まるで風鈴の音のような
迎えた面接の日、僕はスマホを片手に歩いていた。
暑さのせいか昼間にも関わらず人通りは少ない。
昔ならおでかけ日和なんて言われそうな雲一つない晴天であっても現代では違うのだろう。例年通りの異常気象。矛盾しているように思えるが間違ってはいない。毎年のようにニュースで言われるこれが人々から外出意欲を奪い去っているのだ。
僕も例外ではない。玄関を開けて一歩目で既にやる気が蒸発していた。ほんの数分で汗が蒸発して体温を奪い去ると同時にやる気も奪い取られてしまった。
それでもこうして歩いているのは、これを逃せば僕はもうバイトなどやろうとしないというそんな情けない確信が僕にはあったからだ。
幸い、家を出る直前まで張り切っていたのでまだまだ時間はある。僕は重い足を動かしていつか見たホラー映画のようにとぼとぼと歩いた。
歩きながら面接の流れについて頭の中で整理する。面接が決まってからその手のハウツー本をしっかりと読み込んだのだ。おかげでろくに知識もない僕であったが自信がついた。今ではどんなことを聞かれても正確に答えられる気がする。テンプレートを確実に頭に叩き込んだので好印象は間違いなしだろう。
そんな事を考えていると目的の住所の近くにやってきた。何かと細い通りが多く入り組んでいるため迷ってしまいそうだ。そのためだろうか、電話でも随分と丁寧に道順を教えてもらった。
ここからは地図のアプリではなくスマホに書いたメモの通りに進んでいく。ドラッグストアを過ぎて二つ先の角を右に。その先でコンビニの前まで行ったところで左に曲がる。そして真っ直ぐ進んだ先にあるどこか静謐な雰囲気を醸し出している立派な木まで来て僕は立ち止まった。
ここからの指示がどうにもよくわからなかったからだ。難解というわけではない。ただ、道順とはいささかずれているように感じるのだ。
木の幹に触れて三秒ほど目を瞑る。真っ直ぐ進み、十数歩ほどで引き返すといったような意味のわからない行動を指示されているのだ。電話の際に聞き返しても詳しい説明はなく、とにかくそうしてくれと言われてしまった。
そんな事をしても道がわかるわけでもないし、する必要があるようにも思えない。僕は指示を無視して普通に進もうとした。
だが、その足はすぐに止まった。背中に薄寒さを感じたからだ。そして、それは僕にある推測をもたらした。このままでも辿り着けるだろうが、そうなると指示の意味が本当にない。だからこそ、この指示には隠されている意図があるのだと。つまり、僕は試されているのかもしれないと。一見意味のない指示を出してその様子を観察する。すると、浮き彫りになるのだ、どれほど従順になれるかが。そう考えれば辻褄が合う。だったらここで指示を無視するわけにもいかない。しっかりとアピールをしておくべきだろう。我ながらよく気づけた。ハウツー本を読み込んでいたおかげだ。
それから僕は聞かされていた指示を丁寧にこなしていった。大げさに見えるように目を瞑る時はぎゅっと眉間に深い皺ができるほどに、引き返す場合は一歩一歩大きな歩幅できちんと距離を取った。
そうやって夢中で指示に従っているといつの間にか僕は目的地に着いていた。一応あの指示は道順にも沿っていたみたいだ。随分と手の込んだ事をする。
その建物の外観は少々古っぽさを感じるものの何の変哲もないよくあるものだ。ただ「フロムハウス」と社名が書かれた看板だけがやけにピカピカとしていて不調和な感じが否めない。看板だけ新品みたいで非常にアンバランスで浮いている。最近この建物を借りて事務所を構えたのだろうか。
「こんにちは、ようこそフロムハウスへ」
僕がどこか奇妙な心持ちで建物を眺めていると声をかけられた。僕は思わず肩を跳ねさせ、恨みがましく声の方に目を向けた。
声をかけてきたのは穏やかな微笑みを携えた男だ。きっちりとスーツを身に纏い、建物の側に立っていたからおそらくここの社員なのだろう。これほど近いのに声をかけてくるまで全く気づけなかった。
慌てて時間を確認する。指示をこなすのに集中していたのですっかり時間のことなど忘れていた。
「すみません遅れてしまいまして」
「大丈夫ですよ。まだまだ時間まで余裕がありますから」
スマホを見ると男の言う通り、僕は予定した時間よりいくらか早く着いていたようだった。早とちりだったみたいだ。決まりが悪く、僕は頬を掻いた。
「それではどうして外に」
蝉ですらも夏バテしてその声を響かせなくなっているほどの暑さの中、わざわざ外に出ようなんて僕だったら思いもしない。
「いえ、少し気分転換をと思いまして。それと、ここは些かわかりづらい場所にあるので無事に来られるのかなと。ですが、杞憂でしたね」
どうやら僕を心配してくれてのことらしい。僕は結果的に辿り着けたが迷う人も多いのだろう。男は随分と慣れた様子であった。だったらあのややこしい指示をやめるべきだとも思うが素直にお礼を言っておく。
「少し早いですが、せっかくですし始めましょうか」
そう言って男は背後にあった扉を開けて中へ入っていった。
ここに来て気が抜けてしまっていたがこれからが本番だ。気を引き締めなくては。
僕は背筋を伸ばして彼の後を追った。
「腰をかけてお待ちください」
そう言って男は部屋の奥へと消えていった。
僕が腰を下ろすとパイプ椅子がぎしりと音を立てた。
手持ち無沙汰になった僕は面接への緊張から少しでも意識を逸らすために部屋を見渡した。
通された部屋はデスクが二、三個ほどあるのみという簡素なものだった。デスクの上にあるパソコンもまた二、三台でこの会社の規模を表している。他の人は出払っているようで姿はない。あるいは、ここ以外にも他の事務所があるかもしれないが。
いかにも小規模の会社という雰囲気だが、一つ気になることがある。それは何というか、足の踏み場がないほどではないが物が散乱している点だ。さらに言えば置かれている物には統一感がない。まるで多くの人がそれぞれ好きな物を持ち寄ったみたいだ。よほど多趣味な人でもいるのかもしれない。
「すみません、散らかってしまっていて」
そう言いながら男がお盆を持って戻ってきた。視界を遮られながらもすいすいと足元の物を避けながら歩く様子は堂に入っている。
「ああ、いえ」
礼を言って渡されたコップを受け取りながら返事をする。
少々見苦しいことは否めなかったので曖昧な返事になったが気にするほどではない。まあ、ほんの少しここでのバイトに対して不安もできてしまったが。
「汗もたくさんかいたでしょうし、どうぞお飲みください」
その言葉に甘えて僕は渡されたコップを勢い良く傾けて体の中に麦茶を流し込む。思わず唸るほどの爽快感だ。大きな氷がいくつもあって結露もできていたそれはうだっていた僕の体を存分に冷ましてくれた。
あっという間に飲み干したコップの中で氷がカランと風鈴のように音を奏でた。一仕事を終えたような気分だ。
「おかわり持ってきますね」
苦笑混じりに告げられた言葉に僕は顔を赤らめながら頷いた。
それから数杯ほどおかわりを頂いた後、僕と彼――藤沢さんというらしい――は向かい合っていた。今日の主目的である面接だ。
いくらか緊張していた僕だったが、いざ始まるとなれば思っていたよりもリラックスできていた。これも藤沢さんがくれた麦茶のおかげだろう。ぴっちり着こなしたスーツ通り仕事ができる人だ。
「ではまず、有野君。あなたの志望動機を教えていただけますか」
軽く僕の名前や年齢などの基本的な情報を確認してから藤沢さんが言った。
あの本はやはり最高だ。帰ってから何人かに勧めておこう。
僕は有頂天になっていた。始まったばかりとは言え、ここまでは本に書いてあった通りに流れが進んだからだ。
そして、僕は笑いを嚙み殺しながら今度も本に書いてあった通りに答えた。
「大学生になったら是非、人と関われるアルバイトをしたいと思っていました。また、貴店で購入した物が非常に好みで働けるならこういった素晴らしいお店で働きたいと思い応募しました」
完璧だ。立て板に水のように語られるこの志望動機に一分の隙もない。
「フロムハウスは販売業をしていませんが……」
前言撤回だ。あの本は燃やしてしまおう。何が「絶対受かる本」だ。
ひとまずあの使えない本のことはおいておこう。今は目の前で困惑している藤沢さんに対して何か誤魔化す言葉を考えなければならない。
「ああ、すみません間違えました。少し緊張しすぎていたみたいです」
他に回答例があったかを必死に思い出す。いや、そういえば僕はフロムハウスが何をするところか全く知らなかった。条件の良さに目が眩んで全く見ていなかった。
なんてことだ。
自分の浅慮に思わず頭を抱えて転げ回りたいがそうも言ってられない。
しかし、僕の口をついて出る声は「ああ」や「えっと」など要領を得ない言葉にもならないものばかり。麦茶を飲んで冷えたはずの背中に嫌な汗が伝う。口内もカラカラと乾燥してきた。
「それでは志望動機についてお聞かせください。ああ、あなたが思う素直な気持ちで構いませんので。どうか気楽に」
しばらく僕が狼狽していると、何度か咳払いをして藤沢さんが言った。
明らかに気を使われている。どうやらなかったことにしてくれるみたいだ。
再びのチャンスを逃すまいと急いで頭の中で志望動機を見繕う。だが、これといったものが見つからない。ハウツー本が役に立つどころか、そもそもの業種を知らないせいでむしろ余計な情報として邪魔になっている。帰ったら絶対にレビューで最低評価をつけてやる。
ああ、雑念が入ってきた。考えがまとまらず、適切な回答が思い浮かばない。
いや、よく考えてみるんだ。藤沢さんが言ってくれていた、素直な気持ちで良いと。そうだ。求められているのは模範解答ではない。
僕は意を決して、頭の中に浮かんだワードを言った。
「遊ぶ金が欲しくて」
「供述ですか」
今度も間違えたみたいだ。