はじまりの鐘の音
『ムーンライト ユートピア』は攻略対象がカイリとハルトのわずか2人の短編ゲームとして10年以上前に販売された乙女ゲームだ。
短編ゲームとは言っても、攻略対象それぞれの魅力や主人公との恋愛の過程、結ばれた後のストーリーも丁寧に描写されていて、王道かつ遊びやすいボリュームと価格設定で多くの若き乙女ゲーマーを生み出した作品とも言われている。
しかし、このゲームが話題になった理由は他にもあった。
それは、攻略対象のクセの強さである。
普通に遊んでいたら王道にかっこいいキャラクターとしてエンディングまで心地よく騙される事が出来るのだが、このゲームには好感度の裏に狂愛度と呼ばれるものが存在しているのだ。
狂愛度が上がってしまう選択や行動を選び続けてしまった場合、読んで字のごとく主人公は攻略対象から狂った愛情を注がれる、所謂ヤンデレルートへと突入する。
このルートはフラグ管理も緻密なものとなっていて簡単に辿り着けるものではないにも関わらず、各キャラクターの本性や抱えている闇が色濃く描写されており隠された本編とまで言われ、何も知らないままこのルートに辿り着いてしまった乙女の性癖を歪ませ、多くの乙女ゲーマーに注目され話題を呼んだ。
今でも熱狂的なファンが存在している人気作品といっても良いだろう。
勿論かくいう私も全ルートクリア済みである。
攻略サイトを意地でも見ないという謎のプライドのお陰で、完全攻略するのに2ヶ月かかった。
当時の衝撃と興奮はそれなりに大きかったはずなのに、10年以上も前ともなると記憶も薄れ、このゲームの大まかな流れくらいしか覚えてはいない。
それでも……唯一ハッキリ覚えている事がある。
私には好きなキャラクターがいた。
カイリでもハルトでもない、そもそも攻略対象ではない所謂サブキャラクター。
何とか彼を攻略出来ないものかと、全選択肢を試したものだが、どんなに強い愛もプログラムに勝てるはずもなく、彼と結ばれる未来は存在しなかった。
しかし、選択肢に囚われず自分で自由に動くことが出来る夢の中でなら……
恋焦がれた彼との恋愛を叶える事が出来るかもしれない。
もうこの際、恋愛にこだわらない。
一目でも会えたら……言葉を交わせたら、この夢を見ている間に少しでも多く同じ時間を過ごせたら、それだけで充分だ。
だから私はカイリとハルトに、曖昧な記憶ながらに探している人が居ると別れを告げて、『ムーンライト ユートピア』本来のシナリオから外れ、身一つで街に飛び出すという未知のルートを選んだのである。
全てはそう、彼に会うために。
「飛び出してきたのは良いけど、どこに居るんだろう? 家はストーリーでも出てこなかったから分からないし……」
ゲームで見た事のある華やかな街並みを歩きながら、街の様子や行き交う人々を観察してみる。
まるで海外の……いや、ファンタジー世界のような建物の数々。
名前も知らない草花や見た事のない果実、人々が身に纏う衣服も、全て私が暮らしている現実とは異なっていて胸が踊る。
ゲームでは僅か数人程度のキャラクターしか登場しなかったのに、すれ違う一人一人に表情があり、命があるのだと感じる。
自分にこんな想像力があったなんて驚きだ。
周囲を嬉々として見回していると、大きな鐘の音が響き渡り、ぴくりと肩が跳ね我にかえる。
「これって、レグルスの鐘……?」
確かこの国レグルスでは、正午と夕方に鐘がなるのだ。
魔法が存在し、現実とは大きく異なるこの地では、人命を脅かす魔物が存在する。
そして、長らく平和を享受してきた私にとっては非日常的である戦争も、死も、比較的隣り合わせな日常で。
いざという時、速やかに国民に指示を出すための広範囲の伝達魔法が正常に作動している事を、この鐘の音で確認している……という設定だった気がする。
国にとって大事な役割を持っている鐘の音だけど、私にとってもこの鐘の音は非常に大きな意味合いを持っていた。
『ムーンライト ユートピア』はターン制の乙女ゲームだ。
朝
1度目の鐘が鳴った後の昼
2度目の鐘がなった後の夜
1日に3回行動を選択する事が出来て、時間と場所によって会えるキャラクターや発生するイベントが異なる。
今がストーリーの1日目の昼ターンだという事が分かれば……必然的に、彼に会うことが出来る場所と時間帯も予測する事が出来る。
何故なら彼はイベントも会える回数も多くはないサブキャラクター、いくら記憶が曖昧でも数少ない推しとの接触タイミングを忘れるわけがない。
「だとしたら3日後の朝、ハルトのカフェで会えるのが最短……」
記憶をたどって呟いた言葉を否定するように首を横に振る。
「そんなに待ってられない」
今この瞬間にも、夢は覚めてしまうかもしれないのだ。
こんなにも鮮明な夢を見る事が出来ているのに、それではあまりに勿体無い。
幸い今の私は、何にも縛られることなく自由に動き回る事が出来ている。
「ゲームのプログラムより早く……私、あなたを見つけてみせます!」
俄然やる気が湧いてきた、推しへの愛は偉大なり。
彼は今、どんな場所で何をしているのだろう。
想いを巡らせ、頬を緩ませ、期待に胸を膨らませ……必ず彼に会えるという根拠の無い自信を持って、街を歩くペースを早めた。