空の味
立ち並ぶ民家が次から次へと視界の端へと流れていく中、僕はその眩しさに目を細めた。
遮る物のない空が真っ青になって僕たちを見つめている。こんなに大きく見えると錯覚してしまいそうだ。手が届くのではないのかと。
遠く随分と先に見えるのは穢れの無い白。青いキャンパスにはっきりと姿を示すそれは浮いている。雨が降った後の独特な臭いの残滓もここにあった。もしかするとあの雲の下では嘆いている人もいるのかも。
日光によって熱されたアスファルトがゆらゆらと空気を揺らす。それは手を振ってるようにも、僕らを行く先へと手招いているようにも見えた。
僕の横を自転車が通り過ぎ、ハンドルを握った少年の不思議そうな目が僕を捉えた。前のめりになって息を切らした男。なるほど不審であろう。
側溝に落ちないように端にずれて、民家から伸びる草木に頭を屈める。頭上でがさがさと音が鳴り、晴君が僕を掴む手が強くなった。
「うわ!」
どうやら急な障害物に対応できなかったみたいで晴君は鼻を押さえていた。晴君の手が僕の頭へ抗議する。それに軽く謝れば、今度の葉っぱがやって来て怒った彼の文句が勢いを増した。
突然、雷のような音が生け垣を越えて聞こえて来た。僕の体が飛び上がり思わず足を止める。晴君の手も僕の顔を潰さんばかりに挟み込んで来た。
「なんだ犬か」
草むらからそっと覗いて見ると鋭い歯を見せた小型犬がそこにいた。興奮してぴょんと生け垣を越えて顔を出したり、引っ込めたりと落ち着きがない。
「ぬいぐるみみたい」
晴君がそっと嬉しそうに呟いた。手を伸ばして吠えられると甲高い声で楽しそうに笑う。
「そんなのに驚いてたらダメダメだね」
なんて晴君が言って来た。意地の悪い声でその表情だって容易く想像できる。
「晴君だってビビってたよね」
「僕は本物を初めて見たから良いの! 有野君は見たことあるでしょ!」
「この子、こんな小さいけど絶対に凶暴だから。肉を食いちぎってくるよ」
苦し紛れの僕の言い分も晴君には響いていないようでからかいは収まらない。
「こんなとこで道草を食う訳にはいかない。早く行かなくちゃ」
「あ、逃げた」
追及から逃れるために僕は晴君を背負い直し、地面を強く蹴り出した。
背後から聞こてくる吠え声も遠くなり、次に見えた小洒落たカフェから漂うコーヒーの香りを目印に角を左に曲がる。すると、車が何台も並んで走っている大通りに僕たちは出てきた。
交差点で信号に引っかかって息を整える。晴君の両親がいる場所はもう遠くないはずだ。殴り書きされたメモを取り出して見つめる。行きの車の中で藤沢さんから教えてもらった道順通りに進めている。
そうして物思いにふけていると青になったと告げる電子音ではっと気づく。横断歩道を渡り、行列があるラーメン店で分泌された涎を飲み込んで先へ進む。
そして、小さな花屋まで来た。再びメモを取り出して確認する。店頭に飾られた鉢植えの横を通り過ぎ、色鮮やかな花々が日に映えるのを頭の片隅へ置いておく。
怪訝な目を向けられながらも向かう花屋の横で見つけたひっそりと佇む細い階段。ここが近道であるそうなのだ。
錆びた手すりにところどころ欠けた段差。へこみだっていくつか見受けられる。角度だって急で、疲労の溜まった足が一段上がる度に重くなっていった。
不親切でやけに長い階段を踏み外さないよう慎重に足を進めていく。やがて、数分かけてようやく上りきると僕は膝に手を突きながら振り向いた。
すると、僕の首へと回していた晴君の手から力が抜けた。すとんと落ちそうになり、彼の腰を慌てて下から持ち上げる。
「綺麗……」
感嘆の声を晴君が漏らした。どこか涙ぐんでいるようにも思えるそんな声だ。
「僕ね、初めてだったんだ。いつも窓越しだったし、最初は眩しかったりしてよくわからなかったけど」
晴君が僕の肩に手を乗せて上に上にと首をうんと伸ばした。その目に映っているのは眼下に広がるこの景色。
「空って青いね」
呆然とした声に込められた思いは察するに余りある。晴君は復唱でもするように何度も同じ内容を呟いた。
「雲は真っ白でふわふわだ」
僕も晴君の後を追って見える光景を言葉にしていく。遠く見える雲を指差してその形をなぞる。深く濃い青とは対照的な柔らかな白さはされど雄大だ。
「晴君の家もここから見えるかも」
目を凝らして屋根を見極めていく。瓦屋根にコンクリートの平坦な屋根、洋風チックな先の尖った屋根とそれぞれ違った形がそこでは見えた。
「わかんない」
「確かに」
晴君の言った通り、結局彼の家はわからなかった。けれども、晴君はまだその光景から目を離そうとしていない。じっと遠い何かを見つめるように微動だにしなかった。
「パズル、できなかったね」
ふと、晴君が言った。ポツリとつい漏れてしまったかのような言葉だ。
「後、ちょっとだったね。全部同じ色だから本当に難しかったよ」
目の前に広がるこの景色を数百ピースで作ろうとはなんと無謀であったのか。切り取ったひと欠片には両手で広げた以上の世界が詰まっていたのだ。
「あれも、完成したらこんな感じだったのかなあ」
もう決して出来上がることのないパズルを思い、晴君が言った。
残り数ピース、そこまで埋まっていたパズルも既にバラバラで跡形も無くなっている。埋まらないほんの少し、それはもうどこにも嵌らない。ポケットを漁っても出てくるのはガラクタばかりだ。
埋まらない場所はどこであるのか。空を見ても、雲を眺めてもわかりはしない。クレヨンを握って描かれたあの空、それは酷く曖昧でふわふわと輪郭だってまともじゃない。だが、ここに来て確かな形を成したのだ。
「だから、今やっと完成したね」
空っぽのポケットに仕舞うのではなく、心の中に。そうすればきっと、そのピースはどこか欠けた心の隙間を埋めてくれるのだ。
「――うん、すっごいパズルができたよ!」
その弾んだ声は僕の心の中にも刻まれただろう。今この場で分かち合った思い出は共感となっていつかのピースになるそんな気がした。
階段を後にして、僕たちがやって来たのは更に閑静な住宅街。歩けば足音が響き、呼吸の音だって聞き逃さない。
一方通行の標識に見切りを付けて狭い道を僕たちは進んでいった。
そうすることしばらく、僕の足は気づけば走ることを止めていた。
誰かが撒いた水の跡。太陽も傾いて影になったそれは乾きが遅く、涼しさを感じさせた。雑草生い茂る誰もいない公園を通り過ぎ、側溝に嵌った萎んだボールはさて置いて。晴君の両親がいる家までゆっくり歩いても後十分ほど。それが焦りを消したのか、それともまた別の感情を呼んだのかはわからない。けれども、息が整ってもどうにも走る気が起きなかった。
自然と晴君との会話も、短い間の僕たちの思い出を語るものとなっていった。
「かき氷、美味しかったね」
微睡んだように晴君が呟いた。口をパクパクと鳴らして、右手の指先を曲げてスプーンを形作る。左手はカップとなって僕の顔の前で魅惑的に踊り出した。
「凄い美味しかった。他にも食べたことがあったけど、あれが一番だったよ」
様々な味のシロップを口ずさむ。辺りも豊かな色彩でいっぱいだ。
「あれはオレンジかも。こっちはイチゴで、ブドウもあった」
晴君があれやそれやと指差して美味しそうだなんて言った。心底楽しそうで、僕まで涎が出てきそうだ。
「結局、ラムネは持って来られなかったな」
何となく口を突いたのは、いつか語ったラムネのこと。
「ラムネって何だっけ?」
晴君が首を傾げた。
無理もない。あの時はかき氷に代わる何かを挙げていっただけで、それどころではなくなってしまったから。
僕はそんな晴君の反応に苦笑し、空へと手を伸ばした。
「空ってさ、あんなに大きいくせに全く手が届かないんだ。いつだって生意気にふんぞり返って僕らを見てる。だけどね、ラムネがあると手が届くんだよ」
「ラムネがあると?」
「そうなんだよ。不思議だよね」
細長い見慣れた容器が僕の手の中に現れたような気がした。深い青の蓋にほんのりと薄まった透明のガラス瓶。中にはまん丸で透き通ったビー玉が泡に踊っている。
「空に翳して、瓶越しに見上げるとそれはもう。手の中に小さな空の出来上がりだ。きっとラムネは、空の味もしているからこそあんなに美味しいんだよ」
「空を飲む……。想像できないや」
晴君が唸り、「むむむ」言って体を捩じった。右に寄れたり、左に傾いたりと彼の動き合わせて僕の歩みも緩やかな曲線を描き出す。
「だったら、飲もうよ一緒に。終わった後にさ、空でも眺めながら」
どこか小さなベンチにでも腰かけて、瓶を傾ける。ああ、それは素晴らしいに決まっている。それを思うと今からでも心が沸き立つ。口を閉じると、心地の良い炭酸がパチパチと鳴ったようにさえ思えてきた。
「うん、約束だよ! 一緒に飲もう!」
振り返るまでもなくはっきりと笑顔だとわかる。そんな嬉しそうな声で晴君はそう言った。
「ああ、今から楽しみだよ」
僕は笑みを溢し、手に現れた瓶を揺らさないようにそっと歩みを進めていった。
取り留めのない言葉を交わしていると、晴君の口数が徐々に少なくなっていった。僕へと回した手も随分と強張っている。もうすぐそこまで迫っていることを彼も予感としてわかっているのだろう。
とうとう見えたごく普通の一軒家。鼠色の石で作られた苔が集った外壁に、それを越えて盛んに伸びている何かの木。門扉の近くに置かれた植木鉢の花は枯れていた。
古く風化した表札にあったのは別の苗字。僕は迷いなくその家へ向かって行った。現在、晴君の両親は祖父母の家に身を預けているらしいのだ。
歩く度、晴君の緊張が伝わってくる。手は震え、強張っていた。
古臭いインターフォンの前までやって来て、後はもうこのボタンを押すだけ。その前に僕は背中から晴君を下ろし、彼へ語りかけた。
「ラムネもね、開けるのが難しいんだ。元気いっぱいだからぶわって噴き出してくる。だけど、そっと開けたんじゃつまらない。下手くそでも、思い切りした方が心が弾むんだ」
そして、僕はそのボタンを勢い良く押した。
響き渡る間抜けな音。だが、返事はない。
再び押す。耳障りな音が鳴って、それからしばらくしてガサガサ声が発せられた。
「はい、何か御用ですか」
しゃがれた男の低い声だ。音質も相まって非常に聞き取りづらい。
「お届けに来ました」
「ええっと、何をですか」
男の疑問の声に対し、間髪入れずに僕は言った。
「思いを、です」
「はあ、それは結局どういう……」
困惑を隠せていない男の声が聞こえてくる中、小さく晴君が呟いた。
「……パパ」
その瞬間、インターフォン越しに何かが落ちる音と息を飲んだ音が聞こえた。けたたましく鳴ったサイレンのような叫び声も止まない。金切り声と怒号が僕に向けられて、インターフォンが向こうから一方的に切られた。
僕はもう一度ボタンを押すことなく立ち尽くしていた。というのもその騒がしさが段々近づいてきていたからだ。ほどなくして立て付けの悪い横開きの扉が動き出した。レールの上に溜まった砂利や埃を無理やり押しのけて耳に障りながら開かれた。
同時に一組の男女が横に落ちたのかのように転がり込んだ。彼らは地面に手を突いたままこちらを睨んでいる。正確には僕の側を見て目を見開いていた。呼吸すらも忘れてしまったかのように口が開いたまま微動だにしない。
先に立ち上がったのは埃を頭からかぶったような白髪混じりの男の方だった。額に刻まれた平行線と伸ばしっぱなしの髭。そんな彼は隙間風のように言った。
「晴、お前なのか」
こちらへ踏み出されようとした足の震えが見て取れる。いっそ杖を突いていないのが不思議なほどの様相だ。
僕の手に小さな手が巻き付いた。その手を優しく振り払う。だが、再び僕の手を掴み動く気配がない。晴君のその顔は父親を見て前のめりになって仕方がないにも関わらずだ。
「言葉は思いだよ。だけど思いは言葉だけじゃない。だから大丈夫だ」
そっとその小さな背中に手を当てる。するとたたらを踏んだ晴君が驚いた顔を僕に向けて、強く頷いた。
ポケットを叩き、小さな拳を作る。その手の中にあるのはきっと眩いばかりの宝物。
「あのね、僕は――」
しかし舌足らずのような高い声が発されるその瞬間、晴君は口を噤んでしまった。地の底から出たような声が彼の唇を縫ったのだ。
「……ごめんなさい! ごめんなさい! どうか、私を許さないで……」
幽鬼のように声の主が立ち上がった。艶を失った長い髪が彼女の顔にかかる。影を作り、眼底にぽっかりと穴が開いたのかと思うような隈が垣間見えた。頬も骨に皮を引っ付けただけのようにこけている。
晴君の母が彼へ枯れ木のような手を伸ばす。その手はまるで縋っているみたいで痛々しい。碌な体力も無いようで晴君との僅か数メートルでも転んで、傷ついていく。慌てた父親が支えても、彼もまた弱々しい。
僕は逡巡した。果たしてこのまま晴君と彼らを会話させて良いのだろうかと。一度僕が間に入るべきなのか。
だが、その悩みはすぐさま吹き飛んだ。
「二人とも、ただいま!」
晴君が場違いに明るい声で両親へ駆けて行ったのだ。そして晴君が彼らの下へ辿り着くと、何度も謝罪を口にしながら母親が縋るように抱きしめて、父親が呆然と確かめるように顔に触れた。
やがて、耐え切れなくなった母親が口を開いた。
「ごめんね。元気に生きて欲しかった。ごめんね、私の元気を分けてあげたかった。いっぱい美味しいものを食べて、それから遊びに行って……」
そこから先はもう涙で言葉になっていなかった。彼らはただ繰り返し懺悔をし、晴君を見て苦しそうに涙を流していた。
「僕は幸せだったよ!」
そんな凄惨とさえ言える状況で晴君の声が響き渡った。懺悔をかき消し、泣き声を塗り替えたのだ。
晴君は両親の涙を拭い、キラキラとした目で思い出を語っていく。
「絵本、たくさん読んでくれたよね。全部面白くて楽しかった。ママが作ってくれたご飯が一番美味しかった! パパだってちょっと怪獣が下手だったけど、凄い楽しかった! ずーっと僕は楽しかったんだ!」
必死に語り紡ぐそれは、抑えきれない思いの発露。彼だけが持つ大切なものだった。
一気に語り尽くした晴君が呼吸を整え、大きく息を吸った。そして、どこへだって聞こえるような声で叫んだ。
「幸せだったんだ。嬉しかったんだ。だから! だから――」
「――ありがとう!」
晴君はそれから両親を強く強く抱きしめた。彼らもまた離れないように離さないようにぎゅっと抱き返した。
「ありがとう。私たちのもとへ産まれてくれて」
はらはらと涙を流した母親が愛おしそうに晴君の額に唇を落とした。
「ありがとう。僕たちに幸せをくれて」
目を真っ赤にした父親が頬を当て合って優しく頭を撫でた。
苦しいなんて嬉しそうに晴君が笑うが、しばらくの間その抱擁に綻びが生まれることはなかった。
「あ、忘れてた!」
そうすることしばらくして、晴君がはっと気づいて両親から離れた。呆気に取られた彼らを置いて僕の方へ向かってくる。
そんな突然な彼の行動に合点がいった僕は目的の物を彼に手渡した。もじもじとどこか照れくさそうにしながら僕の背後に隠れて晴君が準備をする。そして、準備を終えると口で「じゃーん」なんて言いながら困惑した両親の前に躍り出た。
「どう、似合うかな。ずっと見せたかったんだ!」
くるりと回った晴君の背にあるのはピカピカのランドセル。真っ黒なそれは夕日を反射して美しく輝いた。
「最高に似合ってる!」
彼らは口を揃えてそう言った。
「ありがとう!」
最高の返事をもらった晴君も満面の笑みを浮かべた。その調子のまま両親へ飛びついて、彼らもまた抱きしめて、何度も何度も互いに感謝を伝え合った。
そして、その時が来た。
晴君の体が淡い光に包まれたのだ。夕焼けの赤に負けない橙色のその光。それは眩しいけれど、いつまでも見つめていたくなるそんな光だった。
「待って! まだ行かないで!」
何かを察した母親がいっそう強く抱きしめる。ガタガタと震えて血走ったような目で瞬きだった忘れている。
「大丈夫だから。僕もママとパパも」
だが、晴君はとびきり優しくそう言って、怯える両親に笑みを見せた。
そして、強く抱きしめ合っていた両親から離れ、晴君はポーズを取った。それはいつか見たヒーローのポーズ。不安そうな彼らに向けて、そして見つめていた僕にも。
「だって合言葉を覚えてる! プロテクトマンは強くて――」
母親が目を大きく見開いた。わなわなと震えて、乾いた瞳が潤っていく。しゃくり上げて、唇を噛んで口角を上げた。
僕の脳裏にも過ぎるのは初めて会った部屋の中。戸惑う僕は答えられなかったが、今度はきっとそうじゃない。
まず、母親が鼻をすすりながら答えた。
「モグラドンは人気者!」
次に彼女と同じぐらいぐちゃぐちゃな顔の父親が目を擦り言った。
「怪獣はダメなやつ!」
すると、晴君は僕を見た。突然水を向けられて僕がまごついていると呆れた晴君の目が僕を貫いた。
「えっと他にあったっけ」
「もう! とびっきりの合言葉が残ってるんだから!」
僕を見て、両親と笑い合い、そして、晴君は最後に言った。
「皆、大好き!」
そうして、あっという間に紅は走り去って晴君を連れて行った。
そこに残されたのは真っ新なランドセル。それにはヤンチャに付いた砂埃があった。
いや、他にも多くの物が残っている。ここにも、きっと至る所に。
ぼうっと空を見上げた晴君の両親の瞳は涙で濡れて拭いきれない。それは僕もそうだ。止めどなく流れるこれは栓を無くした蛇口のよう。けれどそれは冷たくない。縁をなぞるそれはどこか柔らかく感じるような、さっきまでのとはきっと別物であるそんな涙であった。
◆
遠くなっていった夕焼けを見送ってしばらく、空の端も随分と見えてきた。帰路に着いた足は茫洋と絡みつく熱を忘れている。持ってきた荷物は何もない。だけど、手を叩けば音が鳴り、拳を作ればコインが輝く。つまり、僕はたくさんの物をもらったのだ。ああ、不思議と軽いそれはとても抱えきれない。
ふと、道路の端に停められた車が目に入った。相変わらず高そうな何度も見た車だ。車外で待っている杖の似合わない人も見知っている。
「社長」
そう呼ぶと、彼は眉と口角を上げて気楽そうにこちらを見た。
「どうだ、疲れただろ」
「はい、とても。ですが、よく眠れそうな疲れです」
そう言うと、社長はカラカラと笑った。
「君にとってフロムハウスとはそのような意味だったのだな」
「はい、思いを届ける。僕はそうしたかったんだと気づけました」
「それなら、良かった」
遠くから呼ぶ声が聞こえた。見れば、藤沢さんが僕へ手を振りながら近づいて来ていた。
「お疲れ様です、有野君。よく頑張りましたね」
「いえ、色々とありがとうございました」
そう言うと、藤沢さんは決まりが悪そうに頬を掻いた。緊張の糸がほどけて気の抜けた藤沢さんの雰囲気もどこか柔らかい。
「私の方こそ、色々と私情がありまして。まあ、ありがとうございます。では、車に乗って下さい。社長が送って下さるそうです」
藤沢さんが僕の額を見て続ける。
「念のため病院に向かいましょうか」
社長も既に乗り込んでエンジンをかけて、藤沢さんもドアを開けて準備万端だ。
僕も後に続いて乗り込もうとしたが、動きを止めた。
大切なことを忘れてしまっていた。まだ一つ果たしていない約束があったのだ。
僕は二人に待ったをかけた。
「あの、その前に少し寄っても良いですか」
「構いませんが、どちらへ」
僕は空を見上げて指を差し、それから雲を見て笑って言った。
「喉が渇いたので、ラムネを二本ほど」
◆
栓を開け、勢い良く溢れ出したラムネで濡れた手を拭い、自分の不器用さ加減に苦笑する。
ゆらゆらと踊るビー玉に、瓶の中で作られる無数の泡。
瓶を空へ掲げ、小さな瞳越しに仰ぎ見た。深い青と、遠く見えるその茜色。混ざり合ったその味は如何様か。
瓶を傾け、口に含む。
ぱっと口内で炭酸が弾けた。涙が出たのだってこの刺激のせいだろうか。ああ、そうに違いない。
だって、空の味とは案外甘い物なのだから。
僕は二本の瓶をこつんとぶつけて笑い合った。
この物語は以上となります。最後まで読んでいただきありがとうございました。