真っ青な空は難しそうだ
行きとは違い蝉の声もなく車内の音楽がよく聞こえる中、社長が運転席越しにこちらへ振り返った。
「仲良くなれたみたいだな」
「はい。最初は警戒していたみたいですが晴君が明るい子だったので打ち解けられました」
「良い傾向だな。でも気を付けろよ。子供の相手というのが一番難しいんだからな」
苦笑いを浮かべた社長が言う。自身の子供でも思い浮かべているのかその言葉には深い実感が込められていた。
「やっぱり大変なんですか?」
「そりゃそうよ。ある程度育っていくとその過程で色々と学ぶことがあるもんだ。単純な知識は勿論、何より心について。だが、子供はまだ学んではいない」
「心ですか?」
「ああ……だが、その前に少し寄らせてくれ」
僕が聞き返すと、それに答える前に断りを入れてから社長はハンドルを切り、コンビニへ車を停めた。煙草が切れてしまっていたらしい。吸う姿は見ていなかったから気を使ってくれていたのかもしれない。
「悪いな、ちょっと待っててくれ」
「仕方ないですね。ですが、いい加減控えないと体に障りますよ」
社長が車から降りようとして、呆れた声で藤沢さんが言った。そして、藤沢さんも何か欲しい物でもあったのか社長に続いた。
僕も何となく空気を吸いたくなって外に出ると生ぬるい空気が肺を満たした。古い空気を吐き出して頭をすっきりとさせる。
すると、一日の終わりが近づいているのを感じて安堵がこみあげてきた。緊張が解れて思わず伸びをする。
「お疲れか?」
少しの間、リラックスしていると、コンビニから袋を片手にぶら下げた社長が出てきた。そして、袋からペットボトルを取り出すと僕に投げ渡した。
「すいません、ありがとうございます」
「待たせたからな。気にするな」
両手で受け取って、缶コーヒー片手に車へもたれかかった社長と並ぶ。
「それでさっきの話の続きだが」
社長が切り出した。缶を傾けているのか視線は上を向いている。
「心が何とかという話ですか?」
「そうだ。何も難しい話じゃないが、まあ気楽に聞いてくれ」
香るコーヒーの匂いがリラックスした僕の頭を切り替えさせる。飲む手を止めて社長の話に耳を傾けた。
「人が育つ際、どうしても他人と接する機会は多くある。わかりやすいのが幼稚園や学校とかだな。そんな他人がいる場所では当然諍いが付き物だ。有野君は学校で喧嘩したことあったか?」
「何度かありますけど……。仲直りはしました」
どっちかが約束をすっぽかしたとか、うろ覚えの知識で正しいのは自分だとか、そんな下らないきっかけで喧嘩したことはよく覚えている。なので社長が言っていることが僕にも身に染みてわかった。些細な理由でも血が上った頭では考えが及ばないのだ。
社長は僕の言葉に頷いて更に続ける。
「何も喧嘩が悪いと言ってはいない。意見の対立は大人になってからもよくある。俺だって今も喧嘩するしな。だが人はぶつかり合うことで自分の心について学んでいくんだ。そして、それとの向き合い方も。それが十分に学べていないのが危ないんだ。君だって嫌いな奴がいてもわざわざ目の前で口に出したりしないだろ? それに、我慢しなければいけないことだって知っている。迷惑になったり、傷つけるかもしれないとわかっているからだ」
そう言って社長は缶コーヒーを飲み干した。空になった缶を爪でこつこつと叩きながらゴミ箱へ向かう。
「まあ、心というより理性と言った方が近いな」
理性、理性か。
僕は社長の後ろ姿を眺めながらその言葉を頭の中で何度か繰り返した。
「難しい顔になっているぞ。気楽にと言っただろ?」
戻ってきた社長が車に乗り込みながら言った。眉間にできた皺を伸ばす仕草を見せられ思わず眉間に手を当てる。
そんな僕の反応を見た社長は笑って言う。
「他に何か聞きたいことはあるか? 今なら聞いてやるぞ」
唐突に振られ、咄嗟に思いついたことを口にする。
「どうしてフロムハウスって名前を付けたんですか?」
すると、社長は意地悪く笑って挑発的な視線を僕に寄越した。
「何だと思う?」
わからないから聞いているのだが。けれど、そんなことを言っても何もないだろう。
「思いついたら教えてくれ。楽しみに待ってるからな」
結局答えは出せず、そのタイミングで藤沢さんも車に戻ってきた。シートベルトを締めて、車が動き出す。ひとまず色々と言われたことを考えながら到着を待った。
気づけば車内には微かな煙草の臭いが漂っていた。
◆
翌日、晴君に会いに来て二日目。今日も僕は社長が運転する車で藤沢さんも合わせて三人で訪れていた。
昨日と同じように藤沢さんが鍵を開けて中に入り、埃がすっかりなくなったリビングにあったソファに腰を下ろした。それと同時に僕の肩に掛けられたひもが緩み、体が軽くなる。そして、持ってきた物、クーラーボックスから容器に詰められた氷を取り出した。
それにしても重たかった。車から降りてすぐなはずなのに腕がしびれてしまった。
「では、晴君を呼んであげてください。準備は私がしますので」
「はい、お願いします」
藤沢さんが台所にかき氷機を置いてから言った。
このかき氷機は昨日藤沢さんに言ってみたところすぐに出してくれたものだ。しかし、彼が用意したものではないらしくこの家を掃除していた時に見つけたものであるそうだ。未開封の状態で眠っており、使えそうだったので家主の許可を取って使わせてくれることになったのだ。
その機械は氷を入れる口があり、それを細かくするためのチープなハンドルが付いた手動のタイプだ。カフェや専門店の出す物には及ばないだろうがきっと良い物ができると期待はできる。
晴君の反応を想像しながら二階に上がり、子供部屋をノックする。どたばたと音がしたかと思えば、それが止み、できる限り低くしたであろう声が聞こえてきた。
「合言葉は?」
昨日の失敗が思い起こされる。昨日は知りもしない合言葉を唱えて機嫌を損ねてしまったがもう二度目はない。僕は何度か咳ばらいをして喉の調子を確かめ、これまた低い声で言った。
「プロテクトマンは最強!」
「モグラドンは?」
「人気者!」
「怪獣は?」
「ダメな奴!」
次いで浴びせられたコールに答えて結果を待つと数秒も経たぬ間に扉が開き、晴君が笑顔で部屋の中から現れた。無事に合言葉を唱えられたようだ。
晴君は昨日と全く同じ格好でモグラドンのぬいぐるみを抱えていて、逆の手には夏祭りの絵本を持っていた。彼も随分と楽しみにしていてくれたみたいだ。
「こんにちは。約束通り、来たよ」
「こんにちは! 待ってた!」
「それじゃあ、一階に下りてこられる?」
「何かあるの?」
首を傾げた晴君に僕はこっそりと懐に持っていたかき氷シロップの容器を見せつけた。
「これって……何?」
伝わらなかった。そうか。晴君にとってはかき氷と言えばあの白い氷に鮮やかな色がある状態なのだ。だから、その前のシロップだけを見せられてもわからないのは当然だ。
サプライズが失敗したように感じて肩を落とす。
「何って、言ったよ、約束通りにって。だから一緒に食べようか、かき氷」
「お、おお!」
僕が言ったことが理解できたようで晴君がわなわなと震えて、興奮する。絵本とぬいぐるみを置いて僕が持っていたシロップに顔を近づけた。僕が渡してやると、晴君はまじまじと見たり、振ったりと手さぐりに確認していく。
「これをかけるとかき氷が美味しくなるんだ。というかないとかき氷とは言えないよ」
「変身ベルトと同じだ!」
晴君が誇らしそうにシロップを掲げ、へその辺りに当てた。変身ポーズだ。ヒーローは甘いのか。まあ確かに、どちらもかける前と後とじゃ全くと言っていいほど変わるが、同列に語って良い物なのか。
華麗な変身を決めた晴君を伴って一階に下りる。うきうきとワクワクが抑えられていないようで晴君がぴょんと階段を一段ずつ飛び跳ねていく。
「危ないよ」
と僕がなだめると今度は小さく口で「ぴょん」と言い出した。一歩下りる度に小気味良く唱えていく彼は見ているだけで僕も楽しくなってきそうだ。
「かっき氷!」
一足早くリビングに入った晴君が喜びの声を上げた。僕も後に続くと、かき氷機に氷をセットして準備を終えた藤沢さんと社長が待っていた。
そして、僕らが来たのに気づくとカップを取り出して言った。
「こんにちは、晴君。今からかき氷を作りますので君もやってみますか?」
藤沢さんがかき氷機についたハンドルを持って晴君に実演してみせた。藤沢さんが軽くハンドルを回すとごりごりという大きな音を立てて氷が削れていく。やがてカップに雪のように積もっていき立派な冬山を作った。さらに真っ白で美しい山頂に紅葉みたいな赤が垂らされる。それは見事に山全体を染め上げて僕たちに甘い香りを届けた。
「僕もやりたい!」
晴君が一連の流れを見て精一杯高く手を上げた。その視線はかき氷機に釘付けだ。
「ええ、是非ともやってみてください」
藤沢さんが微笑んでさっきよりも細かく砕かれた氷をセットする。簡単に晴君に使い方を教え、彼にも使いやすいようにかき氷機を新聞紙を敷いた床の上に置いた。
晴君が真剣な面持ちでハンドルを握る。氷が溶けてしまうのではないかと思うほどの熱の入りようだ。力を入れて晴君がハンドルを回そうとした。かりかりと小さな音と共に氷が積もる。ゆっくりとセットされた氷が小さくなっていく。だが、一分ほどそうしていたかと思えば晴君はふうと息を吐いて手を止めた。悔しそうにかき氷機を睨みつけては何度も力を入れ直している。子供の力では少し難しかったか。
「僕も一緒にやってみても良いかな」
上手くいかなくてぐずりそうになっている晴君に声をかける。これ以上待っていると食べるどころではなくなってしまいそうだ。
「いいよ!」
晴君の許可を得てそっとハンドルに手を添え、晴君が力を入れるのに合わせて僕も回す。みるみる内に氷が細かくなり、氷山が形作られていく。完全に氷を削り切ると晴君が目を輝かせてカップを持った。
「シロップはいっぱいあるよ」
赤青黄色と更には紫だとか緑色のシロップを持って晴君の前に並べる。屋台にだって負けはしない品揃えで、味は選び放題だ。
晴君が顎に手を当てて悩む。鼻が触れるのではないのかという距離でそれぞれの味を吟味している。
まだ少しかかりそうだ。その間に僕の分を作ってしまおう。氷を取り出してハンドルを回す。あっという間にできたがこの感覚は何だか癖になってしまいそうだ。
カップを持って僕もシロップを選ぼうと晴君の方を向く。
「晴君は何味にしたの?」
晴君はすでに選び終えていたようでスプーンを片手に持ってソファに座っていた。
「僕はこれ!」
そんな晴君がカップを持ち上げてみせてくれる。
「美味しそうでしょ!」
「ああ、うん。そうだね」
自慢げに見せびらかす晴君へ曖昧な言葉を返す。晴君が持つかき氷はいつか見たサイトのような極彩色。鮮やかな色合いの良さを打ち消すシロップ全種がけ。
僕がそんな食欲が減衰してしまうような色合いに不安を覚えているのもお構いなしに晴君はスプーンを鷲掴んで、氷の山へと突き立てた。ザクザクと心地の良い音を立てて先端に削った物を乗せてパクりと口に入れる。そして、ジャリジャリと噛んでから彼は言った。
「美味しい!」
こうも満面の笑みを見せられては信じるしかない。噂に聞いた話だがシロップの味は全て同じだと言うのだからちょうどいい具合に嚙み合っていたのだろう。
何となく微妙な気持ちになりながら僕は雪山に映える新緑を楽しんだ。
「……痛い」
晴君がそう言ってスプーンを持つ手を頭に当てた。彼は突然の痛みに目を白黒とさせて、不安げな眼差しを僕に向けてきた。
「大丈夫だよ。絵本にもあったやつだよ。急いで食べると体がびっくりしちゃうんだ」
「僕だけじゃない?」
「もちろん」
スプーンに山盛り氷を乗せて一口で食べてみせる。間髪入れずに次も口に入れ、終いには容器に顔を突っ込むほど食らいついた。そして、例に漏れず頭に走る鋭い痛みに呻く。
「いたたた」
「ほんとだ!」
僕のしかめっ面に歓喜の声を上げる晴君。彼もまた容器に顔を突っ込まんばかりに食べて楽しそうに頭を押さえだした。
「いたたたっ!」
空になった容器を片付けてソファに座ったまま足をぷらぷらと躍らせている晴君が手のひらを合わせた。
「ごちそうさまでした!」
一杯目を食べてから少しづつ一色ごとにおかわりして大満足だったようで晴君がそれぞれどう美味しかったのか次々に言っていく。赤は甘く、青はすっきり。ついでに黄色はスースーと。
「やっぱり全部入れたやつが一番美味しかった!」
しかし、栄えある一位を獲得したのは金メダルが到底似合わないものだったみたいだ。
お腹を触ってかき氷の余韻に浸っていた晴君がソファが沈み込む反動を使って勢いよく立ち上がる。そのまま部屋から駆け出してどこかへ行ってしまった。どんどんどんと階段を上がっていく音が聞こえたがすぐさま下りてくる音に変化した。
「今日はこれで遊ぼう!」
晴君の様子に呆気に取られていると彼は戻ってきて手に持ったジグソーパズルの箱を掲げてから僕に突きつけた。どうやらおやつの時間は終わったらしい。今からは遊ぶ時間のようだ。
僕がうんと言う前に晴君は専用の土台を床に置いてから箱をひっくり返した。ピースがバラバラと床に積み重なる。中々の量だ。数百枚はあるかもしれない。
晴君が最初のピースを掴んで手本の絵と見比べているが難航している。ジグソーパズルとは最初の他に何もない状態が最も難しいのだ。
「どんな絵なの?」
僕も適当なピースを持って箱を見る。端には大小様々な雲が浮かび、真っ赤な太陽の光が降り注いでいる。そして中心には特大の入道雲。どうやら空を描いているようだ。
とりあえず端から埋めていこうと凹凸のないピースを探す。これは相当な難易度だ。白を見て雲だと思ってもいっぱい雲があるから何のヒントにもならない。空もそうだ。僅かにグラデーションがあるものの非常にわかりづらい。
ようやく全ての角を見つけた僕は手に持ったピースを押し込んで固定する。これだけでも神経を使った。砂の中からほんの小さな金の粒を見つけるが如き作業だった。だが、この四隅を起点としていけばぐんとやりやすくなるだろう。
パチリと音が聞こえた。
「晴君、すごいね。どんどん埋まってく」
僕が一息ついていると晴君はさっと繋がるピースを見つけて作っていく。
「もっと難しいのだって作ったから!」
僕の誉め言葉に気を良くした晴君は更にペースを上げていく。言葉通り彼の手付きは淀みない。
ピースが手に食い込んだ痛みに気づく。いつの間にか強く握ってしまっていたようだ。折角できたのに歪んで嵌らないとなっては申し訳ない。
気を取り直して盤面と向き合う。
「そうだ、今日はかき氷だったけど他に何か食べたい物ってあるかな?」
パチリとピースを嵌めて晴君へ投げかける。
「うーん」
晴君が真っ白なピースを次々と持ちながら悩んだ声を上げる。小さな雲の一つが早速完成した。
「わたあめとかは?」
真っ青なピースを持って僕が言う。生憎と綺麗すぎる空はやはりやりにくい。
「じゃあ、りんご飴」
あっという間に出来上がった真っ赤な太陽を指差す。
「うーん」
「あんまり?」
「うん。お父さんが買ってきてくれたけど」
「そうなんだ」
あまりに広い空の一部を片手に僕は悩んだ。できれば晴君には今日のかき氷のように喜んで欲しいのだが。
パチ、パチと音を響かせてしばらく、お手本とは随分と違う空が見えてきた。
藤沢さんと社長が帰り支度を始めたので、僕も晴君に声をかける。結局、空のピースは少ししか埋めることができなかった。
「……その、もう帰るね」
昨日もそうだったが、この別れを告げる言葉はどうにも慣れない。
「うん。バイバイ! また明日!」
対して晴君は昨日とは打って変わってあっけらかんと言った。
「うん、また明日」
その態度にほっとして僕も言葉を返した。
玄関の扉を開けて窓から顔を覗かせているであろう晴君に手を振ろうと振り返る。しかし、中途半端に手を上げた状態で僕は止まってしまった。晴君の姿が見えなかったのだ。他の窓や、あるいは玄関の方かと思ってもいない。何だか心配になって戻ろうとした時、晴君が子供部屋の窓に姿を現した。そして、昨日のように朗らかに手を振り返してくれた。
安心と少しの満足を得て、車に乗り込む。既に二人とも座って待っていた。
「お待たせしてすみません」
僕の言葉に社長が返事をしてすぐにアクセルを踏んだ。
昨日よりも心なしか車通りの少ない道を行き、夕暮れのほの暗さを頼りに帰っていく。
ようやく慣れてきたような道順でフロムハウスの事務所前までやって来た。寄り道をしなければ案外近いものだ。
挨拶をして、さあ解散だと明日の晴君のために持って行く物を考えながら僕が帰路に着こうとしたその時、藤沢さんに呼び止められた。
「何かあったんですか?」
僕がそう尋ねると、藤沢さんは几帳面に整えられた髪を乱暴に撫でつけ、ネクタイをぎゅっと締め直した。
「ええ、はい。そうなりますね」
藤沢さんにしてはらしくないあやふやな返事。それにどうにも言葉に詰まっているようで、僕に何かを言おうとしてやめるということをしている。何か重大なことがあったのかと嫌な予感が溢れてくる。
そして、藤沢さんは言った。
「有野君、あなたの業務は今日で終わりです」