吐き出すように
休みをもらって翌日の朝、僕は最寄りの駅まで来ていた。構内にはラッシュ時ほどとまではいかないが多くの人がいる。
ネクタイをきちんと巻き、足早に歩く人。流石に暑いのだろう、額に浮かんだ汗を頻りにハンカチで拭っている。腕時計もチラチラと気にしている。こんな日でも忙しいのだろう。頭が下がる思いだ。
他に目を向ければ、子供を連れた夫婦といった休日の様相を見せる人もいた。手を下に緩やかに伸ばして間に子供を挟んでいる。これからどこかに出かけるのだろう。遊園地にでも行くのか。
ばっちりとメイクの決まった女の人もいたりした。白く清楚で暑さを感じさせない恰好はデートかなんて邪推してしまうほど気合が入っている。かと思えば、心配になるほど足元の覚束ないサラリーマンが目の前を通った。スーツは心なしかよれていて顔色だって悪い。二日酔いか。かつて見たことがあった父の二日酔いの様子と似ている。あの時はいつもはっきりと目を覚ましているはずの父は布団から出ずに呻きっぱなしだった。真面目で評判な父が休むなんて言い出したくらいだ。僕は体験したことないがよっぽど辛いのだろう。心の中でエールを送る。どうか頑張って欲しい。
サラリーマンが改札の先に消えてからも、様々な人が現れては去っていった。何度か人が流れ込んできたのを見届けてスマホを取り出す。そろそろ時間だ。
「悪い、遅くなった!」
背後から声が聞こえて振り返る。そこにいたのは膝に手をついて袖で汗を拭っている男だった。彼こそが待ち人にして昨夜唐突に誘ってきた友人だ。
「大丈夫、時間ちょうどだよ」
と言っても友人はバツが悪そうな顔をしている。
「どっちにしても待たせただろ?」
「まあ、確かに待ったな」
「そこは待ってないよって言うとこだろ」
「絶対嫌だね」
こいつじゃ役者不足だし、そんなデートみたいなのはごめんだ。せめて、さっき見たお洒落な女性だったら僕も気合が入るものだが。
「というかお前、どうせ僕が見えてから走ったんだろ」
そう言うと今までの殊勝な真似をやめてにやけ面を見せてきた。やっぱりそうか。こいつは毎度、無駄な演技を入れてくるのだ。あからさまな演技に苦言を呈してもまだ続けている。以前、それをする理由を聞いたら、いざ本当に遅れた時に許してもらえるかもというものだから抜け目がない奴だ。
「中々上手くなっただろ。急ぐふり」
「僕は下手であって欲しいけどね」
そう言うと、目の前のこいつはからからと笑った。
「そろそろ電車が来るし、早く行こうぜ」
友人が先を意気揚々と行ったので僕も慌てて後を追った。そして、改札にカードを当てて通ろうとして、九の字に体を折った。
「なーにしてんだよ」
「……う、うるさい」
顔から火が出そうだ。にやにやとした顔を隠そうともしない友人から逃げるように僕はそそくさとカードにお金をチャージした。
「待ちました」
「そこまで待たせてないはずだよ」
からかってくる友人を睨みつつ、駅のホームで並んで電車を待つ。すると、彼はもの珍しそうに何かを見始めた。一体、何を見ているのか。
「こんなんあったっけ?」
「最近できたんだよ」
友人が指差したのはホームに設置された落下防止のゲート。元々危惧されていたらしいがひと月ほど前にようやく設置されたものだ。これのおかげで僕も安心して乗れるようになった。
「へえ、便利になってんなあ」
感嘆の声が聞こえる。よっぽど普段からこの駅を利用していないのか。
話し込んでいるとアナウンスと共にけたたましい音が近づいてきた。電車が来たみたいだ。ゲートが開いて結構な人数が降りてくる。その波が途切れると、友人が乗り込もうとした。なので僕は慌てて肩を掴んで止めた。彼の怪訝な顔が僕を見る。
「その電車は特急だから止まらないって」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
そう言っている内に次の電車がやって来た。今度こそ目的の電車だ。僕は友人の背を押して乗り込んだ。
吊り革を掴んで揺れに備える。ここから目的地まで数駅。十数分で着くだろう。すると、電車が発進したのに合わせて体が傾いた。吊り革が伸び切って僕の体を支えてくれる。
「うわっ」
しかし、なぜか何も掴んでいなかったようで友人はたたらを踏んでいた。バランスを崩して、手を無茶苦茶に伸ばして転ぶのをどうにか堪えている。
「何かあった?」
「いや、よくオッケーしてくれたなって考えてたらぼーっとしてて」
照れくさそうに言うが僕は首を傾げた。
「いきなりだったけど、そこまで言うほどじゃないと思うけど」
別に初めて遊ぶわけでもあるまいし、気にかかることではないだろう。
「もしかしたら渋々なんじゃないかとも思ってたんだよ。けど、乗る電車とか凄い手慣れてるし、よっぽど楽しみにしてたんだろうなって」
友人がしみじみと言うが、それは少し違う。
「ここ最近、色々とあって慣れたんだよ」
だからこそ、僕はこの誘いを受けたんだし、僕にとって本当に渡りに船だったのだ。
「何だそりゃ。まあ何でも良いけど。前回楽しめなかった分、今日はリベンジだ」
「うん、そうだね」
「おっ、見ろよ。見えてきたぜ」
当然、友人は知る由もないが、細かいことはどうでもいいのだろう。気にすることもなく彼は興奮気味に窓の外を指差した。どうやら目的の駅に近づいてきたようだ。
電車がゆっくりとスピードを落とし始めた。ホームの喧騒が聞こえるようになってくる。そして、完全に停車すると僕たちは人波に合わせて降りた。
「これってもしかして、皆行き先同じかな?」
「多分、そうだろ。ほら、準備万端みたいだし」
友人の言う通り、僕たちと同じ方へ進んでいる人たちはタオルやうちわ、そして他の熱中症対策の物を持っている。
「俺も準備万端だ。ほら、タオル」
「僕も持って来てるよ」
友人が渡そうとしてくれるので鞄に入れてあったタオルを見せる。同じ轍を踏む気はないのだ。スポーツドリンクなども持って来ている。
「そんならオッケーだ。まあ、だからと言って油断しないで体調に気を使っとけよ」
「ありがとう、注意しておくよ」
そんなことを話していると目的地に到着した。すると、至るところからはしゃいでいる声が聞こえてくる。
「全然違うなあ」
「何か言ったか?」
「いや、こっちの話」
思わず感嘆の声が漏れた。何年か前に来た時や夜に訪れた時とはまるで違う。
そう、ここは僕にとっても早くもなじみ深いものになり始めている例の会場だ。昨夜、僕に来た遊びの誘いとはここで行われるライブを見に行こうというものだったのだ。彼曰く、譲ってもらえたのでライブの素晴らしさを今度こそ伝えてやるということらしいが本当にありがたかった。どうしてもしっかりと体験したかったのだ。
受付に向かおうとすると長蛇の列が目に入った。アーティストのグッズの物販か。タオルやシャツが売ってあるようだ。
「行かなくていいの?」
今日のライブはこの友人が何年も前から応援しているバンドだそうからきっと欲しい物もあるだろう。
「いや、今日はいい」
だが、彼は首を振った。そして、自身が着ているシャツを指差した。
「なぜなら、既に持っているからな!」
「ああ、そう」
「んだよ! もっと良いリアクションしろよ!」
今まで気にしていなかったがよく見れば、そこには件のバンド名が刻まれていた。彼は僕のリアクションについては諦めたようで、それが見えるように胸を張ると、いかにも得意そうに歩いていく。その後を追っていくと、熱狂的なファンも多いのか彼と同じ服を着た人とも多くすれ違った。
受付にチケットを渡して中に入る。幸い、場所もすぐに確保できたので一息つけた。
「楽しみだな!」
「うん」
そうして友人に相槌を打ちながら、僕はライブの開始を待った。
「今日はよろしく!」
ステージに上がった一人が言い、色々と開始の挨拶などを経て遂にライブが始まった。
「それじゃあ最初の曲は――」
早速、ボーカルがマイクの前に立って後ろにいる他のメンバーに合図を送った。先ほどまで騒いでいた観客も黙って今か今かと待っている。
まず、静寂を破ったのはドラムだ。次にベース、そしてギターと続いて音の厚みが増していく。最後にボーカルが叫び、曲が奏でられた。この曲は僕もよく知っている。何年か前のヒット曲だ。友人もよく口ずさんでいた。
ふと気になって横目で友人を見てみる。彼は、目をこれでもかと見開いて輝かせていた。瞬きさえ忘れたかのように微動だにしないで見つめている。
軽く見渡せば他の観客も一心不乱にステージを眺めていた。気持ちはよくわかる。僕も再度ステージに目を移すと思わず引き付けられた。まさしく圧巻だ。何度もスマホ越しに聞いたものとはまるで違う。これが臨場感というものか。以前は余裕もなくて感じ取れていなかったが、改めて見ると感じられた。
一曲目が終わり、次の曲になる。それに伴い、会場のボルテージも上がっていった。凄まじい熱気が会場を包む。その発信源は太陽ではない。ここにいる人たちだ。
燦々と照り付ける太陽の光がステージ上の彼らや観客の汗をキラキラと輝かせる。いつもなら不快でしかない汗もこうなると少し煌びやかに思えた。
夜には端すら見渡せなかったステージも今ではその隅々まではっきり形がわかる。だからだろうか、あれだけ大きく感じたこの場所も少し小さく感じてきた。
結月さんもどこかで見ているだろうか。今は見えない彼女のことを考える。彼女もこのステージに立って人々を魅了したのだろうか。僕は実際に彼女のパフォーマンスを見たわけではないから知りはしない。だが、少なくとも客席に膝を抱えて座ってなどいなかったはずだ。
月光を背にして作った影のある表情を思い出して拳を握った。僕は――。
「ほら、お前ももっとテンション上げろよ!」
僕が物思いにふけっていると、そんな声と共に背中に衝撃が走った。友人が僕の背中を叩いてきたのだ。
「声出てねーぞ!」
はっと気づいて睨みつけても友人は楽しそうに笑っているだけだ。テンションが上がった彼に文句を言っても馬耳東風だろう。いや、この場では彼が正しいか。
「ステージに立つってどんな気持ちかな?」
ポツリと言葉が漏れた。僕が立ったことのある舞台なんて体育館のものぐらいだ。こうして不特定多数の誰かに披露するなんてしたことがない。それに、その僅かな機会でさえガッチガチに緊張していたんだ。ましてやこんな大きいのなんて想像もできない。
「さあな。けどまあ、どう見たって悪くはないだろうよ!」
能天気に友人がステージに指を差した。その先を目で追うと、僕は納得した。
「そっか、そうだよね」
汗もかいて疲労の色も見える。それでもステージ上の彼らは皆、満面の笑みを浮かべて演奏していた。いつの間にか握られていた拳から力を抜く。
きっと、あんな顔なんかじゃないだろう。
「楽しもうぜ!」
「そうだね」
友人に頷いて僕もライブに集中する。ステージ上ではちょうどボーカルがマイクを客席に向けて観客を煽っていた。彼はこのことを言っていたのか。見れば、彼はこちらを向いて頷いてる。
「わかったよ」
頭の中を渦巻く考えも吐き出してしまうかのように、僕も他に倣って思い切り声を張り上げた。
大盛況で終わったライブを後にした僕たちは帰路についていた。会場のあの凄まじい熱気もすっかりと落ち着いてきている。
「あー、最高だったな!」
「凄い迫力だった」
「だろ!」
だが、友人はまだ落ち着いていないようで今にも走り出してしまいそうだ。上気した顔で笑っている様子は、彼だけがあの熱で起きた蜃気楼を見ているようだ。
まあ実際、僕も危惧していた体調が以前のようにはならずに最後まで楽しめたし、非常に満足できたものだった。
「この後どうする? どっか行くか?」
友人がそう提案してきた。少し傾いてきているが、まだ陽も沈んでいない時間だ。他の場所に行ってもまだまだ遊べるだろう。けれど、今日に関してはそういう訳にはいかない。
「今日はもう帰るよ」
「もう疲れたのか?」
「いや、用事ができた」
それは僕にとってとても大切な用事だ。
「何だよ、用事って?」
当然、友人はわからないようで首を傾げている。それはそうだ、これでわかったなんて言われたら腰を抜かしてしまう。
だから、僕は空を指差して笑いながら言ってやった。
「あるアイドルのステージが観たいんだ」