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フロムハウス  作者: KN
17/17

その酒は苦そうだ

 僕の足は帰巣本能とでも言うべきか、気づけば自宅付近まで進んでいた。そんな僕の家の前に倉山は立っていた。夜にも関わらずサングラスなんかをかけて僕を見てくる。

「こんな時間に予定はないだろ? 良い店、知ってんだ。行こうぜ」

 言うやいなや僕の返事も聞かずに倉山は背を向けた。

「……悪いけど、そんな気分じゃない」

 今は何も喉を通りそうにない。胸に空いた穴から溢れるだけだろう。そんなことの何を楽しめと言うのか。

「なるほどなあ。金の心配か? だったら安心しろ。ちょうどバイト代が入ったところなんだ。特別に奢ってやる」

 自慢するように倉山が腕を見せてくる。暗いせいで分かりづらかったが、彼の腕は以前会った時と比べてこんがりと焼けていた。

「……そっちのバイトは楽しかったんだ」

 以前言っていた海の家のバイト。きっと、心地の良い潮風を浴びて、休憩時間には盛大にはしゃいだのだろう。

「何だ、そう言うお前は楽しくなかったのか?」

 ニヤついた倉山がからかってくる。その瞬間、僕の頭にカッと血が上った。

「楽しいわけなんかない! 苦しくて、悲しくて、何もできなくて……! それを能天気に、お前は! ……いや、違うんだ。ごめん。何でもない。とにかく今は無理なんだ」

 倉山が既に歩いていて良かった。手の届く距離にいれば掴みかかっていたかもしれなかった。おかげで八つ当たりの怒りは勢いを失った。

 行き場を失った僕の手は自分の胸の辺りを掴む。くしゃりと服を握り、更に力がこもっていく。そして、僕の胸はひび割れた。

 したり顔で倉山はそんな僕へ更に言う。

「バイトで色々あったから、と。バカ言え、お前だけじゃない。俺だって面倒だと思うことぐらいあったさ。焼きそばに塩をかけなくて良いんじゃないかと潮風が吹きやがる。焼けた肌はひりひりとずっと痛むし。海に入ってみろ。そうなりゃ、悶えて遊ぶどころじゃない!」

 一転して悲痛な様相になった倉山は滑稽に腕をさすり、似合っていないサングラスを取って目元を拭う。

「だから、行くんだろ。残念ながら嫌なことこそ消えない。黙っててもずっとため込むだけだ。酒を飲んで吐き出せば少しは気が晴れるもんだ。バイトの先輩としてのアドバイスだ、ありがたく受け取れよ」

 かと思えば、サングラスの形で残った白い目元の倉山があっけらかんと続ける。目線は再び前へ、彼の頭の中ではつまみやお酒がずらっと並んだテーブルがあるのだろう。倉山はもう飲んだくれたみたいに落差の激しい感情で今度はうきうきと体を弾ませた。

「……前にも言ったけど、僕はお酒が苦手だ。どうしても舌に残る苦みが受け入れられない。あんなのを飲む奴の気が知れないよ」

 すると、倉山は笑い出した。腹を押さえて堪えきれないと荒い呼吸を繰り返す。

「違いない! 気が触れてるな! ああ、そうだ! 酔っぱらって正常さを捨てるんだ。ここが野生だったら間抜けも良いとこだ!」

 だが、そう言った倉山は足を止めない。街灯に照らされて間抜けな影を躍らせながら、夜を着こなしている。外套の先まで神経を通すようにひらりと布切れが僕の前に伸びた。

 僕はしわくちゃになった布から目の前の物に手を伸ばす。考えてのことじゃない。おそらく悪い何かの物質が僕の血に流れたのだ。どうしてだろうか。頭の中は疑問の声で埋め尽くされていっぱいだ。だけど、不思議と止まろうとも思えなくて僕はするりと僕の手を避ける布を追いかけて一歩踏み出した。

 アスファルトの反対を押し切って流れる外套を逃がさんとばかりに追いかける。晴君のこと、久保さんや結月さんへの罪悪感。羞恥心も携えたぐちゃぐちゃのまま僕は倉山に並んだ。

 不意に倉山が振り返る。

「お前も同じだな」

 返事もせず僕は倉山に着いて行った。


 ◆


 威勢の良い店員の声に適当な相槌を打って席に着く。

 グラスをぶつけ合わせる音、こんがりとタレをまとった料理の匂い。一人で来ているサラリーマン、佳境を迎えたであろう宴会。暖簾をくぐると夜の静けさは何だったのかと思うほどの別世界が待っていた。

 僕と倉山は店の奥のテーブル席に案内された。席に着いてすぐに倉山が小皿を取り分けて、タレを垂らしてそこに卓上の容器のニンニクを溶かす。壁に貼られた手書きのメニューが目に飛び込んで来る。どれも赤字ばかりで大差がないように思える。まるで全部おすすめだと言っているみたいだ。

 倉山が店員を呼び止めた。メニューに目をやらずにどんどん注文していく。

「まずは、塩キャベツ。後はそうだな。かわとももを五本ずつ。つくねと砂肝も。……ああ、それとビールを二杯」

 すらすらと行われる注文に僕が追いつけないでいると、店員が確認をしてテーブルから離れていく。

「僕は飲まないって言っただろ」

 我に返った僕は聞き逃せない注文に文句を言う。何度も飲めないと言ったはずだ。ただでさえ浮かばない気分をこれ以上下げたくない。

「何言ってんだよ。今更間抜けな姿を見せたくねえってか」

「違う。嫌いだって言ってるんだ」

「子供でもあるまいし、好き嫌いは良くないぞ」

 明らかにバカにされている。こちらを見る目にからかいの色を隠そうともしないでいる倉山にうんざりする。何を言っても意味がない。後で他の飲み物を頼もう。

 やがて、店員がお通しと二つのジョッキを持ってきた。ちょうど網の上で炭火に焼かれる串で刺された肉の音も聞こえてきた。脂が跳ねて、僕へ香ばしい匂いを届けてくる。

「ほら、来たぞ。早くしないと泡が無くなるぞ」

 倉山が待ちきれないとテーブルに置かれたジョッキを手に持った。彼の手の中で泡が弾ける。黄金色の上に映える白が波打つ。他の飲み物を頼もうとする僕を急かしてくる。

「一口で良いから飲んでみろよ」

 僕が手に取ることをしないのを見た倉山がそう言った。ビールに目を向ける。思えば避けてばかりでこうしてまじまじとビールを見たことなんてなかった。黄金色と白はまるで、眩しいくらいの太陽と雲のようだ。空を上から見下ろしたらこのように映るかもしれない。

 あの空を飲み込めていたのなら、きっと――。不意に口の中に苦い味が過った。それはどうしても飲み下せなくて、躊躇している内にぶくぶくと膨らんでいく。苦しさに呻いてもそれ以上の苦しみが他にもある。

 喉がカラカラと急速に渇き始めた。砂漠で見つけたオアシスのように僕はジョッキを手に持った。

「乾杯」

 ほとんど一方的に倉山がジョッキをぶつけて来て、勢い良くビールを流しこんだ。ごくごくと喉を鳴らす倉山に合わせて僕も雲に口を付けた。

 ごくりと、ほんの少しだけ。泡が舌先をくすぐり、次いでビールの炭酸がやんちゃに暴れた。思わず口に手を当てる。そして、試しにもう一度口に含んだ。一度目よりも多くを飲んだが結果は変わらない。喉を通る実感だけがそれを教えてくる。

「良いもんだろ」

 ジョッキを置いて白いひげを作った倉山がにやける。僕はジョッキにできた結露をなぞり、少し減らしたジョッキを傾けた。

「……よくわからないけど。なんか味が変わった気がする」

「と言うと?」

 笑みを深めた倉山へ言う。

「苦くないんだ。いや、苦みはあるけど気になるほどじゃないんだ」

 ジョッキを更に傾ける。心地の良い喉越しがまた僕に先を急がせる。僕はジョッキを置いてちょうど運ばれて来た串にかぶりついた。キラキラと照っている脂に、茶色に色づいた表面がパリパリと食感を生み出した。噛む度に肉汁が溢れて旨味が溶け出す。繁盛しているのも頷ける美味しさだ。

 これでよくわかった。僕の味覚がおかしくなったわけじゃない。何か変化があって僕の舌がビールを拒絶しなくなったのだ。突然の変化に困惑した僕はグラスを一気に傾ける。

 苦くない。あれだけ嫌っていたアルコールが胃に流れていく。麦だなんだと言われてもわからないがこの風味に惹かれて仕方がない。苦手の克服と言ってもいいだろう。僕はまた一歩大人に近づいたとも幼稚な自慢もできるかもしれない。

 くらりと視界が歪んだ。慣れない酒を一気に飲んだからか、それとも空きっ腹にアルコールを流し込んだからか。顔が熱くなり、ほとんど中身の無くなったジョッキから手を離す。

「良い飲みっぷりじゃないか。そんじゃ、俺も」

 僕よりも先に飲み切ってしまった倉山が次の一杯を頼もうと楽しそうに店員を呼びつける。彼は適当につまみとハイボールを頼み、注文を終えると串を手に取り豪快に肉を嚙み切った。残った串を手で弄んでいる。

 行儀の悪い倉山を注意しながら僕も肉を食べていくと、店員が追加注文したものを運んできた。愛想良く倉山が受け取り、テーブルの上に枝豆やフライドポテトと小皿を並べていく。

「ほら、お前の分」

 倉山から渡されたジョッキを礼を言いながら受け取ってこれまた一気に傾ける。透明な液体に氷が入っており、火照った顔を冷ましてくれた。ビールとはまた違った味わい深さだ。何という名前のお酒だろうか。

 僕が後味の残らない爽快感に気を向けていると、早々と次のジョッキを空にした倉山が口を拭った。

「ところで、だ。どうして苦く感じないかわかるか?」

 そんな唐突な倉山の言葉に対して僕は適当に答えようとしたが、彼の目を見て黙りこくった。どうにもその目は真剣な光を宿しているように見えたのだ。僕は氷を咥えて考え込む。

 僕の味覚が大人になったから。違うな。僕は氷を一度噛んだ。

 この店のお酒が特別上等な物だった。更に氷が細かくなる。値段だってそこらの物となんら変わりやしないはずだ。

 考え込んでいると、ぐらり、視界が傾いた。過剰な数の照明が目に入る。情けなくも僕の思考が方々へ散っていく。いつか見た千鳥足がその人にとっては真っすぐ歩いているのだと実感する。

 アルコールが体中を駆け巡ったのだと悟るも僕は行儀悪くもたれかかってしまう。体を起こす気になれない。

「仕方ないな。ほら、これ飲んどけ」

 渡されたのは僕が今の今まで飲んでいたジョッキ。呆れた声には少しの喜色も含まれていた。

「いらない」

 その手を押し返す。微かに残った危機感はこれ以上のアルコールの摂取は認めてはいない。

「バカだなあ。酒じゃない、お前が二杯目に飲んだのはただの水だ」

 身を起こす。ふらついたが咄嗟に手で支えて倉山の手からジョッキを奪い取る。匂いを嗅ぎ、口に含んでみる。倉山の笑い声が響く。そして、僕の顔はまたまた赤くなった。

「俺は一口だけ飲んでみろって言ったんだ。慣れてない奴が飲みすぎちゃ大変なことになるだろ、普通」

 至極真っ当な言葉だが、納得がいかない。あれだけ僕に飲めや何だと言いながら梯子を外された気分だ。受け取った水で唇を湿らせながら倉山を睨みつける。どうやら僕は慣れない雰囲気にも酔ってしまっていたようだ。もしくは現実逃避でもしたかったのかもしれないが。

 頭が働きを取り戻し始めて自嘲していると、脳内で倉山の言葉が蘇る。どうして苦く感じなかったのか。結局答えの出なかった問い。だが、倉山の口ぶりでは彼は何か答えを持っているようだった。

「苦いに決まっていた。今も僕自身、お酒を飲めたことが信じられない。なあ、お前はどうしてだと思ったんだ?」

 倉山が僕の言葉にいつの間にか頼んでいた別のお酒を飲んでから一度深く息を吐いた。彼の目が手元のジョッキへ向く。カラカラと氷がぶつかる音を鳴らし、中で浮いているレモンが揺れる。

「俺は始めから別に酒は嫌いじゃなかった。苦みだっていいアクセントだ。まあ、そこは単純な好みの違いだ。けどな、多くの人は酒を楽しむ。それも、始めは全然飲めないと言っていた奴もいつの間にかだ。味覚の変化か? なくはないだろうが、俺はこうも思うんだ。もっと苦い何かがあったんだと」

 そう言ってジョッキを傾ける倉山の姿はひどく大人びて見えた。

「言ってしまえば舌が麻痺してんだよ、皆。辛いこと、悲しいことが絶えず襲ってきてはどれが苦いかなんて忘れちまう。お前もそうだろ」

 ああ、まだ酔いが残っていた。そうに違いない。胸の辺りからむかむかとした何かが上がってくる。喉元まで来るも耐え切れず僕は吐き出した。

「……助けたいと思ったんだ。助けられるとも思っていた。けれど、どうして助けたいのかわからなくなったんだ。怖かった。僕は向けられた目をまともに見られる確たる物を持っていなかった」

 つらつらと出る言葉は止まらない。堰を切った僕の感情はないまぜになって溢れだした。

「申し訳なかった。僕の行動は彼を傷つけていたんだって。僕は、どうしてもその苦しみに共感ができない! 理解を示してもそんなのはただの薄っぺらな言葉だ! 今だってそうだ! まだ諦めきれないでいる! だけど、かわいそうだ、辛いのだろうとそんな考えばかりが浮かぶんだ!」

 テーブルに打ち付けた手によって食器が弾む。ジョッキが倒れ、テーブルの上が水浸しになった。僕の目から雫が一つ落ちて波紋を生んだ。浅ましくも苦悩する自分に嫌気も差してくる。僕じゃない、本当に辛いのは。

「全て言われたことの方が正しい。ああ、そうだ。間違っているのは僕の方だ! 間違っている、そうに違いない!」

 そこまで言い切ると沈黙が下りた。周囲の騒がしさとは全く違う重苦しい静けさ。テーブルから滴った水がポタポタと床へ垂れていく。顔を上げられなかった。いっそ罵って欲しいのかもしれない。薄情な僕をこき下ろして笑ってくれれば諦めがつく。

「そんなもんか」

 だが、返ってきた言葉はこれだった。特に何かを感じたのでもなければ、僕に対して無感情な物。

 いっそ血でも流れるほど強く唇を噛んだ。手のひらには爪が刺さって皮膚が抉れている。

 倉山がジョッキを置いた音がした。どんとテーブルが揺れる。

「……ごめん。聞きたくもない話を聞かせて」

 独りよがりに僕は何を考えていたのか、何も知らない倉山に言ったところでどうにもならないだろうに。席を立とうと、体を起こす。

「未練ってのはそんなに難しいんだな」

 逃げ帰りたくなった僕だったが、倉山が何か語り始めたことで動きを止めた。衝撃で頭が回らない。彼はそんな僕の様子を見て先を続ける。

「何だ、知らないとでも思ってたのか? 知ってるに決まってんだろ。だから、薦めたんだ」

 突然振りかざされた事実に開いた口が塞がらない。疑問に思ったことはなかった。思い及んではいなかった。けれど、考えてみればそうだ。こいつはそもそもどうやってフロムハウスの存在を知ったのか。

 テーブル越しに身を乗り出して倉山の肩を掴む。

「お前……。わかってたのならなんで教えてくれなかった。こんなに辛い思いをするなら知らない方が、他のバイトでもした方がずっとマシだった!」

 せめて始めからわかっていたのなら、割り切ることだってできたかもしれない。深入りする前に身を引いて諦めのついた可能性もあるはずだ。

 倉山が僕の手を振り払う。その有無を言わせない力強さに僕も少し冷静になる。

「悪かったって。でも、まあ、こっちにも必要なもんがあったんだよ」

 言葉とは裏腹に悪びれもしていない様子で倉山は更にお酒を煽る。そして空になったジョッキを眺めて、遠巻きにこちらを見ていた店員に更にお酒を頼んだ。

「だから、今は飲んでる場合じゃない! なんでお前がフロムハウスについて知っているんだ!」

 そそくさとお酒を持って来た店員が目を丸くしているのもお構いなしに僕は倉山へ詰め寄った。けれども、彼はその態度を崩さずに酒を飲んでいく。

 やがて、今度のジョッキが空になってようやく倉山は口を開いた。

「四年前だ。はっきりと覚えてる。まあ、俺は世話になったわけだ、フロムハウスに」

 赤ら顔で語られる言葉に僕の緊張感は瞬時に高まった。つまり、倉山が語らんとしている内容について考えが及んでしまったからだ。

「おい、それってまさか。僕は知らない。お前はそんな素振りなんてちっとも見せなかったじゃないか」

 記憶の中を掘り返してみても何らおかしな所は思い出せない。

「そりゃそうだろ。言ってないんだから。むしろ知ってたら俺は腰を抜かすね」

 どこか軽薄に、軽口をこぼすみたいに倉山は言う。

「俺も、親父も縋ったよ。去っていくあの人に何かないのかって、どうにもできないのかと。そんな時に見つけたのがフロムハウスだ。未練を解消してくれるって聞いて、実際に俺たちも立ち合った。そしたら、最後は笑ってた。もう一度あの姿を見ることができたんだ。そして、皆で良かっただなんて言って」

 ここではない、どこか遠くを見ているみたいに倉山が口角を上げた。

「でもまあ、悲しみってのはあるわけで。しばらくは沈んだままだった。いなくなったってのを実感する度に泣きそうになった」

 暗くなった口調に僕の心も沈む。知っていたら何かできたはずだ。励ますことだって、いや僕は倉山の悲しみに気づくべきだった。今の今まで知ろうとしていなかっただけで、本質はずっと変わっていない。結局のところ、僕は他人のことなど見えていないそんな奴なのだ。

「――そこでお前が俺の手を引いた。まあ、知らねえだけだったろうけどな」

 目が合った。穏やかな瞳が僕を見る。教室でくだらない話をしていた時のように砕けた態度で僕を指差した。

「こっちが何度断ったって遊びに誘いに来るし、部活をさぼろうものなら引きずってきやがった。ああ、うんざりしたな、あの時は!」

「……僕はお前の気持ちなんか考えていなかった」

「知らなかったからな」

「……僕が遊びたいだけだった」

「だろうな」

「……お前を傷つけていたんだろ」

「ああ、傷ついたとも。人の気も知らないではしゃぎやがって」

「……怒ってるのか?」

「呆れてんだ」

「……悪かった。今更だけど、謝らせて欲しい」

「やだね」

 倉山がその言葉と共に椅子を倒して立ち上がった。テーブルにバンと手をついて僕へと身を乗り出して来た。

「いいか、お前は賢くなんかないし、大バカだ! 考えなしに突っ込んで頓珍漢なことも言う。無神経だ、間抜けだ! けどな、そんなお前だったから俺は今ここで一緒に飲んでんだ!」

 突きつけられた言葉に腰を抜かす。椅子を倒して僕は後ろに情けなく転がった。それでも倉山の勢いは収まらない。

「お前はスーパーヒーローじゃねえ。空だって飛べない。こんなダサい姿晒してる奴がそんな高尚なものなわけがない! だから、俺は薦めたんだ。きっと力になれるんだと!」

 テーブル上に零れた水がひたりと落ちた。間抜けに腰を抜かした僕の手を冷たく濡らす。

「だったらどうすれば良いんだ! またいたずらに晴君を傷つけろとでも言うのか! 僕はあんな顔した彼の涙一つ拭えやしなかったんだ! なのに、何かできることなんてあるわけないだろ!」

 滲んだ言葉はきっと水に溶けた。容易く消えてしまうようなそんな弱音だった。

「だから、さっきから言ってるだろ! 俺はそんなお前に救われたんだと!」

 だけど、掬い取る奴がいた。そいつは僕以上に落ち着きもなく言う。

「傷口を塞ごうとしてたんだろ、包帯でも巻いて。なのに、お前は自分にぐるぐると巻いちまって。そんなんじゃどっちがどっちかわかんなくなるだろ」

 倉山の言葉は僕の胸をついた。濡れた手を服で拭い、濡れた箇所の色が変わる。冷えてしまった手に熱を感じ出した。

「……お前だってバカな奴だよ」

 思わず笑みが零れた。ああ、ふやけてしまったと思った指はまだまだ元のままだ。

 立ち上がる。酔いが残っていてふらつきながらも僕は腰を上げた。

 よろめいてテーブルを支えにしながらとっくに空になったジョッキを奪い去る。それを傾け、微かに残った数敵を飲み干した。

「そんなに酒が恋しくなったのかよ」

「そんなところだ」

 舌に乗せて全体で味わう。気の抜けたお酒は僕にされるがまま。

「どうだ美味いだろ、ホームラン王」

 ジョッキを置き、僕は倉山に言ってやった。

「いいや、僕にはまだまだ苦いよ」

 未練があった。それは晴君だけのものじゃない僕のものでもあったのだ。


 ◆


 火照った顔を夜風がそっと撫でていく。さっきまでの喧騒も随分と後ろの方へ。大きく厚い夜のカーテンは今日も健在だ。その境目を探そうと目を皿にしてもこれが中々見つからない。

「本当に全部出しやがって。僕も出すって言っただろ」

 店を出る際、レジ横に置いてあった飴を咥えてご機嫌の倉山に文句を言う。

「最初からその約束だったろ。悔しかったら今度はお前に奢らしてやる」

「食べきれないほど、頼んでやるからな」

 そう言うと、これまた楽しそうにけらけらと笑う。

「お、見ろよ」

 不意に足を止めた倉山の視線の先には明かりのついていない小さな店。古びた看板に、覗いて見える時代に取り残された店内。

「駄菓子屋か。懐かしいな。最後に行ったのはいつだっけ」

 古びた看板を見つめる。ふと財布を取り出した。今なら両手いっぱいに買うことだってできるだろう。不思議だ、今の僕の財布はあの頃より軽いのに。

「あー、惜しいな。やっぱやってねえか」

 中に誰も見えないのを倉山が嘆く。まあ、こんな時間に出歩く子供はいない。

「また今度、行ってみよう。久しぶりに食べたくなってきた」

「いいなそれ。予算は?」

 僕は財布を覗き込んだ。紙幣を押しのけ、じゃらじゃらと愉快な音を鳴らす銀色に心が躍る。光を反射したその輝きは宝物ようだった。

「もちろん三百円まで」

 夜のカーテンが翻り、その先が見えたような気がした。

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