星に願いを
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あれから数時間が経過し、間もなく2度目の鐘が鳴る頃合いだ。
推しとはまだ巡り会えておらず、手がかりすらも掴めてはいない。
ゲームでは、3日目までどの場所を選択しても彼に会うことが出来なかった……つまり、選択肢にない場所にいるはずなのだ。
それは分かっているのだけれど……
「み、見つからない……」
選択肢がなく自由に動き回れるのは良い事でもあるが、逆に、選択出来ることがありすぎる。
ゲームでは描写されていなかった幾つもの道を通り、お店に入り、施設を巡ったものの彼と会う事は出来なかった。
まだまだ歩き回りたい気持ちはあるものの、身体は気持ちに反して疲労を訴えている。
「夢の中なんだから、こんな感覚までリアルじゃなくてもいいのに……」
ぽつりと愚痴をこぼしながら、私は気付けば開けた小高い丘の上までやって来ていた。
爽やかな緑の香りがする、ほんのり涼しい夕風。
そよそよと揺れる色とりどりの花々。
導かれるようにして、丘の頂上に立つ立派な木の下に向かう。
まるで妖精でもいそうな美してくて清らかな場所に自然と心が落ち着いて……心優しい彼に、ぴったりの場所だと思った。
来た道を振り返ってみると、夕陽に染まる街が視界に広がる。
「……綺麗」
ぽつぽつと温かな光が灯り、広がっていき、この世界での人々の営みを感じて……なぜだか胸がぎゅっとなった。
絞り出した声は、夕風にのって静かに消えていく……ものだと、思っていたのだけれど。
「貴女の言葉には賛同しますが……」
背後から聞こえた低くて落ち着きのある艶やかな声に、ひゅっと息が止まる。
「こんな時間に、こんな場所で……年頃の女性が1人でいるには不用心ですよ」
生徒を叱る先生のような心配と優しさを含んだ声音は、昔何度も聞いた覚えのあるもので、鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じた。
この声を……間違えるはずがない。
ぎゅっと拳を握って、ゆっくり振り返る。
同時に街に鳴り響いた2度目のレグルスの鐘の音は、高鳴る鼓動のせいでどこか遠く聞こえたような気がした。
「……こんばんは、お嬢さん」
後ろで結わえられた絹のような深緑の髪が視界で揺れる。
あたたかな黄金色の瞳が私を映し、優しく細められた。
そこに立っていたのは間違いなく……焦がれていた人物。
刻々と色が深まる茜色の丘の上で、10年の時を経てもなお、私はやはり彼に惹かれるのだと思い知らされる。
「アンバー、先生……」
アンバー・ヴィンセント。
乙女ゲーム『ムーンライト ユートピア』に登場する人気の高いサブキャラクターだ。
顔と名前があるキャラクターは漏れなく美形という乙女ゲームの鉄則に則り、当たり前のように見目麗しく、スラッと長い手足に高身長というスタイルの暴力を振りかざし、無論声も良い。
カイリルートでは魔法学院の非常勤講師として、ハルトルートではカフェの常連の魔法医として出会い、作中でもファンの間でも、その役職からアンバー先生と呼ばれている。
どちらのルートにおいても主人公のメンタルと恋のサポートをしてくれる、乙女ゲームによくある同性の親友ポジションのようなものを彼は担っていた。
物腰柔らかく面倒見がよく、17歳の主人公に対し27歳という年上の余裕と色香を漂わせるアンバー先生を最初は誰もが攻略対象として疑わず、彼を攻略できる続編を制作して欲しいと求める声は非常に多かったが、制作陣の大人の事情でそれは叶わなかったと記憶している。
ファンブックに記載されていた内容と、決して多くは無いイベントと会話でしか彼の情報を知る術は無い。
それでも攻略対象二人をそっちのけ、その心優しさと時折見せる憂いと意外な男らしさに惹かれ、アンバー先生の発する言葉一つ一つに当時の私は心を踊らせていた。
そんな彼が今……私の目の前で、優しい黄金色の瞳を丸く見開いている。
「貴女は私のことを、知っているんですか?」
つい先程、思わず私が彼の名前を呟いてしまった事で不思議に思ったようだ。
「は、はい。一方的に知っていました。アンバー先生に……その、憧れていて……」
なるべく自然そうな理由を考えながらゆっくり言葉を紡ぐ。
魔法学院の講師も魔法医も、どちらも多くの人から尊敬される職なので、この回答であれば不自然ではないだろう。
アンバー先生は納得したように目を細めた。
「成程。それはとても、有難い事です」
その表情と言葉の雰囲気でなんとなく分かる。
きっとこれは不信感を拭う点においては正解の回答だったと思う、やはり幾度も言われてきた言葉だっただろうから。
「もう既にご存知のようですが、私はアンバー・ヴィンセントと申します」
美しい礼をする彼にならい、不慣れながらに見様見真似で礼をする。
「よ、よろしくお願いします。私はユナと申します」
「ユナさん、ですね」
「はい……!」
優しい微笑みと声に、鼓動が大きく高鳴ってしまう。
たったこれだけでも、この夢を見られた事に大満足だ。
「もう遅い時間ですから、ご自宅まで送りますよ。以前より街の治安が良くなっているとはいえ、夜はまだ危険ですから」
優しい申し出に胸が温かくなるものの、あいにく私には家がない。
家族もいなければ友達もいない。
ハルトもカイリも求めれば助けてくれるだろうけど……頼ったら最後、強制的にルートに入ってしまいそうな予感がする。
少しだけ心が痛むが、『ムーンライト ユートピア』は乙女ゲームであることとアンバー先生の優しさを信じて、私はゆっくり口を開いた。
「……私には、家がありません。家族も頼れる人もいません。極めて部分的な記憶しかなくて、昨日までどうやって生きていたのかも分からないのです」
一応、何一つ嘘は言っていない。
家も家族も友人も所在は夢の中ではなく現実の世界だし、10年前に遊んだ乙女ゲームの設定やイベントを隅々まで覚えているほどの記憶力はないし、昨日まで私はこの世界に居なかったのだから生活のしようがない。
嘘は言ってない。
そう自分に言い聞かせないと、真剣に話を聞いて心配の眼差しを向けてくれているアンバー先生への罪悪感で押しつぶされそうだった。
「……そう、でしたか。それは随分と大変な状況ですね」
アンバー先生は何かを考えるように、顎に手を当てて目を伏せる。
私は罪悪感と祈るような思いで、胸に手を当ててじっと次の言葉を待った。
「ユナさんさえ良ければ、ですが……私の自宅には丁度一つ空いている部屋があります。記憶が戻るか、この街での生活に馴染むまで自由に使って頂いて構いません」
「私と一緒に、来られますか?」
すんなりと用意された理想の展開に目を瞬いてしまう。
その反応を見たアンバー先生は優しい笑顔を浮かべた。
「勿論どうするかはユナさんの自由で……」
「ぜ、是非よろしくお願いします!」
迷っていると思われてしまったのだろうか、断わっても気まずくならないような気配りをしてくれるアンバー先生の言葉を遮るよう、大声で返事をしてしまった。
アンバー先生の気が変わってしまったり、別の案を勧められてしまっては、後悔してもしきれない。
アンバー先生と同じ屋根の下で暮らす、これ以上の選択肢など存在しない。
この時の私は、表情も声も勢いも、さぞ必死だったことだろう。
現にアンバー先生は、琥珀色の大きな瞳を丸くしている。
「……分かりました。よろしくお願いします、ユナさん」
少しの間の後、ふっと柔らかく目を細めて、アンバー先生は大きく綺麗な手を私に向かって差し出した。
おそらく握手を求められているのだろう。
鼓動が速くなっていくのを感じながらゆっくり手を伸ばし……優しい温もりに、触れる。
「よろしくお願いします、アンバー先生……」
なんて幸福な夢なんだろう。
伝わる温度が身体中の熱を上げていく。
まだしばらく夢から目覚めませんように…ー
空を彩り始めた星々に、そう願わずにはいられなかった。