第4話 光の領域(1)
「すっかり長居してしまったな。サヴァの食事を用意してこなかったのに」
人気の完全に絶えた夜の街路を、イリアンは急ぐ。
夜間の外出禁止時間に出歩く者は、まともな市民とは見なされない。人であるなら犯罪者や浮浪者、そうでないなら人以外の、なにか――イリアンの標的となるだろう存在だ。
身体中の神経を研ぎ澄ますと、感じられる。夜闇の底に、眠らないなにものかの気配。ひとり歩きのこちらを見つけ、様子を窺っているが、よほどのことがない限り、接触してはこない。
モスク近くの公共泉亭で、野犬が数頭、無心に水を飲んでいる。
夜歩きで一番面倒な出会いは、夜警だった。イリアンは国政庁に職業を申告しているため、多少は大目に見てもらえる。だが、あまり頻繁だと、さすがに許されないかもしれない。
(最近、仕事続きだからな。今度見つかると、儲かっているようだから賄賂を払えと迫られるかもしれない)
要求がそれだけですめばいいが。イリアンは苦笑する。いかにも弱者な自分の外見が、嗜虐癖のある者たちにどんな刺激を与えるのか、当たり前にわかりすぎて、想像にすらならない。
(官憲と揉めたくないしな。気配に注意して通ろう)
手には、アドナンから強引に押しつけられた長剣がある。揉めたくないときに、こんな物騒な得物を持参しているのは、かえってまずいことになりそうな気がする。
それでも、硬く冷たい感触を抱えているのは、どこか安心感がある。それは、かつて日常で慣れ親しんだ感触だった。
――すべては、お役に立つために。望まれるなら、なんだってできた。わずかしか生きていない命でも、捨てることに迷いはなかった。
たったひとつだけこの世に存在する、かけがえのない輝きを、守るためならば――。
実の親に裏切られ、飢えと恐怖と屈辱の旅路の果てに帝都にたどり着いたのは、十二歳のときだった。
初めて見る海、初めて見る街並み、たくさんの人、家、物。イリアンは、圧倒的な大都会への驚きと感嘆に、救いのない自分の現実を忘れた。
だが結局、そんな夢のような感動も、駆け足で通り過ぎてしまった。
目覚めると、彼はいままでと同じ冷たい床の上で、飢えと虐待に疲れ果てた身体を持て余していた。
その日、彼は同じ境遇の子供たちとともに、帝都最大の奴隷市場に連れて行かれた。
肌寒い日だったが、容赦なく素裸に剥かれ、大勢の視線の前で晒し者にされた。恥ずかしさより、恐れより、ただただ観客の多さに驚き、呆然と立ちすくむしかできなかった。
群衆の中から次々に手が上がり、短い言葉が飛び交う。競りが始まった。
身体に無遠慮に注がれる視線が、熱波のように肌を苛む。群集が自分を値踏みする目が、異様な興奮にあふれている。
自分がほかの子供と違っていることは、最初に虐待を加えた仲買の男から知らされた。
――化け物め。
仲買人は口汚く罵る一方で、執拗に虐待し続けた。薮睨みの目が、滴るような興奮にぎらぎらと光っていた。
こうして素裸になっていても、ほかの子供となんら変わったところはない。しかし、商品をできるだけ高く売りたい奴隷商人は、彼の身体に隠された相違を、余すところなく群衆に見せつけた。
〈土曜日生まれ〉の白い子供――イリアンの身体に、原罪のように捺された烙印。死ぬまで逃れられないだろう、呪いの痕。
値が上がるにつれ、競り合う声がまばらになる。ほどなくして、野豚のような体躯にきらびやかな衣裳を巻きつけた中年の男が、人並みを割って歩み寄ってきた。奴隷商人が、露骨な愛想笑いを浮かべる。
金持ちの男は欲望に濡れた好奇の視線で、イリアンの裸身を舐めまわしながら、奴隷商人に何事か告げた。すると奴隷商人は深く頷き、イリアンの顎をつかんで、ぐいと上向かせた。
なぜ、そんなことができたのか。イリアンにはいまでもわからない。
頭を大きく振って奴隷商人の手を振りほどくと、その汚れた指に、彼は思い切り噛みついた。
ここに運ばれるまでのあいだに、何度となく繰り返されたあらゆる暴力。子供たちは恐怖に萎縮し、抵抗する気力など、とうに奪われていた。まともに与えられない食事のため、みな棒きれのような手足をしていた。
その中のひとりだったイリアンは、だがこの土壇場で、最後の抵抗に出た。恐れも諦めも突き抜けた、純粋な怒りが、小さな身体に迸っていた。
奴隷商人は痛みに喚き、イリアンの横っ面を力任せに張り飛ばした。体重のないイリアンの痩躯は、呆気なく吹き飛ぶ。地面に倒れた彼の薄い背中を、奴隷商人の靴が踏みにじった。
――殺される。
そう思ったが、怖くはなかった。むしろ、この果てないような苦しみが終わるのなら、死んでしまうほうがいいと思った。
そのとき、あの声が、若々しいのに穏やかで、群衆のざわめきの中でさえ澄み渡るように透るあの声が、イリアンの耳に届いた。
騒然としていた群衆が、しんと静まり返る。
人垣が分かれ、背の高い細身の人物が現れた。
眩い白のターバン、丈長い瑠璃色の長衣。華美ではないが、洗練された衣裳は、明らかに貴人のものだ。
白皙の面差しは端麗で、優美でさえあるが、その表情は冷たく厳しい。眉とこめかみから覗く髪は黒く、冴えた瞳は深い緑。年齢は二十歳そこそこだが、静かに話す口調には、人生の清濁を知る大人の落ち着きがあった。
青衣の貴公子は、イリアンの知らない言葉で奴隷商人と話している。相手の懐具合を算段したらしい奴隷商人は、卑屈な笑みを浮かべながら、指を立てて返答する。貴公子は頷き、傍らの従者に目配せをした。従者は財布を出すと、大量の金貨を商人に渡した。言い値で支払ったようだ。
奴隷商人の媚びるような謝礼の言葉を無視し、貴公子はイリアンの傍へやってきた。衣裳に頓着なく地面に屈むと、手を差し伸べ、イリアンをそっと抱き起こしてくれた。
細く長い指の、繊細な手。その手のひらの、やわらかな感触。触れられた肌が、染み入るように温かく、留める間もなく涙がこぼれた。
身体を覆うように清潔な布がかけられる。布の端を握りしめて見上げると、夏の森のような緑の瞳が、優しく見つめ返していた。
「セルボ人だそうだな。わたしの言葉がわかるか」
イリアンは驚き、息を飲んだ。貴公子は流暢にイリアンの故郷の言葉を話している。
「……わかる……わかり、ます」
「いい子だ。名はあるか?」
「……イリアン」
「イリアン。良い名だな」
清流のような心地よい響きが、自分の名前を音にする。不吉とともに生まれたはずの名前が、浄化されるような気がした。
「イリアン。おまえは今日から、わたしのもとで暮らすのだよ。わたしはリュステム・ハリール・パシャ。おまえと同じ、セルボの生まれだ。故郷での名は――プレドラグ」
――とても愛しい。
イリアンの眼前に、輝ける楽土がひろがった。永遠の彼方にあるものと思っていたそれが、いま、手を伸ばせば届くところまで来ていた。
リュステム・ハリール・パシャは、このとき欧州総督だった。二十歳の若年で異例の大出世をしている、帝国随一の選良。
「おまえは奴隷として売られてきたが、それを恥じることはない。わたしも同じ、奴隷だった。この国ではめずらしいことではないのだよ」
リュステム・ハリール・パシャは、傍仕えとしたイリアンに、さまざまなことを教えてくれた。
「わたしは九歳のとき、少年徴集制度によってこの国に連れて来られた。少年徴集制度とは、テュルク人が帝国を維持するために定めた少年奴隷の徴兵制のことだ。征服した欧州から、幼いキリスト教徒の少年たちを徴集し、ムスリムに改宗させて教育や軍事訓練を施す。やがてその子供たちが国家を支える重要な戦力となるのだ。現在の大宰相閣下も、五人いる宰相たちも、みな少年徴集制度の出身者だよ」
痩せた身体を上等のお仕着せに包んだイリアンは、ぎこちない手つきで主人の珈琲を煎れながら、一言も聞き逃すまいと集中している。
「女性たちも同じだ。ハレムの女奴隷も、奴隷市場で買われたか、領地からの献上品であるか、あるいは戦役で捕らわれたかの違いはあるが、ほとんどは欧州出身の白人奴隷だ。彼女たちのうちで、特に皇帝陛下のご寵愛が深い者が側室となり、さらに抜きん出た者が、婚姻しないスルタンの事実上の妃となる」
白人奴隷の動かすテュルク人の国。キリスト教徒からの改宗者が重要な地位を占めるムスリムの国家。イリアンは不思議な心持ちで、その事実を理解しようとした。
「イリアン、おまえはとても賢い。最初に会ったときにも、その利発な瞳の輝きに惹かれたのだ。そのうえ、おまえは容姿にも優れている。おまえほど美しい子供は見たことがない」
――いいえ。あなたさまのほうが、ずっとお綺麗だったはずです。
強く思うが、口には出せない。黙っているだけで、頬が赤らんでしまう。
だか、主人の次の言葉を聞いた途端、血の気は一気に引いた。
「おまえなら、皇帝陛下の小姓の資質も十分にある。体調が良くなったら、宮殿の小姓頭にわたしから推薦しよう」
イリアンは思わず珈琲杯を取り落とした。
「いやです!」
高価なペルシア絨毯の上に珈琲の染みがひろがる。それを踏み越え、イリアンはリュステムの坐る長椅子の足元にひざまずいた。
「どこにも行きたくありません。このまま、リュステムさまのお傍に置いてください」
必死に訴えながら、主人のカフタンの裾に口づける。
「小姓になれば、わたしのもとにいるより、もっと様々な勉強ができる。それに、聡明なおまえなら、選良として間違いなく出世するだろう。宰相も夢ではないかもしれない。その可能性を捨ててしまうのか」
――出世なんか、しなくていい。お傍を離れたくない。
ようやくたどり着いた愛しい場所を、失いたくない。
そう懇願したいのに、言葉にならない。とめどなくあふれてどうしようもない涙に喉をふさがれ、イリアンはただ、ちぎれるほどに首を振り続けた。
ふわりと柔らかい感触が、伏せた頭の上に降る。主人の優しい手が、イリアンの髪を撫でた。
「イリアン。おまえの気持ちはわかる。……だがわたしは、おまえの才を惜しむ。初めておまえを見定めた瞬間に、おまえが普通の子供ではないことがわかった。ただの傍仕えの下僕などで、その才知を無駄にしたくはない」
「……わたしは……ただ、あなたさまの、お傍にあるだけで……」
絞り出すような願い。ほかに気の利いた言葉が出てこない。鸚鵡のように同じ言葉を繰り返すだけ。それが歯がゆくて、切なくて。
あなたが、わたしを救ってくれた。温かい気持ちを与えてくれた。
人の手は、殴るためのものではなく、抱きしめるためにあるのだと、教えてくれた。
――あなたのためなら、命など惜しくはない。
「……ならば、わたしの剣となるか」
すっと温度の下がった主人の声音。イリアンは訝しみ、そっと面を上げる。
思いがけず厳しい顔が、そこにあった。冴え冴えと光る冬の満月のような、冷たい美貌。有無を言わさぬ絶対的な力が満ちているような。
「わたしのために、光に潜み、闇を駆ける獣となるか。ときには身を汚し、血に濡れなければならない。おまえに、それができるか」
抗いがたい重力が、頭に、肩に、背中に、足にかかる。真夜中よりも深い緑の瞳が、強力な呪縛を発動する。
イリアンはゆっくり頷いた。
「――できます」
「二度と自分の名を名乗れなくなる。戻る道はない。それでもよいのか」
「かまいません」
――あなたのいない世界に、なんの価値があるだろう。
「では、こちら側へ来るが良い。同じ土より生まれ出でた養い子よ。――白銀の牙を持つ、わたしの獣よ」
突然、夜闇を気配が走った。イリアンは足を止め、辺りを窺う。
そこは、偉大なる先帝の建立したモスクの前庭にあたる広場だった。
皓々と輝く月から、青白い光が降りしきる。八方が開けた広場の真ん中で、イリアンの影だけが黒くわだかまる。
(闇の眷属ではない。人だ。ピントの密偵か? ……いや)
その気配には、覚えがあった。
(忘れられるはずもない。懐かしいとさえ、言っていい)
イリアンは少しだけ警戒をゆるめる。
「わたしになにか、御用でしょうか」
夜に向かって問いかける。声が広場に反響し、ふるえるような尾を引く。
「……〈土曜日に生まれた者〉よ。おまえが追い求めるものから、手を引いて欲しい」
低い、地を這うような応答が、降りしきる月光の外側から聞こえた。
「あの御方が、それをお望みなのですか」
再び問う。対する応答はない。
「かの御方のお望みでない限り、わたしは従うつもりはありません」
「後悔することになるぞ」
「ご忠告として、承りましょう」
挑むでも傲るでもなく、淡々と答える。警告ではなく忠告と言ったのは、相手から敵意を感じなかったためだ。
微風が広場を吹き抜ける。空気の緊張が、ふつりと解けた。
月明かりの広場に、イリアンはただひとり、たたずんでいた。