魔法のようなその味
ゆっくりと手を洗う。流水に晒された手は血がしっかりと通っていないように感じる。悴んだわけではない。けれども、冷たい。
「準備はできましたか?」
「は、はい」
藤沢さんの問いかけに手を拭いながら返事をする。そして、台所上に置かれたまな板の前に立った。使う材料や調味料はあらかじめ藤沢さんたちがわかりやすいようにまとめてくれている。
まず、僕はまな板の上に玉ねぎを転がした。包丁を手に取って、構える。そうして、そっと狙いを定めて振り下ろそうとしたが止められた。
「駄目ですよ。それでは手を切ってしまいます。猫の手ですよ」
猫の手。確か中学や高校の授業で習った覚えがある。確か食材を押さえる手の指を折りたたむような形だったはずだ。
「えっとこうですか」
薄れた記憶を辿ってその姿勢を取る。
「ええ。それならば安心です」
藤沢さんのお墨付きを頂けたので作業に集中する。皮が剥かれた玉ねぎを半分に切り、さらに端から順に薄くなるように切っていく。
「私も少しお手伝いしましょうか? 下準備ぐらいならば私がしても構わないでしょう」
藤沢さんがそう提案してくれた。おそらく、僕の手際を見て不安になったのだろう。ここまでとは考えていなかったのか。
今はまさしく猫の手も借りたい状況だ。先ほどまでの僕ならばきっと飛びついたはずだ。だが、僕は久保さんに言われてしまったのだ。僕が作ることに意味があると。渋ってはいたが一度引き受けたからにはできる限りのことはしたい。
「大丈夫です。やれるだけやってみます」
僕の言葉に藤沢さんはこちらに伸ばした手を引っ込めて微笑んだ。
「わかりました。あなたにお任せします。ですが、レシピを伝えるぐらいは行わさせてくださいね」
「はい、よろしくお願いします」
鍋にした蓋を恐る恐る取る。蓋に大量についた水滴が垂れた。さらに、湯気が立ち、その匂いが広がった。匂いは良い。けれど、上手くできているのかまだ判断できない。
あれから慎重に調理は進めたが、覚束ないことが多々あった。人参やジャガイモを切るときには大きさがバラバラで、肉を炒めるときにはどれぐらい火を入れるのか分からなかった。味付けに関しても大さじや小さじなどと言われてどれだけ調味料を入れたら良いのか迷いに迷った。何度か藤沢さんが何かを言おうとして口を閉じたこともあった。
火を止めてお玉で掬い、器に注ぎ入れる。少し浸かるぐらいの汁にごろごろと大きな具材が顔を見せた。
溢さないように両手で抱えて久保さんのもとに器を持って行く。
「久保さん、できました。肉じゃがです」
「ありがとう。手間をかけさせてごめんね」
「いえ、それは良いのですが、どうして、肉じゃがなのですか?」
久保さんは思い出した好物を肉じゃがであると言った。これには藤沢さんも首を傾げていた。一度作ったはずだと。あるいは変わったレシピでもあるのかと思えば、その指定もない。
「まあ、一度食べたけどね。……肉じゃがは僕の母の得意料理だったんだ。だから、改めてもう一度って思ったんだ」
その言葉に今更不安が募った。こんなもので良いのだろうか。やはり、僕には荷が重い。悪い予感が頭を過ぎる。濃い味付けの後に薄いものを食べるとより一層薄く感じるように、久保さんの思い出の味も汚してしまうのではないか。
久保さんが受け取った器を奪い返したくなった。それでも、もう遅くて、彼はすぐさま食べ始めてしまった。
固唾を飲んで見つめる。久保さんは次々と口の中に放り込んでいく。しばらくすると一段落ついたのか手を止めてこちらを見た。
どうだったのか。僕は彼の言葉を待った。
「うん、あまり美味しくないね」
「そう、ですか」
久保さんの言葉に僕は俯いた。わかってはいた。調理中も手応えなんてものをこれっぽっちも感じられなかった。それでも、箸を置いたその音が終わりを告げるチャイムのように思えて仕方がなかった。器の中で色付いた醤油もまるで砂場でのごっこ遊びのようだと笑っている。
「だけど、よく似てる」
しかし、久保さんはしみじみと水を飲むこともなく再び箸を取った。そして、ゆっくりと食べた後に言った。
「僕は父を幼い頃に亡くしていてね、母さんは僕を女手一つで育ててくれたんだ。朝早くに起きると、いつも母さんは仕事に行くところだった。だから僕もいつからか家事を手伝うようになったんだ。母さんは何度も大丈夫だって言ってくれたけど僕も譲らなかった。料理だって僕の担当だった」
僕が突然の話について行けていないことを気にもせず、久保さんは更に一口ずつ大切にするように目を閉じて味わっていく。
「それでも僕の誕生日だとか特別な日には母さんは必ず自ら料理を作ってくれたんだ。けどね、彼女は不器用な人でね。それがもう本当に上達しない。味噌汁を作れば、味噌を溶かし過ぎてしょっぱくなったり、逆に足りなさ過ぎてお湯でも飲んでいるのかと思うときもあった。そして、肉じゃがを作れば――」
久保さんはにやりと笑い、箸で大きなジャガイモを持ち上げた。
「具材の大きさは不揃いで、火の通りだってバラバラだった。本当にレシピを見ているのかってぐらい醤油が強く、砂糖が入ってないときもあった。当然どれも美味しくない。店で出されたら多分二度とは行かないレベルだ」
久保さんが手を合わせる。いつの間にか彼は全て食べ切っていた。
「けれど、僕は毎回言ったよ、美味しかったって」
「あの、美味しくなかったんですよね。それなのにどうして」
ようやく僕も口を挟む。久保さんは確かに美味しくないと言ったはずであった。実際に食べるまでもなく僕にもそれはわかった。
「最高の調味料は何だと思う?」
僕の言葉に答えずに久保さんが悪戯っ子のような笑みを浮かべて言う。とは言っても揶揄う意図は感じられない。
最高の調味料。何も塩だとか砂糖だのそう言った物じゃないだろう。おそらく久保さんが言いたいのは。真っ先に思い浮かぶのは空腹。いや、あるいは。
「愛情……ですか?」
「そう、大正解!」
久保さんは手を叩いて大きな音を出したと思えば、ふにゃりと力を抜いて腕を下ろした。
「――って、言いたいところだけど。僕はそう思わない。度々力説する人もいるけどね。でも、実際に食べてみれば、そんなものじゃこれっぽちも味なんて変わらない。美味しくないものはそのままに、生のままなんじゃって思う具材も火なんて通らない」
そこで久保さんは言葉を区切り、今までのどんな言葉よりも熱を込めて更に言った。
「けどね、それでもね。言いたくなるんだ。『美味しかった!』って。きっと、愛情ってスパイスは、母さんが作ってくれた料理にはそんな魔法がかかっている。そんな味がしていたんだ」
言い終えると、唐突に久保さんは僕に手を突き出した。
「これは……えっと?」
「古臭いようだけど、案外こういうのが好きなんだ。だから、お願いだ」
「それぐらいなら、大丈夫ですが……」
戸惑いながらも、久保さんの手を握る。彼もそっと握り返してくれた。その手は僕よりも大きくて骨ばって、かさついている。
「君のおかげで思い出せた、大切な味を。だから、最後に伝えさせてほしい。ああ、これでもう思い残すことはない」
「久保さん!」
その口ぶりが奇妙で、何か不可解に思い、名前を呼ぶ。しかし、久保さんは穏やかに微笑むだけで答えなかった。思わず彼の手を強く握る。それでも、反応は鈍い。
すると突然、久保さんの体が柔らかな光を帯びた。そして、まるで毛糸のように彼の体の輪郭がほつれ始めた。
「有野君、そしてフロムハウスの皆さんもありがとうございました」
目を見開いて絶句している僕をよそに久保さんは心の底からほっとしたような顔で言葉を紡いだ。藤沢さんたちも優しい眼差しでそれを見つめている。
「ああ、美味しかった!」
そう言い残して彼は、久保さんの姿はほつれ切った。
何か言葉にしようと口を開くも出てくるのは吐いた息だけ。さっと見渡して彼の姿を探しても見当たらない。ひょっとしたら幻でも見ていたのかと思っても藤沢さんたちの反応や空になった食器がそれを否定している。
ただ、花の甘い香りが漂っていた。
◆
自室のベッドに寝転んで目を瞑る。そのまま微睡もうとしたがどこか落ち着けない。夜になってもまだまだ暑く今夜も熱帯夜のようだ。このままでは眠れない。僕は冷房のリモコンを探すために起き上がった。
電源を入れたエアコンが稼働する音を聞きながら今日の出来事について思いを巡らせた。
「あなたは幽霊を信じますか?」
久保さんが消えた後、藤沢さんからそう問いかけられた。幽霊、所謂オカルトの一種であるが僕は全くと言っていいほどその手のものに興味などなかったし、信じてもいなかった。それに頷くこともできなかった。だが、藤沢さんが何を言わんとしているのかは何とはなしに理解できた。あの時、目の前で起きた事象について他に言いようがなかったからだ。
黙りこくって色々と益体もない考えが頭を占める。
やけに広く感じられるようになったあの部屋で藤沢さんはそんな僕の反応を意に介さず更に続けた。
「これがフロムハウスの仕事です。その場所から離れられない幽霊、地縛霊とも言いますが、そんな彼らの未練を解消して安らかに眠って頂くことが我々の業務です」
藤沢さんの言葉で脳裏を過るのは事務所である部屋や車内の様子。
「じゃあ事務所や車にあった色々な物も……」
「はい、彼らのための物です。彼ら自身にもどれが未練となるかわからないこともよくありますので多く準備しています」
「久保さんも未練を解消した、ということですか?」
「はい、久保さんの未練は好物をもう一度だけ食べてみたいというものでした。なので私たちも様々な料理を作っていました。当然このような依頼だけじゃありません。他にも――」
藤沢さんが例をいくつか挙げていく。それによって、これまであった多くの細かな疑問が氷解していった。藤沢さんの妙な態度も、僕たちの間にあった齟齬の理由もはっきりした。だが、それがあまりに多く上手く噛み砕けない。
「信じられないのも無理はありません。ただ、覚えておいて頂きたい。何も知らなくとも、偶然でも、あなたは確かに久保さんの未練を解きほぐす力になれたということを」
驚いて床に座り込んだ僕へ藤沢さんが言う。部屋の奥からはかちゃかちゃと食器が鳴らす音と水を流す音が聞こえた。もう切り替えているのだろう。言葉通り、彼らはこんな非日常的なことを日常的に行っているのか。僕はどうにもとんでもないことに足を踏み出した気がしてきた。
「そうですね、色々と一気に伝え過ぎましたね。後片付けは私たちで行いますから、今日はお帰りください。明日もありますから体調にはお気をつけて」
藤沢さんが僕に手を差し出した。僕は呆気に取られながらも掴み、立ち上がった。そして、彼の言葉に従い、その足で帰路に着いた。
そんなことがあって現在、未だに僕は混乱から抜け出せてはいない。
ベッドに腰かけて机の上を眺める。そこには帰り道の途中で気付けば購入していた食材たちが並んでいた。久保さんに作ったのと同じ肉じゃがの具材だ。
ふと思い立ちスマホを手に取った。画面をスクロールし、目当てのアイコンを見つけてメッセージ送る。返事はすぐに来た。僕はスマホが震えると同時に、画面に映った母の肉じゃがのレシピを確認して感謝の言葉を送った。
立ち上がって机の上に散らばった食材を両手に抱える。そのまま台所まで持って行ってから、調理器具を探す。少しして見つかったそれはどれも綺麗に保たれていた。思わずほっと息を吐く。折角実家を離れる時に両親が張り切って用意してくれた物がこの様とバレれば叱られてしまっていた。ちょうどいい機会だ。そう思って僕は包丁を持った。
調理を終え、出来上がった肉じゃがと久しぶりに炊いたご飯をよそって机に並べて食べ始める。昼間に作った時より手際が良かったと思えたが箸でジャガイモを割ろうとしても固く、そして味も濃かった。美味しくない、失敗した。なんて確信しても箸は止まらなくて――。
「ごちそうさまでした」
あっという間にすっからかんになった食器を片付け、僕は母にメッセージを送った。ただ「美味しかった」と。