日に当たったことがなさそうだ
甘い和菓子の後はやはり温かいお茶にかぎる。僕は湯呑を両手でも持ちながらお茶を啜った。羊羹も素晴らしく美味しかった。高級品であったのだろう、滑らかでありながら水っぽさもなく、くどさもなかった。スーパーなどで手軽に買える物も良いが流石に専門店には質で勝てないな。
「この仕事はどうだ。慣れてきたか?」
豪快にお茶を飲み干した社長が聞いてきた。
「どうすれば良いのかわからないこともありますが、少しずつ慣れてきたような気がします」
多少見栄を張ったがあながち嘘でもない。久保さんの時は何も知らなかったが、結月さんとは知った上で会ったからいくらか耐性も生まれたはずだ。
「そうか……」
僕の言葉に社長はピクリと動きを止めたかと思うとしみじみと呟いた。社長はチラリと藤沢さんを見たかと思うと何か考えているのかしかめっ面だ。
望んでいた返答ではなかったのか。すっかり慣れたなんて言えば良かったのか。
「あの、僕が来る前に何かあったんですか?」
話題を変えるため咄嗟に思いついたことを口に出した。僕が聞いていたとは思っていなかったのだろう。社長は目を丸くして驚いていた。
「お気になさらず。経営方針についての話し合いで少し熱くなってしまっただけですよ」
社長ではなく藤沢さんが割って入って答えた。見れば社長も頷いている。本当に大したことはないのだろう、ここに来てから今まで言い争っての禍根はなさそうだ。
「食べ終わりましたね」藤沢さんが立ち上がって皿と湯呑を回収してくれた。そのまま彼はお盆に乗せて奥へ向かった。
再び社長と向き合うことになると彼が言った。
「ちょうど良いタイミングだから今の内に伝えておこう。今回の依頼についてだ」
その言葉に背筋が伸びた。てっきり藤沢さんから伝えられると思っていた。次はどんな人になるのか。不意打ち気味だったせいで今から緊張してきた。社長はそんな僕を見て笑って、先を続けた。
「これが期間的に君にとって最後の依頼だ。だからと言って必要以上に気負うことはない。君の思うがままにやるように」
「はい、頑張ります」
力強く頷くと社長はこれまた笑みを深め、数枚の資料を取り出した。あれに今回の相手について記されているのだろう。
「少し待ってください」
そのまま読み上げようとする社長に待ったをかける。
「どうした、何か聞きたいことがあるのか?」
「あの、藤沢さんは待たなくていいんですか?」
まだ藤沢さんはお盆を持って行ってから戻ってきていない。依頼について話すのに彼も同席する必要があるだろうし、先に始めてもダメだろう。
「ああ、それなら大丈夫だ。藤沢君はもう知っているし、わざわざもう一度伝える必要もない。という訳だ。改めて今回の依頼について話すぞ」
しかし、社長があっけらかんと言ったので僕も静かに先を待った。
「お願いします」
そうして、社長が厳かに資料を読み上げ始めた。
◆
「これって、靴は脱がなくて良いんですか?」
鈍く光を反射するグレーの車体を眺めながらおそるおそる確認する。外を歩いたその足では車内を汚してしまう。見るからに高級な車を乗りこなしているんだ。きっとこだわりがあるだろう。
「どうせ乗ってれば汚れるんだから気にしなくていい。それに面倒だしな」
先に乗り込んだ社長がそう言ってくれたので覚悟を決めて乗り込む。可能な限り触れないようにしてドアを開けると、まず革の匂いが届いた。こういうのをヴィンテージだとか言うのだったか。視覚だけではない嗅覚でもその高級感を教えてきた。座席に腰を下ろすと体全体を包み込むような心地良さを感じた。背もたれを使うのも気が引けて慌てて体を起こした。
「そんなに緊張しなくても良いんだが」
社長がバックミラー越しに僕を見てとても愉快そうに言った。いきなりそんなことを言われても無理なものは無理なのだ。これがよく見かける一般的な車であったなら足を組んで座ることもあるだろうが、今の僕は膝に置いた手も動かしたくない。いっそのこと空気椅子でも始めてしまおうか。
「危ないからしっかりと座ってくださいね」
助手席に座っている藤沢さんにそう言われて観念して、浮きそうになっていた腰を再び下ろす。
「安全運転でお願いしますね」
「当然だ。それじゃあ行くぞ」
アクセルが踏まれ僕たちを乗せた車が発進した。エンジン音を聞きながら僕は窓から外を眺めた。そして、数分前のやり取りを思い出す。
「それじゃあ、今回は俺も行こう」
事務所で資料を読み終えた社長がそう言った。始めは僕と藤沢さんの二人で行く予定らしかったのだが、突然決めたようだった。当然気が引けて断ろうとしたが、彼の中では既に決定事項であったようで押し切られてしまった。頼みの綱の藤沢さんも何も言わなかったので鶴の一声には逆らえなかった。そんな理由で僕はこの足が竦む高級車に乗り込む羽目になったのだ。
まあ乗ってしまったのだからどうしようもない。折角だから車好きの友人への自慢話にでもしよう。僕は意識を切り替えて背筋を伸ばしたまま車に揺れた。
少しして事務所から離れて大通りに出た。何車線もある道路に沿って飲食店など多くの店があり、どこも盛況なようでウインカーを点灯させて入っていく車が何台も見えた。
「有野君はバイト代の使い道は決まってるのか?」
横断歩道の前で停止した社長が言った。
「特に決めていないですね」
母に言われてバイトを始めたはいいが、使い道は考えていなかった。何が良いだろうか。遊びに行ったり、ゲーム機を買うのも良いが一人で行くのも味気ないし、少し前にゲームは買ったばかりだ。まあ、とりあえず何か美味しい物は食べよう。大きな焼肉の看板を見てそう思った。
大きなショッピングセンターの手前で左折し、比較的細い道に出た。バスみたいな大きな車だとすれ違うのも難しそうだ。それに合わせて車通りも少なくなってきた。
車内に流れる陽気な音楽と蝉の声が混ざり合う。おそらくは社長の趣味だろうがこの季節のセンターには勝てないようだ。
「藤沢さん、今回の依頼は三人で行うんですか?」
結月さんの時のように僕一人だと思っていたから安心だ。いざとなれば僕よりも経験のある二人の手も借りられる。
「藤沢さん?」
返事がない。もしかすると寝ているのか。毎日長い時間働いているのだから無理もないな。しかし、上半身を傾けて助手席を覗き込むと藤沢さんは起きていた。そんな彼の顔に浮かぶのは険しい表情。
「え、ああ。いいえ。あくまで私たちはサポートで、メインはあなたです」
僕が見ていると気づいた藤沢さんが言う。そこには強張った様子もなく見覚えのある柔和な顔があった。雰囲気だって普段通りだ。僕の気のせいだったのだろうか。
考え込んでいるとハンドルが切られて力に負けて倒れそうになった。慌てて座り直す。何となく話すのも躊躇われて僕は静かに到着を待った。
時速三十キロの標識に従って数分。視界に家が多く入るようになってきた。立ち並ぶ家屋はどれも似たような見た目でよくある住宅街だ。
錆だらけの滑り台しかなく雑草が侵略している小さな公園を通り過ぎた。すると、車がゆっくりとスピードを落とした。
「着いたぞ」
社長が降り、僕も続く。着いた場所はごく普通の一軒家。車一台分入るであろうスペースと玄関の横にある花や木が植えられた小さな庭が僕らを出迎えた。
僕はそっと車から降りようとしている藤沢さんを見た。
「その、何かあったんですか?」
「いえ、何もないですよ。少し目にゴミが入ってしまっただけです。ご心配をかけて申し訳ございません」
藤沢さんは目元を何度か揉むと答えた。
「鍵は預かっています。早速行きましょう」
やはり考えすぎか。僕は鍵を開けて扉を開け中に入った社長と藤沢さんの後を追った。
およそ三種類ほどの大きさの靴が散乱している玄関を抜けて廊下のすぐ側の部屋に入る。その部屋にはテレビやソファと大きな家具あったからおそらくリビングだろう。テレビの前には一緒に遊んでいたのかゲーム機が置き去りにされている。よく見れば床や机には薄く埃が積もっていた。聞いていたが誰も住んでいないようだ。しかし、コップなどの食器、端に置かれたお菓子など生活感は完全には消えていない。
「この部屋にはいないみたいですね。有野君、二階を見てきてくれませんか。私と社長で一階の他の部屋を見て回りますので」
しばらくリビングで探していたが見つからず、藤沢さんがそう提案した。見れば、彼は窓から庭も探していたりもしているようでその視線は忙しい。
「そうだな。手分けした方が早いか。奥の部屋は俺に任せてくれ」
社長が先に廊下へ向かった。手当たり次第に動いているのか扉を開ける音が何度も聞こえてきた。
「わかりました」
僕も二階に向かうため木でできた階段を上っていく。埃のせいで気づけていなかったがこの家は比較的新しそうだ。実家の階段だったらもっとギシギシと音が鳴ったものだがこの家にはそういうのがない。
微妙なカーブを描いている途中まで上がり、階段の先が見えるようになった。すると、僅かにはみ出した黒い髪の毛と真っ白な手に気づいた。同時に誰かが息を飲んだ気配も感じる。
「そこにいるんですか?」
問いかけても返事はない。けれど、タッタッタと軽い足音が聞こえたかと思うと二階の部屋の扉が開き、気配がなくなった。怖がらせてしまったか。
なるべく刺激しないようにそっとその人がいるであろう部屋の前に立つ。
「僕は有野って言います」
コンコンと優しくノックすると動きがあった。ドアハンドルが下がり、すぐに元に戻る動きを数回繰り返す。開けていいのか迷っているのだろう。傍から見ればいきなり現れた不審者だから仕方ない。
「晴君、君に会いに来たんだ」
用件を伝えると動きが止まった。扉越しにうんうん唸る声が聞こえてくる。
「……僕に?」
「うん、君に」
しばらくそうしていたが、決心したようであちらからも聞いてきた。そしてゆっくりと扉が開いた。そこからひょっこりとその子、晴君が顔を覗かせた。右目だけを出した彼のくりっとした目と見つめ合う。
「こんにちは」
腰をかがめて視線を合わせると左目も見えるようになった。小さな手で頑張って体を支えてプルプルと震えながら少しずつ姿を見せていく。やがて、全身が現れると晴君は小さくぺこりと頭を下げた。
「……こんにちは」
「こんにちは。僕も入っていいかな?」
警戒心はまだあるようで首を振られる。
「ダメかな?」
「合言葉がないと入っちゃいけないんだ」
「合言葉?」
「うん」
晴君が向けてくる視線は疑わしい奴を見るものだ。早く信用を得たい。とは言っても合言葉なんて知っているわけがない。
「教えてもらえたり、するかな?」
「それじゃ意味ないもん」
へそを曲げられてしまった。それもそうだ。だがせめてヒントぐらい欲しい。辺りを見渡しても何も書いていない。
「えっと、開けゴマ!」
「違う!」
当てずっぽうに言ってもダメだった。地団駄を踏んで扉を閉まられそうになる。
「ヒントを下さい」
すると、不満をありありと見せた顔で晴君が自身の胸を指差した。
「だったら、この名前が言えたら良いよ」
晴君が示したのは彼が着ていた服にでかでかと描かれたキャラクターだ。青い生地にそのキャラの明るい色が良く似合っていた。そのキャラは僕もよく知っている。
「モグラドン、で合ってるよね?」
と答えると晴君が駆け寄って来た。ぴょんと飛び跳ねていて、今までの警戒は何だったのかと思うような変わりようだ。
「知ってるんだ! 早く入って! お話しよ!」
手を引かれて部屋に招かれる。晴君は何か見せたい物があるようで隅に置かれた箱を見に行った。
ごそごそと色んな物を取り出しては違うと言って投げ捨てる晴君をよそに僕は床に座り込んだ。電車や車が描かれたマットが敷いてある。更にその下にも何かあるようでスポンジのような柔らかい感触がした。
晴君が投げ捨てた物が手の届く場所にも転がって来たので手に取ってみる。ヒーローの人形だ。惨敗の歴史だったのだろう相手の怪獣は既に寂しく転がっている。立派な変身ベルトなんて物もあった。
おもちゃに囲まれたここは考えるまでもない子供部屋だ。そして、この部屋の主である晴君は今回の目的の人物で――。
晴君を見つめる。彼はこんな暑い日にも関わらず手首の辺りまで覆う服を着ている。そこから覗かせる手は日に焼けたこともないような真っ白だ。
そんな晴君の年齢は僕の半分にも満たない、六歳だ。