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フロムハウス  作者: KN
16/17

その枝は折れそうだ

 とても飲み込めない言葉に耳を疑う。羽虫の舞う音が耳元で騒めいてノイズが走ってしまったのかもしれない。顔の辺りを手で払う。その際、手についてしまったのか、もぞもぞ何かがうごめくような感じを覚えた。手のひらを拭う。べっとりとついた不快感を取り去ってしまう。

「もう一度言います。今日を以てあなたの業務は終了しました。お疲れさまでした」

 だが、しみついたそれは取れやしなかった。手を中心にますます広がっていく。

「どういうことですか? 僕はまだ、いや、何でこんなタイミングで……」

 藤沢さんが何かを探しているのか鞄を雑に漁る。そして、垣間見えた煙草の箱を押しのけて茶封筒を取り出した。

「安心してください。給料もその分多く支払いますので」

 手渡してくるそれが途端に恐ろしい片道切符に思えて突き返す。

「……まだ、晴君の未練が残っています。終わっていません」

 今日だって晴君は喜んでくれた。かき氷を食べて、ジグソーパズルを一緒に遊んだのだ。また明日なんて嬉しそうに手を振ってくれたんだ。順調に進んでいる実感もあった。彼の未練を解いている手ごたえだってあった。久保さんや結月さんの時だって上手くいったのだ。晴君の時だけできないなんてことはない。まさしくこれからだったのだ。

 藤沢さんは険しい表情でさらに続ける。

「元々私は今回の件について反対していました。社長がどうしてもあなたにお任せしたいと仰るので様子を見ていましたが、今日が刻限です」

 社長と初めて会った日のことを思い出す。嫌にらしくのない強い口調で言い争っていたのはこのことだったのか。険しい雰囲気も全て僕を見定めていたのだ。節々に感じていた妙な感覚が線となって僕を締め上げる。

「理由を聞かせてください。納得できません」

 だが、ここで引き下がりたくもない。どうして今更なんだ、久保さんや結月さんの時とは何が違うのかなど頭の中を飛び交う疑問を隅に放り捨てて問い詰める。

 何か僕に悪いことがあるのならばそれを直せば良い。それを教えてもらえるのならば当然改善しようと努めもする。

「断っておきますと、あなたの言動そのものに何も不備はありません。それどころかよく寄り添うことのできている素晴らしいものだと私は思っております」

 ほんの僅かに眦を下げて藤沢さんはそう言った。

 だが、それに対して僕は一層強く拳を握った。悪いことがなかったのなら、何なんだ。どうしようもないことではないのか。

「あなたと晴君をこのまま会わせることを危険だと判断したからです」

 危険、その言葉を反芻するがわからない。何を以て危険を評しているのか見当もつかない。

「だったら、久保さんや結月さんの時は危険じゃないということですか」

 荒く言葉を吐き捨てる。優劣をつけられたように感じてムキになったのだ。

「いいえ、違います。言い方が良くありませんでした。ですが、先の二人と晴君の間には明確に異なる点があります」

 淡々と藤沢さんが続けていく。僕が口を挟む暇を与えないほどすらすらと。

「彼がまだ幼い子供だという点です。それが危ないのです」

 藤沢さんの強い視線に思わず目を逸らす。

「社長には私から言っておきます。社長も無理強いはしない人ですから大丈夫です。後は私たちにお任せください」

 咄嗟に社長へ何か言ってもらおうと探したことも看破され逃げ道を塞がれた。

「……まあ、給料は振り込んでおきますね」

 何も言えなくなった僕に呆れたのか藤沢さんは息を深く吐いて茶封筒をしまって事務所の中へと入っていった。

 僕はただ、扉が閉められるのを見つめることしかできず、逃げ帰った。


 ◆


 昨日の藤沢さんの言葉は僕にとって正しさの否定だった。僕の言動自体は評価しておきながらそれの場を取り上げる。投げ出された僕はどうするべきか。掴み取った手を放り出された晴君が何を思うのか。わかっていない。わかっていないはずなのだ。最も彼と接していたのは僕なんだ。

 僕は胸に刻まれた正しさを燃料としてエンジンを吹かした。向かう先はフロムハウスの事務所。今度こそ納得のいく説明をもらった上で諦められないことを伝えるのだ。

 ドラッグストアを通り過ぎてから角を曲がり、コンビニの前を走っていく。内外の熱で蒸された頭を回して荒い息を吐く。家を出た時と比べて重くなった足を止めた。

 何度も、それこそ息が切れてからもフロムハウスにたどり着けなくなっていたのだ。通ったはずの道が知らない道を挟んで再び現れる。初めて行った時のような不気味な予感が押し寄せた。闇雲に面接の際に聞かされた指示と同じことをしても何も変わりはなかった。

 大きな力が僕の前に立ちはだかっている。本当に終わったのだとはっきりと僕に告げている。あんな言葉一つで僕は弾き出されたのだ。

 僕は再び走り出した。次に向かう先は決まっている。


 小学生ほどだろうか。数人の子供たちが乗り込んだ後に続いてバスに乗り込んだ。

 これからプールにでも行くのだろう。子供たちは額に付けたゴーグルを自慢げに見せ合っている。そうやって騒いでいる子供たちを迷惑そうに見ているお年寄りも、スマホを触って関心がなさそうな人もいる。

 よくある光景だ。僕もきっとその一員に過ぎないのだろう。充血した目で苛立ったように貧乏ゆすりを繰り返す妙な男。ああ、それが無性に悔しいのだ。

「モグラドンだ!」

 子供たちの内の一人が言った言葉に思わず見てしまう。見覚えのある人気者がここでも偉そうに鎮座している。お前はそこにいるべきではないだろう。大事な友達がいるはずだ。

 薄情な八方美人を視界から外して、晴君のことを考える。今日は何をしようか。パズルだって結構なペースで進んだがまだ完成はしていないんだ。一緒に完成させるべきだろう。

 最初にお年寄りが整骨院の前のバス停で、次にスマホを触ってばかりだった人がショッピングモールの近くで下りた。そして、陽気な歌を歌っていた子供たちも今下りようとしている。その中の一人の後ろ姿がつい目に入った。大きな帽子を被り、タオルを首に巻いた男の子。背格好や焼けた肌だって全く違うはずなのにどうしても重ねてしまう。もしかしたら彼も――。

 かぶりを振る。何を考えているんだ。ここにいるのは僕の知る彼じゃない。がらんどうになったバスには運転手のアナウンスが響き、僕の意識を引き戻す。

 アナウンスに従って降車ボタンを押し、住宅街の前までやって来た。

 歩き出す。歩幅が徐々に大きくなり、地面を蹴る力も強くなっていく。やがて、走るようにすぐに晴君の家が見えてきた。

 口角が上がるのを抑えられない。噛み殺した歓喜の声が溢れてくる。そうだ。終わってなどいなかったのだ。こうして僕が今、この家まで来られたのが何よりの証拠だ。

 勢いのままに扉を開けようとして気づく。鍵を持っていなかった。藤沢さんが預かっていたのだった。

 悩んだ僕はインターホンを押してみた。晴君が気付いたのならば開けてくれるはずだ。

 果たして動きはすぐにあった。インターホンが繋がった音と共に向こうの音が聞こえてくる。

「こんにちは、有野です。晴君、会いに来たよ」

 呼びかけて数秒待った。だが、返事がない。

「晴君、聞こえているかな?」

 再度、声をかけても反応はない。もしかしたら使い方をわかっていないのかもしれない。

「その、鍵をわすれちゃって。玄関の鍵を開けて欲しいんだ」

 今度も返事がないままぷつりと切れた。もう一度インターホンを鳴らそうとして玄関から物音が聞こえて晴君が来てくれたのだと気づく。近づいてノックして鍵が開けられるのを待つが何も起こらない。既に開いているのか思っても開かない。

「もしかして合言葉かな」

 そのまま僕は合言葉を唱えていく。

「プロテクトマンは――」

「違う!」

 合言葉の途中で晴君の声に遮られる。どんと扉も強く叩かれた。

「ごめんね、何か悪いことをしちゃったかな」

 晴君が鼻をすする。そして涙混じりの声で言った。

「……また明日って言ったのに。全然来なかった。もう来ないんじゃないかって」

「そんなことはないよ。今日は少し転んじゃったんだ。遅れてごめんね。でも大丈夫、僕はこうしてちゃんと来た。だから二人で一緒にパズルを完成させよう!」

 僕が明るく言うと、晴君は「うん」と小さく言って扉を開けてくれた。

「今日はいつまでいるの?」

「そうだな。とりあえずはパズルが完成するまではいるよ。絶対完成させようね」

 晴君の案内で昨日と同じ場所に置かれたジグソーパズル前まで来て、ピースを手に取る。

「晴君、あの後進めたんだね。凄い出来上がってるよ。凄いね」

 昨日の終わり際と比べても明らかに進んでいる。半分ほど埋まっていそうだ。この分なら早ければ今日中に出来上がるだろう。

「うん」

 僕の言葉に晴君は照れているのか、頷いてから両手にばっと残ったピースを抱えて顔を埋めた。微笑ましく思った僕が新しいピースを取ろうとするとそのまま体ごと動かして防がれる。右から手を伸ばしても、左から手を差し込んでも取れない。

「次のピースをもらっても良いかな?」

 そう言うと晴君が一つを手渡してくる。それを嵌めるとまた頼んでもう一ピースと、想定していた連携とは違った一体感で作業が進んで行く。晴君はこれで楽しいのだろうか。パズルの醍醐味を何も味わっていないように思えるのだが。それにこれではペースが落ちてばかりだ。

「これの場所がわからないんだ。よければ教えてほしいな」

 青一色のピースを持って大げさに頭を抱えるとのそりと顔を上げた晴君が腕から指先までピンと伸ばした。

「そこだよ」

 とは言われても全部真っ青なので全くわからない。首を傾げると今度はより前のめりに指を近づけた。

「ここ!」

 ピースをあてがってみる。口をへの字に曲げられた。一つ分右にずらしてみる。眉間にしわがぐにゃりと生まれた。それじゃあと左に傾けると我慢できないとばかりに晴君は立ち上がって僕からピースを奪って、自分の手で嵌めてみせた。

「だから! ここ!」

 そして次のピースを僕の手ごと持っていって場所を教えてくる。みるみる内に何もない空間がこれまた他と見分けのつかない空へと変わっていく。

「わかった?」

「どうだろう」

 晴君の助けなしで一つ挑戦してみると仲間外れの空ができてしまった。呆れられた視線を受けてピースを献上する。

「……手伝ってください」

 パチリと嵌めて雲が出来上がる。結果的に僕は比較的わかりやすい箇所を晴君がわかりにくい空を担当する形になった。僕は次の雲を形作っていく。メインと呼んでも良いだろう入道雲だ。

「そうだ。ごめんね。今日はおやつを持ってくるのを忘れちゃって」

 ただこの家に来ることばかり考えていてそこまで気が回らなかった。わたあめやりんご飴は嫌いだとしても他にもまだまだあったはずだ。

「大丈夫。かき氷、美味しかったもん」

 曖昧な輪郭を更に広げている晴君がそう言ってくれる。

「それでもだよ。僕が一緒に食べたいって思ったんだよ。何かある? あの絵本にある物でも良いよ」

 てきぱきと動いていた晴君の手が止まり、穴の開いた空を指でなぞる。

「食べ物じゃなくても良い?」

「良いよ。何か思いついた?」

 晴君は手に持った青いピースを照明に透かしてみせた。

「空ってこんなに青いの? 家の中からじゃよく見えなくて、気になったんだ」

 ぎしりと何かが鳴った。それが僕が奥歯を噛みしめる音だと気づいた時には、晴君は更に熱に浮かされたように続け出した。

「出ようと思っても出られなくて。やっぱり無理かな?」

 期待していないのだろう。失望でもない、熱に浮かされた表情とは裏腹に冷めた様子で淡々と作業を再開した。

「――ラムネって知ってる?」

 だから、僕はつい口に出してしまった。前提を覆すものでもなければ、起死回生の一手でもないそんな言葉。

「知ってるよ。あのお薬みたいな丸いやつ」

「そっちじゃないほうだよ」

「そんなのあるの?」

「お菓子じゃなくて飲み物なんだけど、しゅわしゅわとしてて。中にビー玉があって、それを空に向けると青が映るんだ。そうすると空がまるで手の中にあるみたいで楽しくなるんだ」

 要領を得ない支離滅裂な僕の説明に晴君は「ふーん」と曖昧に返事をして透かしたピースを嵌めてしまった。

「きっと気に入ると思うよ。だから次は持ってくるね」

 それから、何気ない話をしながら手を動かしているとパズルもとうとう佳境を迎えた。雲や太陽、その他特徴的な箇所は全て埋まり、後は空が描かれた十数ピース。ここまで来たら僕でもヒントなしでできるだろう。ましてや晴君もいるのならばあっという間だ。

 実際僕の考え通りに数分とかけることもなく残す空白は片手の指で足りるほどになった。

「あ!」

 その時、突然晴君が声を上げた。彼はジグソーパズルが入っていた箱をひっくり返して何度も振り出した。

「無い、無い!」

 慌てた様子の晴君が僕に箱を突き付けて、お手本の絵を突き指してしまいそうなほど強く指す。指の先にあるのは今取り組んでいる最中の空の部分、それのちょうど欠けた空白の部分にあたる。

 晴君の言っていることを理解できた僕は箱を受け取って彼のように何度も振ってみる。が、もう何も入っていない。後少しで完成というところだったのだ。ここで終わるのはあまりに決まりが悪い。晴君にとっても重要なことのはずだ。

「どうしよう、失くしちゃった。これじゃあ終わらないよ」

 晴君が項垂れる。顔を覆って大げさなほどな表現をしてみせる。あれほど楽しそうにしていたのだから無理もないだろう。それにこれが未練を解く鍵になるかもしれないのだから何としても見つけなくては。

「どこか心当たりはある?」

 何度か開けたことがあってそれで落としたのかもしれない。昨日も僕らが帰った後に一人で続けてもいたのだからその時かも。いずれにせよ不良品でもない限り、おそらくはこの家の中にあるはずだ。

「一回、僕の部屋でやったことがあったかも……」

「なるほど、じゃあ探してみようか」

 晴君の部屋、つまりは子供部屋。あのおもちゃでいっぱいの部屋ならば確かに小さなピースなど紛れてしまうだろう。以前、挑戦した時に片付け損ねてしまったか。

 晴君の手を引いて階段を上がり、子供部屋へと入る。そして、手を解いて一足先におもちゃ箱へと駆け寄った晴君が盛大にひっくり返した。

「ここの中かも!」

 ぎゅうぎゅう詰めにされたおもちゃたちが散乱する。ヒーローの人形に始まり、多種多様なぬいぐるみたち。更にはボードゲームやトランプなどのカードまでもが飛び出した。

 晴君がそれらを一つ一つ手に取りだしたので、僕も彼に倣って調べていく。ボードゲームの箱の中に紛れていないか、あるいはぬいぐるみの布の間に隠れていないのか。調べ終えたら箱に戻して次の物を、と繰り返していく。すると、みるみる内に空になった箱は再び満杯となった。

「……こっちかなあ」

 難しい顔をした晴君が違う箱を引っ張り出す。今度のもおもちゃでいっぱいだ。見れば同じような箱がまだまだ並んでいる。

「僕はこっちのを探してみるね」

 一つずつ調べていたんじゃ時間がいくらあって足りない。僕は晴君が調べ出したものとは別のおもちゃ箱を空にした。

 しかし結局、欠けたピースは見つからなかった。他に何個もおもちゃ箱やおもちゃを探してもありはしない。今だってそうだ。他にパズルは数あれど目当てはどこかへ埋もれたまま。僕は探し終えた箱を隅の方へ寄せて固くなった首を回した。

「これ見て!」

 そんなだらしない僕に晴君が声をかけてきた。彼の方を見ると、手にはいつか見たカードの箱。ひょっとしたら見つかったのではないのかという期待も瞬時に萎む。キラキラとした目をした晴君の後ろには盛大に散らばったおもちゃたち。どうやら晴君はそのカードで遊びたいようだった。一向に見つからないピースに諦めてしまったのか、それとも子供らしい移り気でより面白そうな物があったからなのか。ただ、これでは僕が一人で空回っているみたいだ。

「それも楽しそうだけど、今はパズルを探そう」

 今日はパズルが完成するまで帰らないと決めていたのだ。見事に完成させて晴君の喜んだ顔を見る。きっとそれは素晴らしいことだろう。

「そんなの良いからこれで遊ぼうよ!」

 晴君が僕の袖を強く引く。体重をかけてまで全身でアピールをしてくる。

「ごめんね。でも、きっとパズルが完成したらそれはもう嬉しいはずだよ。だから、ね。それは完成した後に遊ぼう!」

 そっとカードを取り上げて別のおもちゃ箱に直して晴君をなだめる。

「……うん」

 そうして諦めたのか、肩を落とした晴君がおもちゃをどんどんと片付けていく。その姿に申し訳なく感じるが、今は何よりもパズルだ。藤沢さんたちの目を盗んでここにそう何度も来られるとは僕も思っていない。だから、今日中に完成させてしまいたいのだ。

 残すおもちゃ箱も後僅かだ。見つかるとは決まっていないが後はここまで大変じゃないだろう。そうやって、気の抜けた頭に栓をして僕が次のおもちゃ箱に手をかけた時、声が聞こえた。

「――いなくなるくせに」

 手を止めた。言葉に重さが生まれたみたいに僕の手にまとわりついた。晴君が放った言葉を聞き間違いだと思うとしてもそれは叶わなかった。晴君が僕を見て、いや睨んでいたからだ。

「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」

 僕が聞いても晴君は答えない。赤い陽が差し込んで真っ白な彼の顔が赤く染まる。カタカタと奇妙な音がそこら中から聞こえてくる。異様な空気の中、晴君はポケットに小さな手を突っ込んだ。

「晴君!」

 異変を感じた僕が再度呼びかけても反応がない。そんな晴君がポケットから引き抜いた手にあったのはいくつかの凹凸のある薄い板。まぎれもなく今の今まで僕たちが探していた欠けたピースそのものだった。

 決定的に掛け違えたボタンを無理に直そうとして破れる。それこそ合わないピースを無理に嵌めようとする失敗。僕はそんな恐ろしい失敗をしていたのだと粟立った全身が伝えてくる。

「どうして、晴君がそれを。失くしたって言っていたのに……」

 晴君はピースを乱雑に投げ捨てた。その姿を見て僕は後ずさる。後ろ手にドアを探り、ドアハンドルを握った。何が起きているのかわかっていない。今だって何も目に見える変化などはない。けれども、冷や汗が止まらない。鼓動が早くなって息も荒くなる。

「パズルが、完成したら帰るって! そう言ってた!」

 晴君が捨てたピースを蹴飛ばして叫ぶ。

「確かにそう言ったよ。でもまた来る!」

 僕も負けじと声を出しても聞き入れてくれる様子はない。

「そんなことない! ずっと帰りたそうだった!」

 晴君が頭を搔きむしる。痛々しいほど爪を立てて瑞々しい髪が乱れていく。

 ようやく、遅すぎるほど鈍い僕は晴君の真意を理解できた。つまるところ晴君にとって欠けたピースとはタイムリミットそのものだった。それが完成してしまえば僕は帰ってしまうと言ったから、彼はそれを隠した。そして、彼からしてみると必死にピースを探す僕の姿は早く帰ろうということに見えていたのだ。

 パズルを、未練を解消しようとばかりに夢中になって放った失言を悟る。

「それでも違う! 僕はただ君と空を見ようと――」

 偶然だった。晴君をどうにか落ち着かせようとした僕は床に散らばった物に足を取られたのだ。注意散漫となっていた僕は尻もちをつき、そしてその頭上を何かが通過して砕けた。それはおもちゃ箱に仕舞われていたおもちゃの一つだった。それがひとりでに浮かび上がって僕の頭を砕かんと襲い掛かったのだ。

「友達だと思っていたのに!」

 次々におもちゃに絵本と浮かび上がり、狙いをつけたように僕の方を向く。体の芯まで冷え切って、人形を操っているかのように現実感がない。向けられたナイフの切っ先に僕は対抗する術を持っていない。

「嘘つき!」

 視界が傾く。突き刺されたのかと思うが痛みはない。視界の端に映るは階段。尻もちをついたそのはずみでドアを開けていたようで、僕は情けなく部屋の外に転がったのだ。

 呆けるのもほんの数秒、けたたましく何かがぶつかる音に僕は立ち上がる暇さえ惜しく四本足で階段を駆け下りる。途中上手く手を付けなくて背中から落ちることになったが気にならない。

 正しさという燃料が酸化した。黒々としたおぞましい液体に変わり、僕の中にあるものを飲み込んでいく。これだ。社長が語った理性とは、藤沢さんが危惧したものとは、これだったんだ。

 見当違いな志も、行方知らずな思いやりも投げ捨てて、僕は玄関へ向かおうとしたが足が止まる。見えたリビングにある出来上がり間近のパズル、それが足を鈍らせた。

 足音が近づいてくる。今すぐに逃げなければ間に合わない。得体の知れない今の晴君ではどうなってしまうのか想像もできない。それなのに僕はリビングに入ってしまった。

 半ば飛びつくようにしてパズルを腕の中に収める。そこから遅れてすぐにパズルのあった場所へ食器棚からコップが飛んできた。

「やっぱりそうだ! パズルが大事なんだ!」

 幾筋かの赤い線が僕の手に走り出した。割れたコップの破片だ。痛みに怯み、パズルを持つ手の力が緩む。落ちた衝撃でパラパラとピースが飛び散った。

「……そうじゃないんだ。僕は、僕はただ君の力になりたくて!」

 破片ごとパズルを掻き抱くように掴もうとして空を切る。パズルが僕の手から逃れるように宙に浮いたのだ。縋って、立ち上がろうとしても更に離れていく。

「――お前は、死んでなんかないくせに!」

 そして、今度は勢い良く僕の方へ向かったかと思えば頬に傷をつけて壁へと激突した。あれだけ立派だった雲が、空が崩れていく。バラバラとそれがただの板に戻ったのだとどうしようもなく告げてくる。あるいは始めから幻想であったのかもしれない。確実に言えるのはもうこの空には触れられないということ。

 多くの切っ先は未だに僕を捉え続けている。コップや皿、ついには椅子などもカタカタと震えだした。間近に迫るそれを見ても僕の体は動かなかった。どんなナイフよりも鋭い刃が僕の胸に突き刺さっていたからだ。

 抵抗する気力を失った僕に待つのはこの沙汰を受け入れるのみ。とうとう僕の頭に向かって物が飛んで来た。もう間に合わない。今からどんなに身を捩っても避けられはしないだろう。ああ、それも仕方のないことかも――。

「有野君!」

 その瞬間、僕の体は横から声と共に強い力によって引っ張り上げられた。そして、その声の主は僕の体ごと引きずるようにして玄関を目指した。されるがままになって、顔から血の気が引いた。僕が元いた場所を見ると壁が大きくへこんでいたからだ。

 響く破壊音を背に扉を開けて外に出てから座り込む。すると、僕を引っ張った人物がこちらを向いた。

「藤沢さん……」

 震えた声で僕が言うと、彼は乱れた髪の間から鋭い視線を向けてきた。

「すみませんでし――」

「同情ですか? それとも憐憫ですか?」

 肩で息をしている藤沢さんの目に浮かぶのは明白な怒気。

「それではあの子は救われません。むしろあなたに怪我を負わせたと傷つけることになります。以前、私は確かに言いました。あなたの業務は終了したと。では、なぜここにいるのですか。どうして、フロムハウスを続けようと思ったのですか」

 僕はその問いに答えられなかった。ただ俯いて、震えているだけだった。藤沢さんが家の中から聞こえてくる何かが割れる音に眉を顰めて更に続ける。

「……私ももう少し強く言っておくべきでした。なのでもう一度言っておきます。あなたがこの件に手を出すことは許しません。わかりましたら、今日はお帰り下さい」


 ◆


 地面にくっきりと映し出された僕の分身もより大きな闇に飲み込まれて見えなくなった。街灯に照らされて生まれてもそれはどこか欠けている。灯りに引き寄せられた蛾が一匹。それは僕への光を遮り、ちょうどぽっかりと開いた穴は胸の辺り。手を擦り合わせた。膝が震えた。悴んだ体には力も入らなくてよろめく。そのまま僕は街灯に強く頭をぶつけてしまった。痛みはない。いや、きっとあったのだろうが他の痛みにかき消されたのだ。腹の中に泥でも溜まっているのかように鈍痛が走る。徐々にそれは鳩尾、胸、喉というところまでせり上がって来た。そして、口まで上りきると「ああ……」と情けない声が僕の口から零れた。

 立ち上がって歩を進めると少し先に公園が見えた。ブランコにシーソー、滑り台など人気の遊具が取り揃えられいるが人気はない。それもそうだ。子供が帰る時間はとっくに過ぎている。

「今日のご飯は何?」

 不意に耳に入り込んで来た声に顔を上げてしまった。不躾な視線を送られた子供が一瞬首を傾げるも涎を垂らしながらはしゃいでいる。その手の先に繋がれた母親も勿体ぶって楽しそうだ。僕なんか気にも留めず鼻歌混じりに歩いている。美味しい物をたくさん食べるのだ。それこそかき氷やラムネなんか目じゃないほどに。

 晴君の心からの叫びを思い出して胸の奥で更に傷が抉れる。僕は晴君のことを知ろうとした。彼の未練が何なのかを解き明かそうとしていた。けれど、ああ、僕は死んでなんかいない。彼の言う通りだ。苦しさを理解することなどできなかったのだ。なのに知った風に口を利くなどどれほど愚かだったのだろうか。

 民家から道路へと伸びている木があった。青々と茂り、際限なく大きくなることが想像できる木だ。うんと背伸びしてより光に手を伸ばしている。だが、ひと際長く伸びた枝の先、そこがぽっきりと折れていた。折れたそれはかろうじて繋がっているが、その果ては想像に易い。通りすがりの誰かに当たったのか、それとも邪魔だと憤った人によるものか。

 触れるとその枝はあっさりと千切れた。豊かについた葉を自慢げに振り回して落ちていった。そして、いざ地面に叩きつけられると葉は萎れて枝の力強さも失われた。

 何かできると思っていた。久保さんや結月さんの時のように。ああ、いや。

「……違うな」

 彼らにはそれぞれ積み重ねたものがあったのだ。それを厚顔無恥にも僕はさも僕のおかげなんだと思っていただけ。感謝の言葉をかけられて舞い上がっていた。それとも彼らもどこかで思っていたのだろうか。彼らは大人だった、少なくとも晴君と比べるとずっと。だから、言わなかっただけだったかもしれない。

 僕はどうしてこのバイトを続けているのか、ずっと考えてはいた。あの日、結月さんに問われた時から――そして今日、藤沢さんの言葉を前にしても何も言い返せなかった。

 最初は何も知らなかった。ただ薦められるままに応募しただけだった。久保さんと出会い、何をするのか知った。結月さんと話して向き合うべきことだとも気づいた。目を逸らし続けていたのだ。それが今になって僕に襲い掛かって来たのだ。

 仕事だった。嫌だ。僕はそれを認められない。

 同情だ。駄目だ。面と向かって言えやしない。

 何を思っても、角が立つ。引っかかって止まってしまう。だから削る。余分なものを。いつか角が全て無くなって。まん丸になったそれは、どんな道だって転がっていけるだろう。どこへだって行ける、誰にだって力になれるそんな完璧な理由を僕は欲しいのだ。だけど、ダメだった。どれだけ考えても陳腐な思いはこびりついて離れない。

 躓いた。古くなった道路の凸凹に足を取られた。反射的に出した足はあらぬ方を向いてまた別の歪を踏んでいた。

 怖かった。豹変した晴君がとてもこの世のものではない怪物に思えて仕方がなかった。同時にそんな風に彼を見てしまったことへの嫌悪も湧いてくる。

 そんな僕の隣で悪路をものともしない車が猛スピードで駆けていく。見事にライトで先を照らして、ウィンカーで行き先を告げながら遠くへ消えていった。

 響く自転車のベルの音。咄嗟に道を空けることもできず、舌打ちされて追い越された。

 歩行者とぶつかりそうになって頭を下げた。あからさまなため息が返ってきた。

 靴が見えた。サンダルを履いた足が視界に入って来た。慌てて頭を下げる。返ってきたのは笑い声。そして、陽気な声。

「よう、有野。飲みに行こうぜ」

 弾かれたように頭を上げる。そこにいたのは僕の友人だった。それもフロムハウスというバイト先を僕に薦めた倉山(くらやま)だ。

 

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