第3話 疾風と〈幸運〉(4)
「海竜魚の養殖を成功させた、ゲルマニア人の医師だったと?」
「証拠はなにもない。本人が言っているだけだからな。だが……おれは、間違いねえと思っている」
アドナンはたくましく長い腕を頭の後ろに回し、背筋を伸ばす。
「おれがうかつだったよ。なんであんとき、あの男を引っ担いででも連れて行かなかったかなあ。昨日も今日もいたからって、明日も必ずいるとは限らねえのにな」
「その人、奇妙なこと口にしていましたね。――セイレーンがあまりに美しく、誘ってきたから……って」
ジュゴンに似た海竜魚は、愛嬌のある生き物かもしれない。だが、美しいという描写に値するだろうか。
イリアンの脳裏に、ジャーフェル師の書庫で見た人魚の細密画がひらめいた。美しい海の誘惑者――人魚。
「……ピントのやつが、その天然海竜魚の雌を隠しているって言うんだな」
はっと我に返って、アドナンを見る。
「そうです……。同じ個体かどうかは、わかりませんが」
「同じだと考えたほうが、自然だろうな。幻の生き物が、そうそう何頭もいるとは思えん」
「でも……だとしたら、宮殿から持ち出されたということですね。宮殿の奥宮というのは初耳ですが」
言いながらアドナンに目線で訊ねる。アドナンは首を振った。
「おれも初耳だな。おれが宮仕えだったころには、そんな話は聞かなかった」
「ともかく、宮殿から持ち出すのは、かなり困難でしょう。奥宮というからには、外廷ではなく、内廷の、さらに奥でしょうし」
「後宮かもしらんぜ」
アドナンの一言を、イリアンは聞きとがめる。
「だとしたら、なおさら不可能です。皇帝陛下以外の男性が、ハレムを勝手に歩き回れるはずがないのでは」
「同感だ。――だが、抜け道がないとも限らない」
「えっ?」
「詳しい人間にきいてみりゃいいさ」
「詳しいって……ハレムに、ですか? そんな」
「ああもう、胸糞悪いったら、ないわ!」
叩きつけるように扉が開かれ、ディアーナが戻ってきた。
「どうした。ずいぶんご立腹だな」
アドナンが声をかけるが、ディアーナは答えず、どかどかと踏み込んできては、部屋の隅に置いてあった水煙管を持ち出し、猛然とふかし始めた。
「お得意さまってのに、かなりやられたみたいだな」
「あの男! 金さえ払えばなにしてもいいなんて、下種の考えることよ。うちは、働く姐さんたちでもお客でも、人種や宗教で差別は一切しないわよ。決してお高い店でもないわ。でもその代わり、ある程度の品格を保って欲しいのよ! 人としての最低限の行儀はね!」
桜桃色の唇から、激した言葉と一緒にオレンジの甘い香りのする息が吐き出された。
アドナンは広い肩をすくめ、イリアンに苦笑してみせる。イリアンも小さく笑み返した。
「だいたいね、いくら女を蔑んでいるからって、裸に剥いて四つん這いにさせて、背中を小卓代わりに使って酒飲む男、どう思う?」
「そりゃ変態だな」
「そうでしょ? 変態よ! ああまったく、あいつが葡萄酒の専売権握ってるんでなきゃ、叩き出して二度とうちには上がらせないのに!」
その言葉に、イリアンとアドナンは顔を見合わせた。
「おい、ディアーナ、その変態野郎って、まさか」
「傲岸不遜なハブルの男よ! ナクソス公爵ホルグ・ピント!」
「――!」
イリアンは息を詰め、上気したディアーナの顔を見つめた。
「下にいるのか、いま、ピントのやつは」
「お帰りいただいたわよ。ミリツァったら可哀想に、緊張しすぎて微熱まで出しちゃったわ」
ミリツァというのが、小卓にされた娼婦らしい。イリアンは落胆とも安堵ともつかない複雑な気分になる。
「まあ、落ち着けよ。気分直して飲みなおそうぜ」
アドナンはディアーナの華奢な肩を宥めるように軽く叩いた。
ディアーナが下女に言いつけて、葡萄酒と、イリアンのための珈琲を持ってこさせ、三人そろって絨毯に坐る。
「……ちょっと家が名門の縁者だからって、自分まで名士になったつもりなら、大間違いなんだから。あんな下種な男に、お馬鹿な皇帝がすっかり籠絡されて、言いなりよ。教主のくせに、酔いどれなんて、恥知らずもいいところだわ」
よほどピントのことが腹に据えかねているらしい。悪態の矛先は、皇帝にまで向かった。
ホルグ・ピントはポルトゥスカレ出身のハブル人である。前世紀末、イベリア半島は国土復興運動に続く異端審問の嵐が吹き荒れた。異教徒ハブル人追放令の下、審問を逃れるためカトリック改宗を偽装したハブル人の集団がいたが、ピントはそのひとりだった。
一方で、ピントは欧州の香辛料貿易の大部分を支配する名門メンデス家の血縁でもある。帝都移住したピントは酒飲みの縁で皇帝と親しくなり、寵遇されるようになった。帝国の葡萄酒専売権を与えられ、葡萄栽培の中心地のひとつ、ナクソス島と周辺の島々の行政権も委ねられて、ナクソス公爵に就任した。
その経済力は絶大で、フランク王とポルトゥスカレ王の債権者でもあり、制限つきとはいえ皇帝の居住区である内に出入りできるほど、宮殿でも幅を利かせている。
「あの男の変態ぶりを、皇帝に八つ当たりしても、仕方ないだろう」
「だって、皇帝があの男を飼っているんじゃない。誰の責任だっていうのよ」
アドナンとディアーナは、ふたりでどんどん杯を重ねている。どちらも相当酒に強い。切れた口の端を気にしながら、イリアンはゆっくり珈琲を飲んだ。
(……そういえば、サヴァの肉、買えなかったな)
おとなしく留守番をしてくれている賢い相棒のことを考える。
傍らのディアーナが、酒の匂いのする熱い息を吐いた。
「誰か早く、あのハブルを追放してくれないかしら。大宰相には目障りな政敵なんだから、とっとと叩き潰してくれればいいのに。大宰相が無理なら、第三宰相でもいいわ。いまじゃ彼のが切れ者だし、ハレムの女でも負けちゃうくらい美青年だし。皇帝の寵愛じゃ、絶対ピントより上よ。ねえ、アドナン」
イリアンの心臓が、胸を突き破るほどに跳びはねた。
「どうして……どうして、あなたが、そんなことをご存知なのです」
――あの御方のことまで。
覚えず動揺をあらわにしたイリアンに、アドナンは苦笑しながら頭を掻いた。
「それだ。さっき話そうと思っていたんだ。イリアン、こいつがハレムに詳しい人間さ。ディアーナは、元皇帝の女奴隷で、しかも一度は〈幸運〉にまでなった玉だ」
「ええっ」
思わず頓狂な声が出る。無礼だと考えもせず、傍らに坐る娼館の女主人をまじまじと凝視した。
ハレムの女――皇帝の女奴隷は、もちろんその時々の皇帝の嗜好に左右されるが、歴代その大半はチェルケスやバルカンの白人奴隷だという。
だがディアーナは明らかに違う。厳しい選抜を通ってハレム入りを果たしたのだから、美女であるのは間違いないが、胡桃の剥き身色の肌も、黒髪も黒い瞳も、白人のものではない。
それだけでも異色なのに、ただの大部屋の女奴隷ではなく、個室を与えられた〈幸運〉にまでなったというのは、長いハレムの歴史でも、稀な例だろう。たったひとりの皇帝に対し、常時二百人もの女奴隷が控えているハレムにあって、皇帝の目に留まり、寵を賜る栄誉に恵まれたからこその〈幸運〉なのだ。
イリアンの無言の観察を察し、女はくすくす笑った。
「そんなに驚くなんて、失礼よ。確かにわたしは、ウズベク人だけど」
「ウズベク人」
やはり、アジアの生まれだったのだ。
そこでイリアンは、さきほどから自分が彼女に不躾な視線を注ぎ続けていたことに気づいた。
「すみません。本当に、失礼いたしました」
「いいっていいって。謝られると、かえって照れちゃうから」
一向に気を悪くする風もなく、ディアーナはくい、と杯を干す。
イリアンはざわめく胸を押さえる。
想いはいつでも、自分の意志とは無関係に目を覚ます。記憶はいまでも鮮明で、すべてが忘れられない。
――あふれそうだ。
「……わっ」
気がつくと、すぐ目の前に、ディアーナのまなざし。
「どうしたの。なんだか顔が赤いわよ」
酒精混じりの熱い吐息が、頬にかかる。鼻孔を刺激する、艶めかしい薔薇の芳香。
「いえ、なんでもありません」
「あらあ、そうかしら? なにかありましたって顔よ」
猫のような悪戯っぽいまなざしで、女は鋭く突っ込む。
「なにか、気にかかることがあるの? おねえさんに話してみる?」
「あ、いえ、その、大丈夫、です」
めずらしくしどろもどろになるイリアンに、ディアーナはしなだれかかった。
「あなたって、本当に可愛いのね。よかったら、またいらっしゃいよ。ひとりでね」
「海千山千の女が、罪もない青少年をたぶらかすな。おまえ、絡み酒か」
「おだまり海賊。あなたに言われたくないわよ」
「おれだから言ってやっているんだ。ほかの誰が、おまえの暴走を止められると思う」
「失礼ね! わたしが、いつ暴走したっていうのよ!」
「あの……」
聞きようによっては痴話喧嘩のような掛け合いを始めた男女に、イリアンは遠慮がちに割って入った。
「もと女奴隷とおっしゃいますと、ハレムから出ることを許されたということでしょうか」
一度選抜されハレムに入った女は、通常死ぬまで出られない。死ぬ以外でハレムから出られるのは、時の皇帝が崩御したとき、次の皇帝の女奴隷のために場所を明け渡さなければならない場合だけだ。用済みとなった女たちは、涙の宮殿と呼ばれる館で、生涯幽閉の身となるのである。
ましてディアーナは〈幸運〉にまでなったという。皇帝の寝所の秘密を知った立場で、生きて外界へ出ることが許されるとは信じがたい。
イリアンの問いに、ディアーナは微妙に笑みこぼした。
「裏口よ。ちょっとした大物に、顔が利くの、わたし。――で、なに? ハレムのことで、訊きたいことがあるの?」
「そう、そいつが本題だ」
アドナンは空になった酒杯をもてあそびながら、
「ハレムか内廷の地下に、奥宮があると聞いた。本当か」
「本当よ」
あっさり答える。
「……あるのか」
「あるわね」
赤い舌先で、ちろりと酒杯のふちを舐め、
「入ったことはないけどね。奥宮なんて大層な名前ついていたけど、ただ池があるだけみたいよ。ずいぶん前に、海竜魚の養殖研究してたって話。ハレムと内廷のあいだよ」
「なんでそんなところで研究していたと思う」
「貴重な禁猟保護動物だからでしょ。盗まれたら困るってことじゃないの。違うの?」
アドナンは、まるで自分の手柄のように、自慢げににやりと笑う。
「天然海竜魚の雌を食うと、人間は不老不死になるんだとさ。神に挑戦するようなお宝だ」
黒い大きな瞳が、きょとんと静止する。
「……それ、なに? 新手の口説き文句?」
「言葉通りの意味さ。天然海竜魚の雌の肉は、人間に不老不死の奇蹟をもたらす。そうだとしたら、国家の最重要機密だ。最も安全で、最も運び出すのが困難な場所に隠すべきだろう――たとえば、宮殿の奥宮に」
「本気で言っているの」
ディアーナは露骨に疑わしそうに上目で窺う。
「それが本当だとしたら、大変なことよ。誰もが血眼になって天然海竜魚を手に入れようとする。皇帝だって……」
そこでディアーナは、ふと言葉を切る。
「どうした」
「いえ……思い出したことがあって……そう、皇帝よ」
尊称をつけず皇帝皇帝と呼び捨てる女は、珊瑚色に染めた爪の先で、自分の細い顎を撫でた。
「わたしがハレムを出る直前のことだから、三年くらい前かしら。ハレムで大騒ぎがあったの。皇帝の至宝が、忽然と消えたって。真っ青になった皇帝が、内廷からハレムを駆け回って、叫んでいた……『あれがないと死ぬ、あれを食べないと死んでしまう』って」
「あれを食べないと、死んでしまう……」
繰り返して、イリアンはアドナンを見る。アドナンは頷き、
「やはりな。そのとき奪われたんだ。あの医者が、天然海竜魚を奪って逃亡した。それが、どういう巡り合わせでか、いまピントの」
「アドナン」
イリアンが制する。しかしアドナンは口の端を上げて笑い、親指でディアーナを指し示す。
「こいつなら心配ない。貞操はどうか知らんが、口は間違いなく堅い。でなきゃ、娼館の主人なんて務まらんしな。それに、見た目以上に役に立つ。使えるものは、有効に使ったほうがいいぞ……いてっ」
男の顔面に脱いだ靴を叩きつけたディアーナは、鮮やかな眦を吊り上げた。
「こいつだの、使えるだの、何様のつもりよ。わたしの貞操が、あなたになんの関係があるの」
「信頼できるって褒めてるんじゃねえか」
「それが褒め言葉なら、馬のひづめなんか大詩人だわ」
「あのな」
再び始まった親しげな掛け合いに、イリアンは小さく吹き出す。
「わかりました。お願いいたします」
アドナンは切り返し不足が納得いかないようだったが、イリアンに促されて、先刻聞いた話を簡潔に説明する。
「……面白いじゃない」
低く、ディアーナが答える。黒い双眸に燈火が映え、より印象的な生彩を放つ。
「あの変態にひと泡吹かせられるなんて、痛快! 喜んで協力するわ。わたしにできることがあるなら、なんでも遠慮なく言ってちょうだい」
するとアドナンは、人の悪い笑みを浮かべ、
「じゃあ、まず手始めに、その変態をたらし込んでくれ」
オニキスのような瞳が、裏返りそうなくらい見開かれた。
「……痛ってえな。おまえは加減ってものを知らんのか。いつまで経っても乱暴な女だな」
女の小さな拳がきれいに入った顎をさすりながら、アドナンは文句を垂れる。
「あなたこそ、相変わらず無神経の標本みたいな男よね」
壁際の長椅子に寝そべり、ディアーナは水煙管をふかしている。
泊まっていけというふたりの勧めを押し切って、少し前にイリアンは帰った。
すでに夜間外出禁止時間となっている。夜警に見つかっても面倒だが、夜盗に出くわしても危険だからと、アドナンが強く口説いたのだが、相棒の犬が待っているからと、イリアンは固持した。
仕方なくアドナンは、少年の手に自分の持っていた剣を無理やり握らせ、波止場近くにいる自分の部下に渡し船を出させるよう指示し、帰した。
「あの子、送っていかなくても本当によかったの」
「剣を持たせたから大丈夫だろう。あんな細っこいなりして、なかなか腕が立つ」
「ゲルマニアの荒くれ傭兵に暴行されていたから、ここへ連れてきたんじゃなかったっけ」
「あのときは丸腰だったからな。それに……あいつは思い切りがいい。潔いって言うかな」
「壊されるような目に遭ってもよかったってこと? それ、潔いとは言わないんじゃない?」
もっともである。無駄な抵抗をするのが必ずしも良いとは言えないが、イリアンの態度は、あまりにも無頓着すぎる。
(諦念ってやつか。……ガキのくせして、変に大人びてやがる)
アドナンは苦い思いで酒杯をあおった。
「それにしても、ずいぶんあの子のこと、可愛がっているみたいね。確かに、美少女と言っても十分通用するけど。しばらく会わないあいだに宗旨替えしたのかしら?」
からかうようにディアーナは訊ねた。
「ガキには興味ねえ」
「あら、じゃガキじゃなくなったら、対象になるってこと?」
「野郎に欲情なんか、するかよ。そんなんで食い下がってくるな、性悪女。――あいつとは、おれの弟が先に出会った。そういう縁だ」
なぜか少しだけ、気分が落ち込む。アドナンは目を伏せた。
ディアーナは、ああそう、と納得したように答え、そのあとは無言で水煙管をふかし続けた。






