迷子の泣き声のような
消え入りそうな久保さんの声に僕はつい聞き返す。
「それってどういう――」
「ないわけじゃない。確かにあった。だけど、どういうわけか思い出せない。インクで塗りつぶされてしまったかのように忘れてしまっているんだ」
僕の疑問の声は捲し立てるように言った久保さんの言葉にかき消された。少し驚いた。穏やかな彼の印象からは考えにくい声の荒げ方だ。机の上に置かれた拳も白くなるほど力が込められている。
「ごめんね。つい熱くなっちゃって」
久保さんはすぐに肩を落として謝った。そこに先ほどの勢いはない。目を伏せているせいで表情は読み取れない。だけど、ひどく落ち込んでいるように感じる。
「この料理もねフロムハウスの皆さんが僕の好物を思い出させるために作ってくれたんだ」
すると、久保さんは僕に目的を語ってくれた。
つまり、腹が空いたからここまで大量に食べているわけではなく、忘れてしまった好物を探していた。そして、フロムハウスはその手助けをしているというわけだと。
「君もできれば手伝ってほしいな」
「手伝いと言われましてもどうすれば……」
久保さんの申し出に困惑してしまう。僕よりもよっぽど立派な大人たちがこうして取り組んでいるのだ。僕に出る幕があるとは思えない。
「どうしても思い出したいんだ。それに、何がきっかけになるかわからないからね。だから、お願いします」
しかし、久保さんの言葉は僕の困惑を上塗りするほど切実だった。これを断る言葉を僕は持っていない。
「……わかりました。僕もお手伝いします」
その剣幕に押し切られてつい了承してしまった。けれども、これが僕のすべきことだとも思えたのだ。バイトの身であるが、彼の手伝いをすることこそがこの場で必要なことなのだろう。
「でしたら、今から色々と質問していきますね」
「そうだね。案外ぽろりと出てくるかもしれないし」
「では、まず一つ目、普段は何をよく食べているんですか?」
そうと決まれば、手始めに食生活からヒントを得ようと話しかけた。それを知れば傾向などがわかるかもしれないという算段だ。
「普段かあ。恥ずかしいことなんだけどね、自炊もしてなくてコンビニで買った物ばかりだったかな」
「おにぎりやパンとかですか?」
「そうじゃなくて、あの何だっけ、手軽に栄養やカロリーが摂れるってやつなんだけど」
「……もしかしてゼリー飲料だったりしますか」
「それだよ、それ。後、スナックバーとかもよく食べていたなあ」
米やパンよりも先にそれが出てくるなんて、主食を食べていないのか。だとしたらとんでもない。たまにならばまだしも、そればかりだと体を悪くしてしまう。
「それって大丈夫なんですか。栄養が偏ってしまいそうですけど」
「仕事が忙しくて余裕がなくてね。楽だからってついつい頼ってしまっていたよ。君も自炊はできるようになっておいた方が良いよ」
久保さんは自虐して笑うが、笑い事ではない。きっと周りの人に心配をかけたはずだ。それに僕にとっても結局、彼の好物のヒントを得られなかった。
落胆していると次の料理が運ばれてきた。
「いたたきます」
久保さんが食べ始めるのをよそに次の質問について思案する。だが、これといったものが思い浮かばなかった。
「ごちそうさま」
あれやこれやと考えを巡らせて数分、久保さんはあっさりと食べ終えてしまった。あっという間だ。だが、その表情は変わらない。どうやら、また好物ではなかったようだ。
何かないかと視線を泳がしていると、僕はこの部屋が久保さんの部屋であろうことに気づいた。壁際に置かれた小さなタンスの上の方、そこに乱雑に畳まれた寝巻きや丸まったベルトがあったのだ。いきなり連れてこられた上に説明不足だったせいで気づけていなかった。
さらに部屋の様子を見れば久保さんがあまりこの部屋で過ごしていないこともわかる。生活感がないように思えたのだ。テレビの横にあったリモコンには埃が溜まっていて、小さな透明な花瓶に生けられた一本の花は枯れてしまっている。
「どんな花が咲いていたんですか?」
そんな苦し紛れの質問が口から出る。
「それも好物を思い出すための質問かな」
「いえ、ただ僕が気になっただけでして」
「そっか。そうだなあ、どんな花だったか。……確か花弁が多かったな。それに朝起きると、甘い香りが閉じた目を覚まさせてくれた」
「綺麗な花だったんですね」
そう言うと、久保さんは今の今まで腕を組んでかつての状況を歌うように誦じていたはずなのに眉根を寄せた。そして、目を開き、花瓶を見つめて言った。
「……何色だったかな」
まただ。なんてことのない質問のはずなのに、好物を思い出せないと言った時と同じ迷子のような声。その声を、姿を見ているとひどく心がざわつく。
「大切な花だった。大切な思い出だった。けど、いつからか水をあげることもしなくなっていた」
まずい質問だったのか。一息に続ける久保さんに何かを言うべきだと思っているのに言葉が出ない。
「本当に大切なことだったんだ、水をあげることは。花にとっても、僕にとっても。今になってようやくわかった」
そこまで言って久保さんは黙ってしまった。その目に映った感情を僕には読み取れない。だから、僕は言った。
「だったら、今ここで水をあげましょう」
あそこまで枯れてしまった花が元に戻ることはないだろう。それでも、大切なことだと久保さんは言った。だから僕には必要なことのように思えた。
「……君に任せてもいいかな?」
「それは――」
言葉通り、久保さんは立ち上がる気配も見せない。
「枯らしてしまった僕が今更水をやるのもどうかと思うんだ」
「わかりました。入れてきます」
僕は花瓶を持った。台所は調理中であるため断りを入れて洗面所に向かう。そして、崩れてしまわないように花を取ってから水を入れる。そのまま片手に花、もう一方に花瓶を持って久保さんの前まで戻ってきた。
そっと机の上に置いて、目の前でそっと花瓶に花を挿し込む。
「入れてきました」
「ありがとう。けど――」
変わらない。久保さんはそう言った。僕の目にも、萎びた花はそのままで、吸い上げていないことも水が全く減っていないことからわかる。これは思い付きの行動で、好物を思い出すということとは何の関係もない。何か意味があるのかもわかっていない。それでも、無性に寂しさが募った。だから僕は、何か反応があるかもしれないと軽く花瓶をゆすった。
「もう大丈夫だよ。喉は渇いていないようだったから」
「ですが、まだ」
「大丈夫、だから」
久保さんの言葉に手を止める。
「すみません。余計なことをして」
本題からも随分と逸れてしまっている。僕は何をしているのか。
「そんなことはないよ。元々僕が忘れていたのが悪いんだし」
「手伝いどころかこれでは――」
その時、甘い香りが鼻孔をくすぐった。料理の食欲を刺激する匂いではない。これは――。
花瓶を見る。すると、枯れた花がさらさらと水に溶け始めた。あっと驚いて花を取り出そうとしても、みるみるうちに溶け切ってしまった。そして、それは絵の具のように水に色付けた。大切な花を戻すどころか溶かしてしまった。狼狽した僕はこっそりと久保さんの反応を伺う。
彼は花瓶を瞬きもしないで見つめていた。
「すみませ――」
自分のしでかしたことの重大さを思い知らされたように感じて、反射的に頭を下げる。
「この色だ……。ああ、そうだ。この色だったんだ」
だが、その声に動きを止める。その言葉には先ほどまでにはない熱があった。声量は小さい。けれど、久保さんと交わしたどの会話よりもはっきりと聞こえた。
そんな劇的な久保さんの反応に僕が固まっていると、彼はくすぐったそうに笑って言った。
「この花はね、僕の母が好きだったんだ。毎年夏になると買ってきてリビングに飾ってあった。僕が一人暮らしするようになってからもそうだった。いきなり訪ねてきては勝手にこの花瓶に生けていくんだ。何度僕が必要ないって言ってもやめやしない。だから、僕は母さんが来る前に花を先に生けてやったんだ。そうしたらね、母さんも花を持って来るだろ? いつからか二本の花が並ぶようになったんだ。笑えてきちゃうよね。結局、花を減らすどころか増やしちゃっているんだから」
久保さんは体を揺らして、目尻からは涙を流していた。そして、何度も目元を拭って声を弾ませていた。
「久保さん」
そこに藤沢さんと調理をしていた女性の二人がやってきた。
「どうしたんですか?」
久保さんが問うと、二人は伏し目がちに答えた。
「次の品まで少し時間がかかりそうでして……」
材料の問題ではないだろう。ここからでも積み上げられた食材の山が見える。他の問題、例えばレパートリーだとかだろう。
「ああ、そのことですか。大丈夫ですよ。おかげで思い出せました」
「それは……本当ですか。ではどのような料理かお教えいただけますか?」
しかし、久保さんはかぶりを振った。そして、未だ固まったままの僕を見た。
「有野君。君にお願いしたい。どうか僕に料理を作ってほしい」
「僕が、ですか……?」
久保さんの目を見る。嘘を言っているようには見えない。だけど、どうして僕に頼むのかわからない。
今まで出てきた料理を見ていたがどれもとても美味しそうで、レストランのようなクオリティであった。調理をしていた女性の腕前は非常に優れていることも読み取れた。それに対して僕はどうか、久保さんは知らないはずだ。とは言っても、微かな可能性に賭けてというわけではないだろう。そもそも、好物を思い出したと言うのならば後はただ作るだけだ。わざわざ僕に頼む必要などない。
「君にこそ頼みたいんだ。他ならぬ君に」
それでも、久保さんはたたみかけるように続ける。困惑している僕に対して一向に譲る様子を見せない。
「僕には料理なんてできません。それに思い出したのでしたら、僕じゃなくて他の方に……」
「なおさら君が良い。確かに今まで食べた物はすごく美味しかった。けれど、僕が求める物はそうじゃなかった。君の作った物が良い。根拠はないけど、確かなんだ」
久保さんの意志は固い。彼はどうしても僕に作らせたいようだ。なので、僕は久保さんの説得を諦めて藤沢さんたちの方を見た。二人に目線で伝える。僕にはできやしないと。
彼らは二人で何事かを話した後、こちらを見た。
「有野君、私たちからもお願いします」
だが、二人は僕の思いとは裏腹に久保さんの意見に賛同してきた。彼らも久保さんと同様に真っすぐに僕を見つめている。
「僕は本当に料理したことなんてありません」
「ですが、久保さんが言うからには何か理由があるはずですから、きっと大丈夫です」
藤沢さんはそう言うが、僕はまだ頷けなかった。ここで僕の作った料理なんて出したら、ここまで好物探しに向き合っていたフロムハウスや久保さんの動きを台無しにしてしまうように思えたからだ。
「君が再び嗅がせてくれたこの花の香りには、君が作ってくれたのが合うと思うんだ」
花瓶を手に持って、久保さんが言う。
僕は重ねて否定しようとしたが、久保さんのその安らいだ顔を見て開いた口を閉じた。その真摯な眼差しに何も言えなくなったのだ。
結局、久保さんの頼みに頷き、僕は料理を作ることになった。