
そうして、野球部には入らなかったが、他に何かやりたいことがあるわけでもない。そんな時に誘われたのがテニス部だった。
「体力には自信があったけど、中々上手くいかなかったよ」
「野球もテニスも振るじゃん。同じ感じじゃないの?」
結月さんは腕を振って首を傾げている。
「全然違った。あれだけ打てなかったホームランが、テニスじゃ打ち放題だ」
「それじゃあ勝負になんないね」
想像したのだろう。結月さんは「カキーン」だなんて言ってけらけらと笑っている。
「結局試合に勝てたことなんてほとんどなかったよ」
「それでも楽しかったんでしょ? ちょっと笑ってる」
「友達にも散々ホームランバッターだなんて言ってもてはやされたけど。そうだね、うん。楽しかった」
「そうかあ」
そう言うと、結月さんは何かを考え込んだように黙ってしまった。彼女の言葉と共に吐き出された息に含まれるのは羨望か、それとも他の何かか。僕にはまだ読み取れない。
だけど、話を聞く姿勢を見ていると、熱がこもっているように感じた。彼女は前のめりに僕の言葉を待っている。
未だ何が未練か具体的にはわかっていないが、結月さんの様子から学校生活についてなのではと思えてきた。そして、こうして話すことが未練の解消に繋がっているとも。
「他にも教えてよ、楽しかったこと」
少ししてから結月さんが再び口を開く。
「他かあ、そうだね。放課後に寄り道したりするのも悪くはなかったよ」
部活が終わったその足でファミレスに行くこともよくあった。友人たちも一緒で、部活中に僕がホームランを打った回数を予想して誰の奢りか決めるなんて遊びもしていた。
「うんうん、それで他には?」
「少し待って。ええっと」
先を促されるが中々出てこない。高校時代を思い出して一つ一つどうだったか考えていく。そうして数十秒ほど経って、ようやく絞り出した。
「学校行事も、面倒なこともあったけど良かった、かな」
「文化祭とか?」
「うん、規模が大きいわけでもなかったけどそれはそれで楽しかったよ」
「それなら私も経験あるなあ。忙しくて参加できる時間は少なかったけど、その少しの時間で皆と楽しめたし」
そこまで言い終えると結月さんは突然起き上がった。
「うん、何となくわかった」
その言葉に僕はほっとする。たどたどしくて上手く伝えられるか自信がなかったが、結月さんが求めることを言えたようだ。
手ごたえを感じ、身を起こして拳を握る。そして、結月さんの反応を伺った。彼女は屋根を見上げていたかと思うと、小さく呟いた。
「なーんだ、別に変わんないね、私と」
結月さんはステージの縁に歩いていく。いくつか灯っていた照明がちかちかと点滅し始めた。一瞬ごとに切り替わる明るさに世界ごと変わってしまったように思えて仕方がない。
「私だって友達はいたし、休みの日には疲れ果てるほど一緒に遊んだこともいっぱいあった」
突如として変わった雰囲気に凍り付いている僕を気にも留めずに、結月さんは軽やかにステージから降りた。明かりが届かなくなり、彼女の後姿が夜に紛れていく。
「だからありがとう。おかげでわかったよ」
「わかったって、一体何が?」
声を張り上げて呼び止める。すると、結月さんは振り返った。
「有野君たちは私の未練を晴らすために来てくれたんだろうけど――」
彼女は一段と声を弾ませて言った。
「やっぱり私、未練なんてないよ」
完全に明かりが消える。彼女の姿は、表情は影になって見えなかった。