なぜだか水の中の声のような
「以上で面接は終わりです。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
肩から力が抜けるままに落とす。結局あの後も、いくつか続いた質問で失言の挽回はできなかった。むしろ、今度こそなんて考えていたせいでまともに文として成立していたのすら怪しいくらいだ。
藤沢さんは手元の紙にさらさらと何かを書いている。僕の結果についてまとめているのだろう。普段テストの類があった時はその結果発表をそわそわと待ち望むタイプであるが今はその紙面を覗きたいとは思えない。
しかしそんな思いなど届くわけもなく、彼は紙をデスクの上に置くと僕に告げた。
「採用です。これから短い期間ですがよろしくお願いしますね」
耳を疑った。我ながらあの面接を経て採用するなんてどうかしていると思うが。
そんな僕の懐疑心を感じ取ったのだろう。藤沢さんはその理由を説明してくれた。
「面接をする前からあなたの採用は決まっていたんです」
「つまり、電話をかけた時点でということですか?」
そこまで切羽詰まっているのだろうか。人手不足であることは何となくこの部屋を見てもわかるが。
猫の手でも借りたい状況であったのだと僕は得心したが、藤沢さんは首を振った。
「いえ、そうではないのです」
首を捻る。他にやり取りしたタイミングはない。しかもその唯一の時間も短いものであった。そこで何かを見ていたのか。
「採用することを決めたのはあなたがここへ来られた時です」
ああ、そう言えばここに来るまでにあった奇妙な指示があったが、まさかそれが決め手になったのか。つまり不思議な直感が推測した通り、あのタイミングから面接は始まっていたのか。そして、見事に僕はそれを見破ったというわけだ。
「流石に面接をしたときはどうかとも思いましたが」
「それは、すみませんでした」
深いため息と合わせて出された言葉に気が大きくなっていた僕は小さくなった。無難な答えがあればすぐに採用できたものを僕のせいで無駄にかき乱してしまった。
「それで、あなたはここが何をしているのか知らないということでいいのですね」
「……はい」
小さく頷く。マニュアルなどがあるのならば是非ともいただきたい。
「そうですね、この後お時間はありますか」
「はい、特に予定はないですが……」
「では、実際に体験してみましょうか」
藤沢さんは椅子から立ち上がって伸びをしながらそう言った。
◆
目を凝らせば凝らすほど景色が歪む。アスファルトから反射された熱が相変わらず輪郭を奪っている。だが、僕を包むのは微かな優越感。なぜならば目の前にあるこのガラスが熱を遮ってくれているからだ。さらに言えば、いたるところから吹き付けてくる冷気も心地良い。
藤沢さんに連れられて現在、僕は彼が運転する車に揺られていた。仕事場に向かっているらしい。てっきりあの部屋で何かしらの作業でもするのかと思っていたが違うようだ。手持ち無沙汰に適当に横の小物入れにあった物を手に取る。車内にも幾分かましであるが物が多い。部屋にあったのもまさか全て藤沢さんの物であったのか。
「気になりますよね」
ちょうど赤信号であったのかこちらを向いた藤沢さんが言う。
「多趣味なんですね」
僕がそう言うと彼は口元を押さえて眦を下げた。
「ああ、すみません。そうですね。確かに私は中々趣味が多い自覚はありますがこれらは私の物ではないですよ」
「では他の方も多趣味なんですね」
僕が更に続けると、今度こそ堪えきれないといったように笑い声を上げた。
「ええ、多趣味ですね。ただし、我らではなくお客様方が、ですが」
何だろうか、私物ではなく仕事道具とでも言うのか。余計に仕事内容が分からなくなってきた。
僕が手に取った物をまじまじと眺めていると、ウインカーを出してハンドルを切った藤沢さんが言う。
「他に何か気になることはありますか?」
質問したいことは山ほどあるが、あまりにも情報がないので言葉にできない。何があったか。そうだ、あれはどうだろうか。
「あの指示についてなのですが、どうやって見ていたんですか?」
指示が評価につながっていたことは明らかであるが、それをどうやって確認したのか。あの時周囲には人の気配が全くと言っていいほどなかった。隠れて見ていたのかもしれないがそう言った様子もない。そもそも事前に顔写真を送っていたという訳でもないので、僕の顔すら知らないはずだ。
「指示……ああ、あのことですか。いえ誰も見ていませんよ」
しかし、返答は予想だにしないもであった。そもそも僕が指示に従ったのかどうか知りえないのならば、何を以てあの結果としたのか。
「すいません、よく分からないんですが……」
「先ほど申した通り、来られた時点、つまりあの場所に来ることができるかどうかを私は見ていました。それが最低限必要な素質になりますから」
要領を得られない。何というか僕と藤沢さんの間に認識の齟齬を感じる。映画を見た時に解釈が異なるような些細なものでなく、まるで見ている映画そのものが違うような――。
僕が再び開こうとした口は車がスピードを落としたことによって閉じられた。藤沢さんが窓から身を乗り出して後方を確認しながら停車させる。車内に取り付けられた画面でもその様子を確認できた。そして、スムーズにぴたりとぶれなく駐車する。
促されるままに車から降りて付いて行く。着いたのはよくある十階建てほどのマンション。そこに藤沢さんは迷いなく入って、エントランスに備え付けのインターホンに素早く番号を打ち込んだ。少しのやり取りの後、オートロックの扉が開いた。扉が閉まる前に慌てて後を追う。エレベーターに乗り込んで数秒、目的の階層に着いた。
エレベーターから降りて藤沢さんがある部屋の扉を開けると香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。しっかり食事を摂ってきたはずの僕でも涎が溢れてくるほどいい匂いだ。うっかりレストラン街に迷い込んでしまったかと思ってしまった。
「調子はどうですか?」
藤沢さんは部屋に入るとすぐに誰かに問いかけた。すると、奥から一人、およそ四十代ほどの恰幅の良い女が出てきた。額を拭うような仕草をしながら現れた彼女はエプロンに身を包んでいる。藤沢さんが気安く声をかけているのでこのどう見ても料理人としか思えない人もフロムハウスの一員であることは分かる。だが、どうして料理をしているのだろうか。これが業務なのか。
「あまり良くないですね。どうもまだお腹が空いているみたいでして」
やはりフロムハウスの業務は料理サービスなのか。それほどの大食漢を相手にしなければならないのか。
「あの、そちらの子は」
改めて挨拶をして、バイトであることと業務の確認のために来たことを伝えた。
「じゃあ、君もやってみようか」
そう言って僕らは奥の部屋に通された。その部屋には机の上に積み上げられた食器の前に男が座っている。お客様なのだろうか。柔和な笑みを携えたこの男がそこまで食べられるとは思えないが。
「久保さん、この子バイトで来たんです。ほら、挨拶して」
促されて慌てて頭を下げる。
「こ、こんにちは、有野です」
「こんにちは」
僕の挨拶に久保さんと呼ばれた男は緩んだネクタイを締め直し、よれたワイシャツを着直して背筋を伸ばしながら丁寧に返してくれた。
「私は料理を作ってきますね」
僕が挨拶を終えると、彼女はそう言って藤沢さんと台所の方に行ってしまった。どうしようか。一人残されてしまった。何を話せば良いのか分からない。僕がそうやって右往左往していると気を遣ってくれたのか久保さんの方から話しかけてくれた。
「バイトか。どうしてフロムハウスを選んだんだい?」
「えー、そうですね。親に言われまして……条件が良かったので」
言うのは憚られたが面接の二の舞は嫌だったので正直に告げ、久保さんの反応を伺った。すると、彼は押し黙ったまま水の入ったコップを手に取った。そして、勢いよく飲み干した。喉を鳴らす音がやけに大きく響く。不真面目に映ったのだろうか。もっと社会経験のためだとかそういう高尚なのにしておけば良かったか。
空になったコップを思いの外そっと置き、久保さんは言った。
「うん、親の言い付けか。良い親じゃないか。それを守る君も優しい子だ」
「そう、ですか」
「きっとそうだよ」
かけられた言葉の声音はひどく優しかった。だけど、僕にはなぜか、それがまるで水中で囁かれた音のように聞こえた。水を飲んでいたからだろうか。壁で囲まれているはずなのにすぐにその声は溶け込んだ。
奇妙な静けさが場を包む。僕は飽和させたくなって話しかけた。
「いつもこれだけ食べられるんですか?」
久保さんは皿を端に追いやり机を布巾で拭いた後、頬を掻きながら言った。
「ごめんね見苦しいとこを見せて。前はこんなことなかったんだけどね。こうなってからはお腹が空いて仕方がないんだ。いくら食べても常に何かを欲している。ところで、君には何か好きな物はあるかな? 是非とも聞かせてほしいな」
「好きな物、ですか」
唐突な話題の転換に思わず聞き返してしまった。好きな物、この場合は好きな料理か。何があるか。ラーメンは好きだし、うどんやそば、パスタも良い。麺類以外にも肉や海の幸も美味しい。だめだ、一つに絞りこめない。
「どんなものでもいいよ」
「いえ、美味しいものが多いので、どれか一つと言われると難しくて」
「そうか、うん。そうだね、美味しいものっていっぱいあるからね。今日だって僕も色んな料理を頂いたし」
さらに、久保さんは指を折って続けた。
「中華にイタリアン、フレンチや和食。ファストフードもあったなあ。どれも美味しかった」
しかし、そう言った彼の表情は浮かない。
「久保さんの好物は何ですか?」
もしかしたら、まだ好物の料理が出ていないことが不満なのかもしれない。本当にこの人はよく食べるのだろう。ここまで多く料理を出しておいてメインディッシュと言える好物をまだ出していないなんて。これからが本番なのか。にわかに信じがたい食欲だ。
僕が未知の食欲に戦慄していると、久保さんは目を泳がせる。そして、どういうわけか歯切れが悪くなった。視線があちらこちらと向いて、ようやくこちらを見たと思えば彼は小さく言った。
「僕はね、好物が思い出せないんだ」
それは迷った子供が絞り出した声のようだった。