これは切符であるそうだ
セールチラシを配って引っ切り無しに人が入っていくドラッグストアを過ぎ、角を曲がる。そして、アイスクリームが描かれたのぼりを置いたコンビニを越えた。
次の角を記憶の通りに進むと、大きな木のお出迎えだ。何度目かの対面に挨拶を交わし、その木を見つめる。相変わらず蝉さえも遠慮するような迫力のある木だ。幹に触れるとひんやりとして気持ちがいい。彼だけがこの暑さも堪えていないようだ。
さて、どうしたものだろう。僕は一度立ち止まった。どこからか聞こえる喧騒もここじゃそよ風のようだ。きっとあの葉は目であり、枝はそれを支える首であるのだ。屹立し、何かを見張っている。
そんな馬鹿げた考えが僕の中で生まれた。しかし、今となってはあながちあり得ない話でもないように思える。この身を以て体感しているからだ。飲まされた辛酸は記憶に新しい。
木の幹に体を預けて木陰に入る。肌で感じる僕一人じゃ小揺るぎもしない強大さ。今に地中から根を持ち上げて歩き出しても驚かない。
葉が揺れ、ひらひらと落ちてきた。僕の手のひらよりも優に大きいそんな葉だ。無遠慮に居座る僕への抗議か、僕は苦笑しながら葉を受け取った。それから、スマホを取り出して電話をかけた。葉は受け取ったが抗議を受け取った覚えはないのだ。
すぐにコール音が途切れ、こちらへ呼びかける声が聞こえる。どうやら外出中であったようで車や話し声で向こうは騒がしい。簡潔に用件を聞く言葉に僕も言い返す。
「聞きたいことがあってさ。母さん、僕を育てた時ってどんな感じだった?」
まず、困惑した声がした。いきなり何を聞くのかと。
「ちょっと気になって」
次に恨み節がやって来た。
「それはごめんって。僕も反省はしてるよ」
今度は自慢話が始まった。
「知ってる。何度も聞いたし」
最後に――。
「うん、ありがとう。僕の方こそ。それじゃあ、ちょっと頑張ってくるから」
通話を終え、木から渡された葉を翳す。失くしてしまった切符はきっとこれで足りるだろう。
「よし、行くか」
木に別れを告げ、僕は今度こそたどり着けなかった道を進み出した。その足は軽くない。けれど、地面を蹴るにはちょうどいい重さだ。
古びた外観に真新しい看板のコントラストが見えてきた。そんな事務所の前には煙が一つ。もうもうと吹かすその煙は狼煙のようだ。息を吸うたびに先端を赤くし、チリチリと灰を散らす。
「また怒られますよ」
「なに、君ほどじゃない」
その人、社長は煙草を灰皿に押し付けた。見れば、灰皿の上には他にも多くの吸い殻があった。
「すみません、待たせましたか?」
「いや、思ってたよりも早いぐらいだ」
社長が停めてあった彼の車をそっと撫でた。
「答えは出たのだろう?」
何についてかは聞く必要がない。社長が僕を見つめる目に書いてあったからだ。だから返事も手短に。
「はい」
「良い返事だな」
満足そうに社長が笑った。聞きたいことも聞けたのだろう彼が背を向ける。そんな背に僕は言った。
「フロムハウスと名付けた理由も考えてみました」
社長が振り返り興味の視線を向けてくる。僕はそんな社長相手に笑みを見せて言葉を投げかけた。
「今はまだ秘密です」
社長はまた大きな声で笑った。
胸をすかした僕へ社長が脅かすように眦へ指を当てた。ぐっと横へ力を入れて睨みつけるような目つきを作る。
「あの意地っ張りもこんな顔して待ってるぞ」
「はい、僕の思いを伝えます」
握りこぶしを作り、胸に当てる。
「なら、よし」
社長がそう言った瞬間、扉がバタンと音を立てた。静かに、されど力強く開けられたそこから声が投げかけられた。
「よしじゃありません」
社長の言葉にかぶせるように言ったのは藤沢さんだ。社長の背後の扉から出て来て僕たちを睨みつけている。その顔は社長が真似した以上にしかめっ面だ。よれたスーツと曲がったネクタイを身に着け、頭は乱れた髪が占拠している。
「何をしに来たのですか。有野君、あなたはこの件に手を出してはいけない。そう再三言いました。それに、危険ということが身に染みましたはずです。昨日の今日でそれを忘れたわけがない」
昨日から続く荒れた格好は藤沢さんが悩んだ証だろう。それほどまでに僕に向き合ってくれている。だから、僕も真正面からそれを受け止める必要がある。
目を合わせる。昨日はまともに見られなかったその目をしっかりと見つめた。
「僕は諦めたくありません。藤沢さんが言ったように忘れていません。きっとそうです。このままじゃずっと忘れられない」
藤沢さんの目が大きく見開かれる。瞳が揺れ、何かを見る。そこには不安や恐れ、そんな感情の一端があったような気がした。声にならない声を藤沢さんが上げた。言葉になる前にほつれて宙に溶けたのだ。それから微かに口を開いた藤沢さんが話す。
「……私もそうでした。以前、今よりもずっと前に一人の子供を担当したことがありました。ちょうど晴君ほどの子です」
項垂れて藤沢さんは淡々と語っていく。
「活発な子でした。それに利発で、優しく。まだ慣れていなかった私に対して気遣いをしてくれるそんな子でした」
藤沢さんがスーツの袖口をぎゅっと握った。背中を丸めて抱え込む。
「ですが、私がミスを犯した。私があの子に向けた思いが傷つけていた」
震える肩に、荒くなる息。語気がだんだん強くなっていく。
「私は逃げ出したのです。我が身可愛さに、その恐怖を遠ざけようとしてしまった!」
藤沢さんはまるで自分の首を絞めるみたいに強くネクタイを両手で掴んだ。
「そして、私は知りました。同情とは危険なのだと。切り捨てるべき感情なのだと。なので有野君、あなたにもわかって欲しいのです。どうか手を引き、私たちに任せてください。それが、最も確実で安全な道筋ですから」
強くネクタイを結び直した藤沢さんが背筋を正し、僕を説得する。その言葉は切実で、語ってくれた思いの通りに慮るもの。だけど、僕はそれを受け取りたくはなかった。
ふと久保さんに作った肉じゃがの匂いが鼻に届いた。あれは今でも失敗したと思っている。
結月さんのパフォーマンスが頭の中で再生された。あのステージはただ見たいと思った僕の身勝手な望みだった。
倉山の言葉を思い出した。あいつは僕が力になれるなんて言った。何も知らなかった僕に救われたのだとも。
だから、ありのままに僕の思いを、考えを伝えたい。
「――小さな頃、僕は駄菓子屋に行くことが大好きでした。皿洗いみたいな家事を手伝ってもらったお小遣いを持って行くんです。当然今みたいに大きな額じゃありませんでした。硬貨の一枚二枚を大切に握るんです」
拳を作る。開いても何も無いはずの手のひら。だが、僕には鈍く光るコインが見えた。
「扉を開けるとそれはもう凄い物でした。一面に並ぶ棚は宝箱で、そこにあったお菓子はどんな宝石よりも輝いて見えました」
すっかり困惑した様子の藤沢さんが胡乱げな視線を向けてくる。
「素敵な思い出です。ですが、それが何か関係が――」
僕は両手を開いて藤沢さんに見せた。突然の僕の行動に藤沢さんが眉間に更に深く皺を作る。それから、僕は再び拳を作った。
「だから、きっとそれで良いんです。安かろうが、稚拙であろうがかつてあった喜びは陳腐なものじゃなかった。どんなものだって替えられないそんなものだったんです。だから、良いんです。小銭を握りしめた子供が買えるそんなもので」
この感情は安っぽいものだろう。同情、憐憫そんなもので片付けられる。行動だってそうだ。こんなただの学生に何ができるのか。それでも僕は行こうと思う。この手にいっぱいの気持ちを抱えて。
藤沢さんが小さく何かを呟いた。それはまるで誰かの名前を呼んだかのようだった。
「君は、まだそんなことを言うのですね」
藤沢さんが手を開き、そこへ視線を落とす。何もない。重ねた年輪だけがそこにある。けれど、藤沢さんは確かに何かを見ていた。日差しが射す。それは彼の手の上で反射しきらりと輝いた。
「僕は晴君に同情しています。彼の境遇を思うと胸が締め付けられます。だから助けたい。僕の理由はこれです。藤沢さんはどうしてフロムハウスで働いているんですか?」
藤沢さんが拳を握りしめる。その手には微かに震えるほど力が込められている。すると、藤沢さんは固く結ばれたネクタイを解いた。一番上のボタンを外し、窮屈な首元を緩くする。そして、ため息のような声で言った。
「亡くなった後も苦しむなんて、そんなのあんまりじゃないか」
吐いた言葉は疲れが滲むもの。だが、そこには少しの安堵と零れた笑みがあった。藤沢さんはそう言った後、口に手を当てた。
「私もあなたのことを言えませんね。きっと同じなのですね」
はにかんで、頬を赤く染めたその顔は力強かった。
するとエンジンを吹かす音が響いた。そこに停められていた車の窓が開く。
「……正直なところ危険なことはしてほしくありません。ですが私には止める資格はありませんから。なので最後にもう一度繰り返します」
藤沢さんが僕を見る。その瞳に既に迷いや葛藤はない。僕も同じ目をして見つめ返すと藤沢さんは頷いた。
「危険だと感じたら直ちに引き返してください。ここだけは私も譲れません。いざという時は私も無理矢理にでも入りますので。それでは、一緒に頑張りましょう」
「はい!」
車のドアが開き、僕たちを待ってましたと言わんばかりに招き入れる。乗り込むと既に社長がハンドルを握っていた。
「話はまとまったな。それじゃあ行くぞ」
僕たちを乗せた車は様々な思いを燃料にして発進した。
◆
真っ白の外壁に黒い門扉。じりじりと照らす日差しを気にも留めずに今日も鎮座している。最後に僕が逃げ出した時と何ら変わりはない。そこに騒がしさはなく、至って普通の民家であると伝えてくる。だが、僕にはどこぞの城よりも遥かに堅牢な石垣が見えた。深く掘られた堀は外敵を拒み、迂闊に攻め込もうものなら瞬く間に打ち取られるだろう。
生唾を飲み込んだ。この門扉を越えるともう止まれない。戦場はもう目と鼻の先にある。いや、ここで終わりじゃない。その後も、最後の最後まで駆け抜けるのだ。
インターフォンを鳴らしてみたが当然返事はない。家の外から呼びかけてみても反応すらない。
「有野君、この家の鍵です」
藤沢さんが玄関の鍵を渡してくれた。始めは藤沢さんが先に入ると言っていたが、僕が無理を言って一番槍を任せてもらったのだ。
門扉を開け、玄関までの道を進む。一歩、また一歩と踏み出す度に昨日のことを思い出す。向けられた目や言葉、飛来する物。僕の性根を粉々にしたことは記憶に新しい。だけど、つぎはぎに直されたそれは前よりもきっと頑丈だ。
僕は大きく息を吸った。肺にこれでもかと空気を取り入れて膨らませる。口を大きく開けて僕は言った。
「晴君、遊びに来たよ!」
鍵を開け、僕は玄関へ踏み込んだ。出迎えるのは何度か見た散乱したサイズ違いの靴たち。そこに晴君の姿はない。それどころか誰かがいる気配すら感じられない。
廊下に広がった強い衝撃を受けてバラバラになったままのコップ。パズルのピース。僕は振り返り、背後にいる藤沢さんたちに話しかけた。
「晴君は二階にいるかもしれません」
「そうですね。まずはくまなく探しましょう。ですが一人にならないよう集まって探すよう――」
その瞬間、家の中から何か聞こえてきた。それは人の声などではない。まるでこの世ならざる怪物が上げた叫び声のようだった。
心臓が早鐘を打つ。その足音がもの凄い勢いで僕たちへ近づいていたのだ。
姿勢を低くして警戒する。すぐに音の正体はやってくるだろう。そして、ひと際大きな音が鳴り響き僕は身を固くした。音の正体が現れたのだ。
同時に背中からの衝撃とバンという音と共に僕の体は前のめりになった。
「藤沢さん!」
藤沢さんがやったのだと悟り僕は咄嗟に声を上げた。何を意図して行ったのか問おうとして目の前にあった金属の壁に二の句が継げなくなった。
側には先端の欠けた包丁が妖しい光を放っていた。欠けた刃は少し先の方に転がっていて、その光沢が何かを映し出す。瞬間、僕はほとんど地面に倒れ込むように伏せた。
僕の頭上を木の板が通過し、真っ二つに割れた。
背中から、手から、ありとあらゆる場所から汗が噴き出てくる。それは本来の役割を放棄して僕の体を容赦なく冷やしてくる。上手く歯がかみ合わず、ガチガチと鳴った。
外は眩しいぐらい晴れ渡っていたのにここは一寸先も見えない闇の中。
僕はドアノブに手をかけた。藤沢さんのおかげで怪我はない。だが、いつ次が来るかわからない。だから、分かれてしまうことはあまりに良くない。
しかし、一向に扉は開かない。その真っ黒な色の通りに重厚な金庫でも相手にしているかのようにびくともしない。鍵はかけていない。そんな余裕なんてなかった。
どれだけ渾身の力を込めて押してもその冷たい体が僕を眺めるだけ。
「藤沢さん! 社長!」
声の限り叫んでも届かない。この扉を隔てて違う世界になったのだと、何か恐ろしい力が働いていた。
再び怪物がうなりを上げた。床を、天井を、壁を傷つけながら迫ってくる。つんざく音は徐々に大きく鳴り止む気配などない。
僕は靴箱を開きそれを盾にしてしゃがみこんだ。こんな物に当たればひとたまりもない。
やがて、今度の脅威が姿を現した。それはフォークやスプーン、そしてナイフと続けざまにやって来た。まず、フォークが木の盾に突き刺さった。次にスプーンが押さえる僕の手を強く軋ませた。そして、ナイフが盾を潜り抜けて僕と顔を見合わせた。
直接目に入り込んで来た鈍く光るその銀色に僕は顔を青くした。後、ほんの少しずれていたら。そんな想像が頭を過る。
おどろおどろしい叫びが鳴った。
僕が掻いた汗はまるで怪物に垂らされた涎のよう。ひとたびこの靴箱の盾から出て身を晒せば容易く食われてしまうだろう。
荒くなった息を潜めて力を込める。大量の皿が僕を狩ろうと牙を見せてきた。歯を食いしばり、必死に耐える。押さえる手に力が入らなくなってきた。そして、どうにかそれを耐え切った瞬間、僕は盾をかなぐり捨てて走り出した。
滲んだ汗を拭い、強張った口角を指で押し上げる。膝から抜けてしまいそうな力を入れ直し、真っ暗に思える先を睨んだ。
「晴君! 僕はこんなものじゃ負けないよ!」
鼓舞する言葉は震える声で、晴君にだって聞こえるように大きく。すると、床が軋んだ。僕の足じゃない、別の物が僕に襲いかかってきたのだ。頭を低くし、前に転がって避ける。襲来したのはハードカバーの本だったようで鈍く重い衝撃を床越しに感じた。油断も隙も無い。
床に投げ出された僕はそのまま手を突いて立ち上がった。その足で晴君を探す。まずはリビングからだ。
欠けたピースが落ちているのを見届けてリビングへ立ち入る。いくつかの砕けたガラスの破片に、散乱したプラスチック。それはまさに猛獣が暴れた跡のようで理性のかけらも落ちていない。窓の先に見える景色も一片の光もない真っ暗だ。
テーブルと共にあった椅子がガタガタと揺れ出した。椅子はテーブルから解放され、宙を舞う。そして、曖昧な狙いのまま大きな窓へと突っ込んだ。ガラスにひびが入る。亀裂が生み出す悲鳴も聞こえていないのか更にテーブルまでもが暴れ出した。
この部屋に晴君はいない。
そう結論付けた僕は這う這うの体でリビングから抜け出した。けたたましく鳴り響く破砕音を背後にそのままの足で向かうは二階。子供部屋、リビングにいなければそこにいるはずだ。
足だけでなく手も床に突いて階段を駆け上る。すると、一瞬前まで足を置いていた場所が大きくへこんだ。さらに咄嗟に顔を伏せると、壁掛け時計がすれすれで通り過ぎた。
冷汗を流す。けれど、もうすぐそこに晴君がいる。僕は一層強く手足を動かして進んでいく。やがて、気づけば襲いかかってくる頻度が少なくなっていた。そのため、僕は思いの外あっさりと階段を上ることができた。
そして、遂に僕の視界の端に小さな影が見えた。手が見えたのだ。その手は最後に見た時よりも遥かに力なく、それでいて灰を被ったかのような悲しい白さをしていた。
全貌が見え、こちらへ振り返った晴君と目が合う。彼は静かにたたずんでいた。いっそ襲いかかっていたことが嘘であったかのような静けさを伴って。
今しかない。晴君に声をかけるのならここしかない。僕は渇いた喉に唾を飲み込んで声を出した。
「晴君。聞いてほしいことがあるんだ」
答えはない。冷たい瞳がただ僕を捉え続ける。その目の周りには強くこすった跡。
「僕には君の苦しみなんてわからない。どれだけ考えても理解なんてできなかった。だから――」
「わかるわけない」
意を決してその言葉を紡ごうとしたその時、晴君が口を開いた。その声は彼が発したものとは思えないほど低く、負の感情に溢れていた。
晴君の真っ白の手が赤くなる。目も充血して、真っ赤になっていく。
「お前なんかにわかるわけがなかったんだ、最初から!」
空気が重くなった、そう錯覚するほどの感情の爆発。その発露が伝播して部屋中が、いやこの家のあらゆるところが軋む。予感ではなく確信が僕に告げてくる。今まで以上の危険が迫っていると。
「そうだよ。わかるわけがないんだ」
僕はそんな警報を無視してその足を踏み出した。否定の言葉を肯定し、真正面から告げる。今度の返事は言葉ではなかった。襲来した本に交差した腕が痛みを訴える。そして、僕は次に飛ばされてきたランドセルが見えて体を九の字に曲げられた。
肺に溜まった空気が吐き出される。こみ上げてくる吐き気に、息ができない。それは僕の体を持ち上げて、僕が進んだ道筋を逆に辿った。宙に浮いた足では踏ん張ることもできず、彷徨った手は空気を掴むだけ。視界に入ったのは天井で、頭上にあるのは床。僕は頭から階段へ投げ出されたのだ。
その最中、僕の頭を占めるのは垣間見えた晴君の表情。彼は僕の言葉を聞き、深く傷ついたそんな顔をしていた。
どうして晴君は僕を招き入れたのか。それこそ、無防備に身を晒してあれだけ近づいた僕をすぐに追い払わなかったのは何故だ。ああ、そこに晴君の心はあるに違いない。
諦めてたまるか。
爪を立てて壁に手を突く。足を伸ばして段差に引っ掛ける。だが、止まらない。爪が欠け、剥がれてしまいそうな痛みを発する。踵が音を立てて打ち付けられた。その勢いに歯噛みする。この後待ち受ける恐ろしい想像が頭を過る。一人膝を抱えたままの彼の姿が容易に浮かんだ。
そんなの認められない。どうか、どうにかして、いや無理だ。ここからはどうやっても間に合わない。
焦りでまとまらない思考の中、最後の段が視界を掠めた。僕の目がその絶望を捉えてしまった。
「まだ――」
そう口に出そうとして出せなかった。言葉に出す時間も無かったのだ。
どうにか、せめて頭だけでも――。
縋る思いで体を丸め、目を瞑って痛みに備えた。しかし、僕が想定していた衝撃は一向に来なかった。
「大丈夫ですか、有野君! 怪我はしていませんか!」
気づけば僕は藤沢さんの腕の中にいた。彼は体全部で僕を受け止め、バランスを崩して腰を打ちながらも必死にこちらに心配の眼差しを向けていた。
「藤沢さん、どうやって中に……」
呆然と呟く。ドアはどうやっても開く気配などなかった。切り離されたこの家の中に他の出入り口など存在しないはずだ。
「リビングの窓からです。私は締め出されてから社長と共に入れる場所を探していました。ですが、いずれも入ることはできませんでした。その時です。けたたましい音が聞こえたのは」
よく見れば、彼のスーツは見るも無残な姿になっていた。真っ黒だったはずが埃で汚れて白くなり、そして解れの無い生地にもガラスで引き裂かれた跡ができていた。
「肝が冷えました。入ってちょうどあなたが落ちて来たのですから」
藤沢さんが安堵の息を漏らす。
「すみませんでした、無茶をして。だけど、どうしてもこれを傷つけたくなくて」
僕は腹に抱えたランドセルを藤沢さんに見せた。ビニールに包まれたそれはきっと晴君によく似合うであろう黒色だ。
「それは……。ええ、そういうことですね」
藤沢さんが頷き、僕の手からランドセルを預かる。そして、指をピンと立てた。
「注意は覚えていますね。この状況は明らかに危険です。引き返すべきです。ですが、それはあなたもわかっているでしょう。なので、後一度だけですよ。私も盾ぐらいにはなれますから」
そう言ってくれた藤沢さんに返事をしようとして、血相を変えた彼に引っ張られる。すると、一瞬前まで僕がいたその場所に大量のおもちゃが突き刺さった。
「来ました! 有野君も早く、下がってください!」
藤沢さんに手を引かれ、リビングへと退避する。つかの間の安堵も消え去り、息を飲む。
ごろりと転がった人形の首。角が潰れたおもちゃ箱。飛び散り、跡形も無く、おもちゃが壊れていく。そして、悲痛な顔をした晴君がリビングに現れた。
「……出ていけよ。なんでまだいるんだ」
晴君は顔を顰めて唇を噛み締めた。目は潤んでいて、震える手で僕を指差した。
「早く、早く!」
晴君が怒声をあげると同時に無数の凶器が僕たちを襲う。彼が涙を流せば、突然天井から鉄製のおもちゃが降ってきた。それを後ろに倒れて避けてもつかの間、爪を噛めば左右から挟むようにテーブルとテレビが飛んできた。それらが飛ぶ瞬間、つんざく音が鳴り響く。床を叩く振動を背中で感じる。
そして、それを地面に伏せてどうにか避けた時、今度は前方から僕たちへ到達した脅威があった。リビングは十二畳ほどの広さ。僕たちの背後には壁があり、横にはテーブルとテレビがひっくり返っている。
だが、迫りくるそれに僕は動かなかった。動けなかったわけではない。ただ、次の行動に移す準備をしていたのだ。
僕の前で躍り出た後ろ姿を目で追い、床を踏みしめる。前方には裏返ったソファに椅子。それらの位置を確認し、備えた。
「有野君、今です!」
そうして、藤沢さんが身を乗り出して庇ってくれたその瞬間、僕は晴君へ向かって全力で走り出した。
「ありがとう、ございます!」
感謝を更なるエンジンに駆け抜ける。足を狙ってきたペンを飛び越え、上半身へ向かって来た電子レンジには身を翻した。肩に金属の冷たい感触を感じるほど間一髪だった。
僕の背後で砕ける音が鳴り、晴君が目を丸くした。僕が一歩近づく度に頬を引きつらせ、闇雲な叫び声を上げる。口の端に付いた唾が白く滲み、止めどなく涙を流していた。
転がった椅子を越え、裏返ったソファに手を突く。もう僕と晴君を遮る物は無い、後一歩進めば届く距離だ。何かが襲って来るよりも必ず先に着く。
「僕にはわからないから、考えたんだ! わかることを、君と僕とで同じことを! それは――」
手を伸ばす。ああ、ようやく届いた――。
その瞬間、僕の頭は額に強い衝撃と砕ける何かによって仰け反った。晴君の肩を指先が掠ってがくんと首は後ろを向き、視界が揺れる。昨日の酔いなんて目ではないほど世界が輪郭を失っていく。藤沢さんが叫ぶ声も、光も遠くなっていった。
その時、今朝の母との通話を思い出した。あの時母が言った言葉は、僕が言ったのは――。
ピカピカのランドセル。山のようにあったおもちゃたち。その全てが晴君に送られた物で、そこに込められた思いはきっと。
「――届けたい思いがあったんだ。伝えたい言葉があったんだろ!」
震える膝に力を込めた。半開きになった泡を吹いた口を、固く閉じて歯を食いしばる。力なく下りてきていた瞼の先に赤い血が滲んだ。額が裂けたと認識する間も僕の鼻を通り、顎へ伝っていく。涙と血が入り混じった目を開いた。それでも、僕は止まらない。一歩。もう一歩だけ。
「僕も、君も愛されていた。それが僕たちの共通点で、かけがえのないことだったんだ!」
震える肩に手を添えて、涙に濡れた顔を抱きしめる。ようやく届いた手は頼りなく、力が入っていない。それでも暴れて抜け出そうとする晴君を離しはしなかった。
「離せ! 僕が待ってるのはお前じゃない!」
「わかってる。でも、嫌だ。このままじゃ君の思いは伝えられないから!」
「嫌いだ! 勝手なことを言うな!」
「だから、一緒に行こう!」
「うるさい! 出てかないなら、追い出して――」
僕を見上げた晴君の顔に血が垂れて、彼は動きを止めた。彼は額に落ちた血を指でなぞり、掬い取った。眼前に掲げて真っ赤な血を眺める。すると、彼は顔を真っ青にした。
「血が、出て……」
動揺を露わにした晴君が言う。その目線が右往左往と泳ぎ、凄惨たる場となったリビングを見た。砕けた思い出たちに生活感すら無くなった荒れ具合。晴君の目が愕然と見開かれた。
「……どうして、そんなになってまで。こんなにぐちゃぐちゃになのに……」
晴君が僕の腕を掴んだ。その手は震えていて、その声は不安が滲んでいた。
「もちろん怖かったよ。どうなるんだって思った。でも僕も、悲しかったから。それに僕は言ったはずだよ。遊びに来るって、何度も。今日も遊ぶには良い天気だったからさ」
僕がそう言うと、晴君は顔を僕の胸に押し付けた。腕を僕の背中に回し、泣き声を響かせる。
「ごめん、なさい。ごめんなさい! コップを投げてごめんなさい!」
そこにあったのは自分のしたことに気づき、後悔と失望に苛まれた姿だった。晴君は僕の額を見て、くしゃくしゃに顔を歪めて更に涙を流す。
「大丈夫だよ。僕がしたいようにしただけだから。だから、もう一度伝えさせて。君の中にある思いを僕はわかったんだ。案外、僕たちは似ていたみたいだから」
晴君の頭を撫でる。しゃくりあげるその肩が収まるまで優しく、静かに。
「君は、お父さんとお母さんに感謝を伝えたかったんだね。この家の中、一人で待って」
寂しく、明かりも点かないままの家にいた。そんな時に僕がのこのことやって来て荒らしていったんだ。そんなの誰だって怒るはずだ。
泣きべそをかいた晴君が小さく頷く。
「ごめんね。たくさん君を傷つけた」
晴君が首を横に振った。目をぎゅっと瞑り、必死に頭を振り回す。
「一緒に遊んでくれて嬉しかった。楽しかった。それで凄く悲しくなって。でも、僕がわがままを言っちゃったから……。僕も、ごめんなさい」
そう言うと晴君はポケットから何かを取り出し、僕に手渡して来た。受け取ると、それはモグラドンが印刷された絆創膏だった。
「血が出てるから、これ……。いらなかった……?」
僕は髪をかき上げ、傷口を不安に瞳を揺らした晴君の前に差し出した。
「見えなくて上手く貼れそうにないんだ。貼ってもらってもいいかな」
「うん!」
真剣な表情をした晴君が僕の額にそっと傷口へ触れないように絆創膏を貼り付ける。ペタリと何度もしっかりと貼れているかを確認し、僕の顔を穴が開くほど見つめた。やがて、満足してほっとした晴君に僕は言った。
「そうだ。もう一枚もらえるかな?」
「まだ、どこか怪我が!」
「違う違う」
僕の顔を両手で掴み、必死に傷を探す晴君をなだめる。正真正銘、僕に絆創膏が必要だったのは額だけだ。
「なら、良いけど」
僕の意図を図りかねて戸惑いながらも、もう一枚晴君は絆創膏を渡してくれた。僕はそれをすぐに手に取り、首を傾げたままの晴君に貼り付けた。
「僕も君を傷つけたから。これでお揃いだね」
きょとんとした晴君が自分の額を指でなぞり、僕の額と見比べる。何度も僕と晴君の間を彼の指が行き来し、そして唇をきゅっと噛むと鼻をすすった。
「……うん!」
僕はその顔を見た瞬間、よろめきたたらを踏んだ。微かに気が抜けたのだろう。晴君に悟られるわけにはいかないとすぐに気合を入れ直す。そして、僕は晴君に背を向けて膝を曲げた。
「よし、それじゃあ乗って」
そう告げると、晴君から戸惑っている気配が漂った。一向に動く様子も無く、僕の背に重さが加わらない。
「おんぶだよ、おんぶ」
「それはわかるけど……」
「――君の思いを伝えに行こう!」
僕が言わんとしていることを理解し、晴君が息を飲んだ。
僕はただ晴君と仲直りしに来たわけではない。彼の未練を晴らしに来たのだ。晴君の未練とはつまり遊ぶことでもなければ、食べることでもない。つまるところ、ここに未練はないのだ。だったら、行くしかないだろう。
「……無理だよ。僕はここから出られないし。それになんて言えば良いかわからないよ……」
しかし、晴君は意気消沈として否定した。駄目な理由を挙げて声を小さくしていく。口ごもるその様子は迷いが滲んでいた。
「言いたいことを言えば良いんだ。ありのままでいい。きっとそれが一番真っすぐに伝わるから」
だから、必要なのは後押しだ。背中を向けて僕は晴君の背を押すべく言った。
「それに僕には切符だってあるんだ。ほら、こんなに大きな切符がね。これなら君も乗れるに決まってる」
さらに、僕はポケットにしまっていた大きな葉を取り出して晴君へ見せびらかした。ひらひらと葉を振っておどけみせると、とうとう観念した晴君が破顔して僕の背中に飛びついた。
「何それ! そんなの切符にならないよ!」
「そうかな。意外とどこかで使われているかも」
僕の肩を晴君が更にぎゅっと掴んだ。ぐりぐりと背中に顔を押し付け、そして震えながらも決意を秘めた声で僕に告げた。
「――お願い、連れてって。パパとママのところに」
「承りました!」
立ち上がってから少し、最初の関門はすぐそこにあった。
耳元で晴君が生唾を飲み込んだ。首に回された手にも力が入り、緊張が伝わってくる。
目の前には金属製の壁。不気味な凹凸を身に纏い、全てを拒絶しているかのような存在感。このドアの一筋の光も通さないその頑固さには僕もうんざりしたばかり。
始めはリビングの窓から出ようと思ったが、晴君がここからが良いと言ったのだ。あくまでも正面から出たいのだと。
だから、僕もその覚悟に応えたい。
「目を瞑ってても良いよ」
「ううん、大丈夫。だって、切符があるみたいだから」
後ろに手を回し、頭を撫でると固い決意の声が返ってきた。
晴君の頭から手を離す。ずっしりと背中の重みが増したと感じたのは気のせいではないだろう。だが、おかげで地に足が着いた。
鍵は閉じていない。歪みも無ければ、他の障害もない。僕はドアノブに手をかけて、腰を低くしてドアを全身全霊で押した。
すると、すぐに音を立ててドアが動いて光が差し込んできた。それは僕の足、腰と徐々に照らす場所を増やしていく。
次に纏わりつくような熱気が入り込んだ。熱された空気が冷や汗ではない汗を滲ませてくる。
最後に蝉の騒々しい叫び声が耳に飛び込んだ。晴君がわっと驚いて耳を塞ぐ。
蒸されそうな暑さに僕の口角は上がった。隔たれた世界が繋がっていく様子に心が弾む。気づけば晴君も僕の上で一緒にドアを押していた。
しかし、その動きも突如として鈍ってしまった。今この瞬間にドアが何重にもなったかのように重さを増したのだ。
「この!」
悪態をつき、歯を食いしばっても微かな成果を見せるのみ。この期に及んでまだ僕たちを縛る何者かがいた。
顔を真っ赤にして力を押す。どこかしらの血管が切れても不思議ではなかった。
それでも、一向にドアは動かなかった。まさに岩のようなこれに対しても、焼け石に水と言った意味すらあったかどうかもわからない。
線引きされた中と外。明確で残酷な区切りがここにはあった。
「空は青いんだ! 雲は白くて、変な形。それに暑くって、うるさい! この先に広がってるのは大体そんな感じ!」
だから、僕は思い浮かんだ光景について言ってやった。
その人にとっての世界が広がる速さとは一定ではない。
幼い頃は手を伸ばした範囲が全てであり、やがて自分の足が届くまでとなる。そして、いつか大人になるとその世界は球状になるだろう。
得られた情報がその人の世界を形作るのだ。すなわち、晴君にとっての世界の広がりとは遅々としたものだったのだ。
「本当?」
「本当!」
素朴な疑問に率直に返し、扉を押し退けていく。
その時だった。どんな古い建物でも聞いたことのない気味が悪い音を立ててドアが動いていく。僕はそれを見て裂帛の気合を入れ、声を上げて更に押した。
そして次の瞬間、風が吹いた。それはこの時期には珍しくからっとした風で、心地良いものだった。さらに風は止まず、この家の中に今見える全ての空気が流れ込んだと錯覚するほど強く吹き、鬱屈とした全てを吹き飛ばしたのだ。
目の前に広がった光景に晴君が感嘆の声を上げた。見ずともきらきらと輝いている瞳を想像できる弾んだ声だ。
背中で前のめりになって僕へ先に行けと無意識に急かしても来ていた。
勢い余って転がりそうになったのを堪えて、僕は先を睨む。まだ、何も終わってなどいない。これが最初の一歩だ。
その役目を終えて哀愁漂うドアを更に蹴飛ばして、先を急ぐ。
「有野君、忘れ物です!」
そんな僕にどこからか藤沢さんが声と共にランドセルを投げ渡してきた。
周囲を確認すると、ドアの外側で腰を押さえて蹲っていた社長と共に藤沢さんがいた。リビングから出て、外からドアを開けようとしてくれていたのだろう。
「ありがとうございます! それじゃあ行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい!」
端的に告げて僕たちは走り出した。向かうは晴君の両親が待つ場所。これが正真正銘最後の仕事だ。