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フロムハウス  作者: KN
11/19

月光を飲むステージ

 ライブへ行った翌日の夜、僕は連日来ることになったこのイベントホールを見て感慨にふけった。結月さんはどんな顔をするだろうか。

 何となく空を見上げると、顔色の悪い月があった。今日は満月だそうで、少しの欠けもないまん丸だ。まあ、きっとおあつらえ向きか。

 昼間のこの会場を体験するとよくわかる。夜のこの場所は全く違う。どこか拒絶的な雰囲気を孕んでいるのだ。

「あー」

 静寂を塗りつぶすように軽く声を出してみた。その声は昨日に大声を出し過ぎたせいで少しかすれている。しゃがれた声に思わず笑い、鞄から水を取り出して喉を潤すと少しマシになった。

 受付もいない道を抜けて、もぬけの殻になった会場を進んでいく。一歩進む度に足音がよく反響する。そして、たどり着くと今日もいた。結月さんは今日も客席に座っていた。そんな彼女が見つめるのは空虚なステージ。

「結月さん」

 彼女の名を呼ぶと、ゆっくりと振り向いて両の目がこちらを捉えた。僕を視界に入れるとその目を僅かに見開いて、口角を少し上げた。

「有野君、今日は来たんだ」

「それは来るよ」

「昨日は来なかったくせに!」

 結月さんがわざとらしく頬を膨らませる。

「昨日はここのライブを観に行くために休みをもらったんだ」

 慌てて説明すると彼女の頬から空気が抜けた。大げさにほっと息を吐いている。

「良かった、飽きちゃったのかと思ったよ。でも、君がライブに行くなんてなんだか意外。で、どうだった?」

 ニヤニヤとなぜか得意げにしている結月さんの言葉で昨日のライブを思い返す。全てを上手く言葉にすることは僕には難しいが、以前の苦い思い出を払拭できたことは確かだ。それだけ素晴らしいものだったと言える。だが――。

「君はさ、本当に未練がないの?」

 唐突に僕が切り込むと、結月さんは驚いたように口を開けたかと思うと顔を顰めた。一瞬前の笑顔が幻だったのではないのかと思うほどの顕著な変化だ。

「今日は良いでしょ、そんなの。折角だからさ、もっと楽しい話にしようよ」

「改めて聞きたいんだ。それで、君はどうだったの?」

 結月さんの言葉に従わずに僕が更に続けると、彼女は客席を叩いた。

 空気が張り詰めて他の音が遠くなったように感じる。

「言ったでしょ。私は走り切った、アイドルをやり切ったって!」

 結月さんが言い捨てた。膨らみ切った風船に空気を入れるように更に嫌な緊張感が場を包んでいく。僕は思わず飲み込んでしまいそうになるがどうにか言葉を紡いでいった。

「どうしても思い浮かばない?」

「だから、そう言ってるでしょ!」

 結月さんが眦を吊り上げた。

「昨日さ、調べてみたんだ。君がどんな風に歌ってたか、どうやって踊っていたかを」

「それで? それが何だって言うの?」

 苛立たし気に結月さんが僕を睨む。

「だから、見たくなった。君のステージを」

 結月さんに近づく。すると、彼女は怯んだように身を捩った。立ち上がって逃げようとした彼女の手を掴む。掴んだ手は冷たく、震えていた。

「ステージにはもう立たないよ。それに、月を見ていた方がよっぽど良いよ。私なんかよりずっと綺麗だし」

「下を向いていたら何も見えないはずだ」

「……こうしていても明るさぐらいはわかるよ」

 結月さんが俯いた。けれど、月は彼女の背後に昇っていて彼女からは全く見えやしないはずだ。

「僕はそう思わないよ」

 そう言うと、結月さんの震えが止まった。僕の言葉が届いたわけじゃない。むしろ、その逆だ。何かを僕に聞こえない声で呟く彼女。そして、限界まで張り詰めた空気が破裂した。

「私にはわかるの! 君は知らないだけ! ここに来て月を見る度に私がどんな気持ちだったか! 私にはあの輝きを直視できない! アイドルはもう終わった、終わったの!」

 そう言って僕の手を振り払った結月さんはぐったりとして客席に座り込んだ。その姿にアイドルとしての彼女は見る影もない。

「……今日はもう帰って。今は君と話したくない、ひどいことを言ってしまいそうだから」

 結月さんは意気消沈として膝を抱え込んだ。僕の声だけではない、全て拒絶する態度だ。

 僕はそれ以上何も言わず彼女から離れた。踵を鳴らして歩く。彼女の姿が遠くなっていく。

 そうして、僕はステージに上がった。

 ステージの上から望む景色とはこんな感じだったか。喧騒は随分と遠くに行ってしまって、立ちはだかる物もないから見通しが良い。周囲の木々や夜空がよく見える。だけどきっと、この葉音は歓迎ではないだろう。

 鞄の中を漁り、ある物を取り出す。ここに来る前、藤沢さんから借りた物だ。それをスマホと接続させて準備をする。こんな小さな物だがスマホだけでするよりよっぽど良いらしいのだ。

 眼下では結月さんが未だ下を向いていた。折角の舞台を見てもらえないなんて少し歯がゆいが僕にはちょうど良いだろう。唇を湿らせながらそう思う。そろそろ準備もできた。スマホを操作して開始する。

「君にだけ見せてと言うのも不公平だ。だから、先に僕が。それじゃあ、ミュージック、スタート!」

 その瞬間、藤沢さんから借りたスピーカーが音を奏で始めた。静かな空間に似つかわしくない明るい音色が響く。木々のさざめきをかき消し、空気を変えていく。

「私の、曲?」

 呆然と結月さんは呟いた。流石にすぐにわかってしまうか。彼女の言った通り、僕が流したのは彼女の曲だ。だが、ただ流したわけではない。もう乾き始めた口を開き大きく息を吸うと、僕はリズムに合わせて足を動かし始め、タイミングを計り歌い出した。


 曲が終わり、僕は荒くなった息を整えた。座り込んでしまいたくなるのを堪えて結月さんを見る。

「……何がしたいの。そんなの見せて!」

 彼女は怒気を露わにしていた。客席から立ち上がった彼女の鋭い目が僕を貫く。僕が何も言わないままでいると彼女は更に声を荒げた。

「ダンスはリズムからズレてるし、歌だって音を外してる! 何もかもできていない!」

 結月さんの指摘の通り僕のパフォーマンスは見るに堪えないものだった。声は上ずっていてろくに高音なんて出ないし、ダンスについても何度もよろけて転ばなかったのが不思議なくらいであった。それも当然だ。僕は昨日までこの歌を知りもしなかったのだから。昨日、ライブから帰った後に必死こいて練習したのだ。

「表情だって私はそんな変な顔なんてしてなかった!」

 結月さんの言葉に少し笑ってしまう。そんなにひどい顔をしていたのか。練習不足も甚だしいな。だけどきっと、いや確実に、十分な時間があっても上手くはいかないだろう。そんな確信が今の僕にはある。

「君のことを知ろうと思ったんだ。実際にやってみて少しでも君に近づこうとした。だけど、僕にはこれっぽっちもできなかった。どうやっても上手くはいかなかった。君の足元にも及んでいない」

 踊りながら歌うことがどれだけ難しいか。普通に歌うのとは比べ物にならないほど疲れるし、どこで息を吸えばいいのかわからなくなるほど曲中に余裕がなかった。

「当然でしょ!」

 鼻息荒く頷いた彼女に対して、僕は頭を下げた。そして、狼狽える彼女にたたみかけるように言う。

「だから、改めてお願いします。君のステージを見たいんだ。画面越しでも、過去のものでもない。今ここで、僕の目で直接君を見たい」

 ライブを観た時から、いや結月さんがアイドルだと知ってからずっと考えていたことだ。このステージで結月さんはどんな風にパフォーマンスをしていたのか知りたいと。そして、その考えは彼女の真似をしようとして更に深まった。

「……嫌だ」

 しかし、結月さんの顔色は悪く、彼女は拒絶の姿勢を取った。現れたのは前回僕が提案した時にもどこか漂っていた気配。

「どうして?」

「今の私は、私にはもう何もない。きっと、ステージに立つとそれが突きつけられるの!」

 彼女の悲痛な叫びを笑い飛ばす。能天気に明日の天気でも語るかのように。

「何もないわけがあるか。君は僕に言ってくれたじゃないか、ダメダメだって。そこには君の確かな積み重ねがあった。だから、君はまだアイドルなんだ」

 僕の言葉に結月さんは何も言わず顔を伏せた。僕の呼びかけにも反応しない。ステージから手を伸ばしても取る素振りも見せない。二日前と同じだ。ステージと客席との間に深い亀裂ができたように感じる。

 だから――。

 僕はステージの奥の奥まで下がった。足で床を軽く押して感触を確かめる。足首も回して、準備体操もバッチリだ。

 僕は走り幅跳びが得意だったのだ。それこそ、陸上部とだって良い勝負もできるほどに。たかが数メートルどうってことないはずだ。

 足を踏み出して助走をつける。一歩、また一歩と速度を上げていく。助走距離は短いがこれで十分だ。

「今度は届かせてみせるから!」

 僕は勢い良く床を蹴り、俯いたままの結月さんへ向かって体を投げ出した。一秒にも満たない僅かな時間、僕の体は重力という鎖を取っ払った。様々な(しがらみ)から解き放たれ宙にいる僕の目とまん丸に見開いた彼女の目が合った。

 やがて、宙に浮いて反った体が重力に引っ張られて弧の軌跡を描いていく。

 砂も何もない、着地も何も考えていない状態で地面に転がる。擦ったところがヒリヒリと痛いが、おかげで結月さんの下まで届いた。

「僕にはステージなんて降りるだけでこんなになるぐらい似合わない。でも君はそうじゃない」

 シャツには奇抜な跡が付き、ズボンには大胆なダメージが入っている。中々に強烈なファッションだ。映像の中の結月さんが着ていた可憐な衣装とは似ても似つかない。

「……そんなことはないよ。私には上がる勇気もないんだから」

 結月さんが目を逸らす。ステージとは全く違う方を向いた彼女は顔をしわくちゃにして怯えていた。

 ――そんな変な顔なんてしてなかった!

 少し前の結月さんの言葉を思い出し、僕は肩を抱いて震えていた彼女の顔を両手で挟み、目を合わせた。頬が潰れて唇を尖らせた彼女が驚いた顔をする。

「君は、そんな顔はしてなかったんじゃないの?」

 結月さんが大きく目を見開いて、苦痛に顔を更に歪めた。そして、何かを言いたげにもごもごと口を動かした。僕の手を振り払うと彼女は言った。

「アイドルは、もう終わったの」

「本当に?」

 彼女の顔が歪み、嗚咽のような声が漏れた。

「……月も眩しいの。こうなってからずっと、どうしても目に入って私の価値を否定してくる」

 結月さんは血を吐くように言った。その表情はとても見られたものじゃない。

 だが、僕には初めて結月さんの心の奥に触れられたように感じた。前回も月には届かないなんて冗談めかして話して気丈に振る舞っていたが、今はそんな余裕もなくただ怯えている。僕が気づけなかっただけで彼女は本当に追い詰められていたのだ。それこそ、こうやってステージで歌うことを拒否してしまうほどに。

 だからこそ、このまま諦めるわけにはいかない。

「だったら、大丈夫。ほら見てよ」

 空を指差すと、ちょうど月には雲がかかっていた。分厚いそれは月光を遮り、こちらに届かせることはない。今がチャンスだということを伝える。それでも、結月さんは動こうとしない。

「今、スポットライトは君にだけ当たっているから」

 手を握り、ステージまで強引に引っ張ると抗う元気もないのか、結月さんはされるがままに歩き出した。そして、僕が手を離すとふらふらとそのままステージに上がっていった。

 客席からステージに上がった結月さんを見た。彼女は背中を頼りなく曲げていて、その足取りも覚束ない。足を止めると頻りに深呼吸を繰り返していて、ぎゅっと目を瞑ってもいた。風が止む。ここには歓声も拍手もない。辺りには彼女の息の音だけが響く。

「……やっぱり無理だよ」

 結月さんはいやいやと首を振って立ち尽くしてしまった。僕はそれに答えずスマホを操作した。瞬間、止めてしまった足が一歩踏み出した。

「何で……」

 結月さんは信じられないような顔で自分の足を見つめた。曲を止め、僕も答える。

「これが証拠だよ、君がまだアイドルだってことの」

「でも、それでも。私はまだ……」

「どうか一度だけ、いやこの一曲だけでいいから僕に見せて欲しいんだ」

 僕がそう言うと、結月さんは躊躇いながらも遂に小さく頷いてくれた。

「……わかった」


 結月さんが声を出し、体を軽く動かしているのを眺めて待つ。すると、その時が来た。

「……君には感謝しているんだ。私の話相手になってくれたし、色々と考えてくれてるから。だから、本当はもう終わったものだったけど、最後に一度だけ。君がどうしてもと言ってくれたから。月が見えない今、その間だけ」

 深く息を吐き切った結月さんが目を開けて、僕を見た。そんな彼女の目は不安という光を宿して揺れ動いている。胸の前で両手で握った拳は小刻みに震えてもいた。

 深い闇夜が僕らを包む。濃い霧のように視界を遮って、照明が心もとない物と思えてくる。

 僕の中にも不安が顔を覗かせ、不吉な予感がそこら中に見えてくる。スマホを持つ手にじっとりと嫌な汗が滲んだ。

「始めて」

 そんな僕に結月さんが合図を出し、僕も一度深く息を吐いてからスマホを操作した。

 先ほど僕が流したのと同じ曲が流れ始めた。前奏から始まり、場違いなリズムを刻んでいく。そして、ついに結月さんが動き、声を出し始めた。

 息を飲み、吐こうとした空気が不格好に口から漏れた。

「聞き逃さないでね」

 気づけば結月さんの表情はまるっきり変わっていた。その目に揺れ動く視線はなく、一心に前だけを見ている。その顔に咲くのは満面の笑み。

 軽やかに動く足に合わせて艶やかな髪が揺れる。夜の闇と同じはずなのにその黒は照明の僅かな光を受けてキラキラと際立って見えた。彼女がステップを踏む度に僕の心臓がうるさく騒ぎ立てる。

 さらに、彼女の歌声が静寂を優しく手折っていく。その調べはどこまでも届いてしまうのではないかと思うほど高らかで、しかし近くにいても決して耳障りにならない。

 インクを水に落とすかのように雰囲気が塗り替えられていく。

「これが……結月さん。いや、アイドル松原結月」

 聞こえてくる美しい声。躍動感がありながら、滑らかなダンスが目に飛び込んでくる。結月さんが着ていた服はアイドル衣装でもなんでもないものだったはずだ。だが、今のステージに立っている彼女はどうだ。照明から放たれる光を着こなしている様はまるで光のドレスを身にまとっているようだ。思わず体が震えた。それは抑えようとしても止まらない。ぶるぶると心の奥底から生まれた振動は止められない。

 がらんとした会場とは思えない熱気が満ちる。昼間にだって負けない、いや圧倒しているとさえ思える炎が見えた。その炎が僕に見せてくる、彼女が辿った軌跡を。

 ゆらゆらと揺れる空気に映し出された光景も伝えてくる。僕には全く結月さんを推し量れてはいなかったのだと。ああ、認めるしかない。僕はアイドルとしての彼女について何も知らなかったのだ。

 初めて会った時、そして会話をして楽しそうに笑っていた時やおどけていた時とはまるで違う。ましてや、月で影を作りながら寂しそうな顔をしていた人とは到底思えない。

 それでも良いか。思わず笑みがこぼれた。

 曲は一番が終わり、間奏に差し掛かった。僕は結月さんの次の動きを見逃すまいと彼女をじっと見つめた。更に彼女のパフォーマンスは盛り上がっていくはずだ。

「……え?」

 しかし、どういう訳か結月さんの動きがおかしくなった。突然、ぎこちなくなりステップを踏もうとして転びそうになったのだ。次第に動きもなくなりついには立ち尽くしてしまった。しまいには、二番になっても歌い出そうともせずに黙り込んでしまった。

「……あっ」

 結月さんも声を出そうとしているようだが消え入りそうなものしか聞こえてこない。

 何が、何があったんだ。こんな振り付けは当然ないし、あれだけのパフォーマンスを見せていたのだ。ここからわからないというわけじゃない。

 その時気づいた、地面に映し出された影に。これはステージの照明によるものじゃない。これは、まさか――。

 空を睨んだ。そこには既に雲はなく、夜闇を明るく、それでいて美しく照らす月があった。

 結月さんがその場で肩を抱いた。彼女の呼吸が荒くなっていく。彼女で占められた空気を塗り潰し、静寂が場を支配する。

「ああ……」

 結月さんは呆然と月を見上げていた。はくはくと口を開いて光に溺れている。優雅に着こなしていたドレスが解れていく。やがて、彼女は目を細めて月を見たかと思うと俯いて――。

 ――かさかさと木々が揺れる音が聞こえた。

 何度も聞いたそんな音だ。だけど、なぜか今のだけはそれが拍手のような、あるいは歓声のような気がした。

 僕は気づけば昨日のライブよりも遥かに大きく声を張り上げていた。

「まだ! まだ、曲は終わってない!」

「でも、私は――」

「月がなんだ! あんなのに負けっぱなしで良いわけがない!」

 正直なところ、このステージで何が変わるのか僕にはわからない。ただ見たかっただけで、見たくはなかっただけだった。でも、今は絶対に止めてはいけないとはっきりとそう思った。

 結月さんがこちらを見た。彼女の目から動揺がはっきりと見て取れる。僕も彼女の目を見つめ返した。絶対に退かない、そんな思いで目を逸らさない。さらに曲の音量を上げて、月から気を逸らす。

「後、少しなんだ。どうか最後まで僕に見せてくれ!」

 結月さんが目を見開いた。彼女の目に微かな熱が宿る。

「有野君……。――うん」

 結月さんの足が再び動き出した。宙に浮いた足を地面に打ち付ける。かん高い音と共に動きは徐々に激しくなっていく。歌も歌い出した。それは掠れた声だったが次第に大きくなっていった。

 しかし、そのパフォーマンスは先ほどまでと比べると精彩を欠いている。引き攣った表情も隠せていない。結月さんもそれをわかっているのだろう。彼女は苦しそうに息を吸っていた。

 最後のサビを迎えてもそれは変わらなかった。それでも、結月さんは必死の形相で言葉を紡ぎ、よろめきながら踊った。

 曲が終わり、息も絶え絶えな結月さんがステージで緩やかに動きを止める。

「……ダメ、だったかな……。結局私は月に……」

 悲しそうに結月さんが言った。その声は震えていて今にも泣き出してしまいそうだ。

 月が結月さんへ光を降らす。それは明るくて、眩しくて、煌びやかで。以前と同じように彼女を包む。

 だけど、今は違う。なぜなら――。

「君が一番輝いていた! 月よりも、他の何よりも!」

 月が明るかろうがそんなことは関係がない。それだけの輝きを結月さんは放っていたんだ。

「……そんなことないよ」

 結月さんは首を力なく振って否定した。

 このままでは結月さんは認めてくれない。歌やダンスを褒め称える言葉はたくさんあるがどれも陳腐なものに過ぎない。これではきっと彼女には届かないだろう。今夜、照明を当然として月までもが結月さんのステージの引き立て役に過ぎなかった。それほど、凄いステージだったんだ。

 歯を嚙み締める。すると、風が吹いた。この季節には珍しいカラッとした心地の良い風だ。木々が揺れ、大きな葉音が鳴った。

 その瞬間、頭で考えるよりも先に喉を心から発された声が通り過ぎた。


「――君は月光を飲んだんだ!」


 それはこの日送られた最も大きな喝采に負けないほどの声だった。

 結月さんが目を見開き息を飲んだ。彼女の目から雫が落ちる。そして、小さな声で問いかけてきた。

「……本当に? 本当の本当?」

「本当に決まってる。月なんか目じゃないステージだった!」

 間髪入れずに答えて力強く頷き、結月さんを見つめた。彼女は呆然と僕の言葉を繰り返すと、ポツリと言った。

「そっか、そっかあ……」

 結月さんは胸の辺りをぎゅっと握り、その手を開いた。心の奥底にしまい込んでいたものを取り出したような仕草だ。

 沈黙が落ち、鼻をすする音だけが聞こえてくる。

 やがて、それが止むと結月さんは指で何かを描き、大きく息を吸った。

「……もう一回。うん、もう一曲!」

 結月さんの声が響き、僕は驚いて彼女を見た。彼女は胸を張り、月を睨みつけていた。

「他の曲もあるし、私のライブは始まったばかりだよ! だから、宣戦布告!」

 結月さんが腕を伸ばし真っ向から月と対峙する。よく見れば膝が微かに震えていて、腕だって下げかけては上げ直すを繰り返してもいた。

「そうだね。とびっきりの奴をかまそう!」

 僕は笑って素早くスマホを操作した。そして、結月さんが声を上げた。

「見とけよ、月!」


 それからは圧巻のステージの連続だった。曲調が変われば、結月さんもまた変わった。姿形は同じままだが、別人と思えるほど様々な姿を見せた。マイクもない、音響だって小さなスピーカーの一つだけ。それでも、その素晴らしさは月を飲み干しても余りある。

 額に丸い汗を浮かべ、なびく度に乱れていった髪がふわりと動きを止めた。結月さんは握り拳を作り口元に持っていった。いつか見た即席マイクだ。

「私には夢があったんだ。アイドルになりたいと思ったその時に抱いた無謀でくだらなくて、月並みな。歌で世界を変えるなんて意気込んだり、誰かを元気づけようなんて思ったりして。でも、いつからか無理なんだって思うようになって。それを月に重ねてた。届かないんだって、あの光には勝てないんだって」

 結月さんが一歩前に踏み出すと月が彼女をより強く照らし出す。

「私の世界はすっかり変えられちゃったのにね!」

 その手には真似をしていた時とは比べるまでもない立派なマイクが見えた。

 僕はタイミングを合わせて次の曲を再生した。今まで曲の順番に指定はなかった。僕が目についたものから流しても、結月さんは淀みなくパフォーマンスを行ってみせた。だが、この曲だけは違った。

「これが最後の曲です! 私のアイドル人生はこの曲から始まったんだ。だから、色んなことがあったけど最後はこの曲で!」

 既に疲労は隠せてはいない。そんな余裕もない。本当に苦しそうに肩で息をしている。ここまでノンストップなのだから無理もない。しかし、結月さんは最後の最後まで心底楽しそうに笑っていた。

 

 最後の曲も終わり、結月さんの荒い息づかいが響く中、僕は力の限り大きく拍手をした。

 対して結月さんが深いお辞儀をした。それは数秒、十秒と長いものだった。

「ありがとう、ございました……!」

 そして、顔を上げると照れくさそうに僕を見て言った。

「ごめんね。私、ちょっぴり嘘を吐いてた!」

「何のこと?」

 謝られることなんてない。伝えなくともわかったのだろう。結月さんは呆れたように「そっか!」と呟いた。

「だったら勝手に言うから、それじゃあ聞いてね――」

 その身に月光を浴びて結月さんは笑った。どんな照明よりも幻想的なスポットライトが彼女の姿を彩る。

「やっぱり、私にはまだまだほんの少し、いやもっと、ずっといーっぱい未練があったよ!」

 結月さんはそう語り、はにかんだ。目の端に光るものを溜めながら未練がないと言ったその表情は不思議なほど美しかった。

 

 僕が結月さんに見惚れていると、彼女は雰囲気を変えるように軽い調子で言った。

「これで私のことよく知れたでしょ!」

 実は僕が知らないと言ったことを根に持っていたのか。

「当然だよ。よく知れた」

「本当かなあ? 君はなんかうっかりしてそうだからなあ」

「そんなことはないよ。絶対に忘れないよ。忘れたくとも忘れられない」

「それならよし。なーんて、信用できない! ほら、こっちに来てよ!」

「良いけど、どうしたの?」

 結月さんが僕に手招きしてきた。首を傾げながらも大人しく従い、彼女の下まで向かう。触れられる距離まで行くと、彼女は僕に抱き着いてきた。

「これなら忘れないでしょ!」

「うわっ!」

「いつか、どれだけ時間がかかるかわからないけど、次はぜーったい聞き逃さないでね!」

 突然の行動に慌てふためいていると結月さんの体が輝き出した。それは眩く、けれども柔らかな光。

 悟ってしまう。ああ、別れの時間だ。

 過ごした時間はたった数日、たった数時間。それでも、重ねた会話が、思い出が瞬時に僕の頭を駆け巡る。

「ほら、そんな顔しないの」

 頬に手を当てられた。僕よりも小さな手。だけど、僕に確かな温もりを与えてくれる。

「私の真似をしたのなら最後までちゃんとしてよね」

 結月さんの手が僕の口角を上げる。無理やり作られた笑顔は不格好だったのだろう。彼女はおかしそうに僕を見つめていた。

 思わずその手に触れると、その手が少しずつ光に溶けていく。ぎゅっと握ろうとしても僕の手は空を掴んだ。

「本当にありがとう! 君のおかげで私は言えたんだ、未練があったんだって!」

 キラキラと輝く光の粒子と結月さんのそんな言葉を手の中にしまって、僕は結月さんに言った。

「僕の方こそ、君のステージを見られて本当に良かった!」

「またね!」

「また、いつか!」

 結月さんはそう言って夜空へ羽ばたいた。鼻をすすってそれを目で追う。

 結月さんは最後まで溌溂と手を振っていた。


 主役不在となった会場。そこは先ほどまでの輝きからは随分とかけ離れてしまっていた。見ていると、僕にも寂しさが募ってきた。結月さんはどう思っているのだろうか。

 すぐにかぶりを振った。違うか。結月さんはより広大な場所にステージを変えただけだ。

 ふと、僕は夜空を見上げた。

 雲もすっかりどこかへ行ってしまって今日の空は星が良く見えた。数えきれないほどの星々が夜空で瞬いている。だけど、きっと結月さんを見失うことはないだろう。だって、どんな星よりも眩しい笑顔を彼女は見せてくれたのだから。

 だから、今は取っておこう。別れ際、口をついて出そうになったアンコールを僕はポケットに押し込んだ。

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