第3話 疾風と〈幸運〉(3)
北アフリカの大国ミスルは、帝国の支配下にある。その首府カイロで、アドナンは奇妙な男に出会った。
その男は、場末の酒場にいた。酒を飲まないムスリムの街で酒場に集まるのは、異教徒か背教者、あるいは犯罪者や逃亡者などだ。どちらにしても、胡乱な連中であることに変わりはない。
薄暗い店の中は混雑していて、アドナンはその男と相席になった。
中途半端に長い金髪、澱んだ青い目、無精髭。長身だが、ひどく痩せているので、大柄という感じはしない。薄汚れた服装は帝国風だが、どう見ても欧州出身だ。
男は相当酔っているらしく、まっすぐに坐っていられない。上体が不安定に揺れ続け、ときおり卓上に突っ伏してしまう。
「おい、大丈夫か」
しばらく様子を見ていたアドナンだったが、男があまりに泥酔しているので、声をかけた。
男の頭がぐらり、と揺れ、倒れかける。急いで手を伸ばし、肩を支えてやった。
突然、男の手がすばやく動き、アドナンの腕をつかむ。
「――セイレーンを、見たことがあるか」
ろれつの回らない、ゲルマニア訛りの帝国公用語。
「海竜魚か。あるとも」
「そいつじゃない。天然の、しかも雌だ」
男が目を上げる。どろりと濁っていた眼に、異様な生気がひらめく。
「雌の天然海竜魚だと? とっくの昔に絶滅しただろう」
「表向きは、な。だが本当は、最後の一頭が生存している。おれは、それを見た。そいつと、しばらく一緒に暮らしたからな」
男は下卑た顎を下げ、にやにや笑った。
(酔っ払いめ)
アドナンはおせっかいを後悔した。脳髄まで酒が滲み込んでいると思われる男は、夢の世界に遊んでいるらしい。
「信じてないな。本当のことだ。おれは、あれを調べた。調べるために雇われたんだ。あれが絶滅寸前だから、人工のセイレーンを創り出せと、サラセンの王に雇われたんだ」
男は口の端から酒混じりの涎を垂らしながら、嘘じゃない嘘じゃないと繰り返した。
「宮殿の奥宮に、あれはいた。誰の目にも触れない地下の池で、優雅に泳いでいた。おれは……おれは、あれがあんまり美しいから……おれを、誘っていたから、おれは……」
男のうわごとを話半分で聞いていたアドナンは、ふと引っかかるものを覚えた。
――人工の海竜魚を創り出すため、サラセンの王に雇われた?
宮殿の奥宮、地下の池に、それがいる――。
男の言葉には、強いゲルマニア訛りがある。
「あんた、まさか……ゲルマニアから来た、医者か」
男は答えず、ぐずぐず意味のないことを呟きながら、卓上に沈没した。
「おい、おい、しっかりしろ。……だめか」
完全に酔い潰れた男は、そのまま動かなくなってしまった。アドナンは店の者を呼び、
「この男、どこに住んでいるか知ってるか」
「さあてね。いつも夕方にふらりと現れて、夜更けまでひとりで飲んでるんでさ。なりは貧乏臭えが金払いは悪かないんで、好きにさせといてますがね」
「毎日来るのか」
「ここ三か月ばかりのあいだ、一日も欠かしたこたあねえ。明日も来るんじゃねえですかい」
店の者はそれで用事は済んだと思ったのか、潰れた酔客をそのままに、厨房のほうへ消えてしまった。
(今日はもう、話はできねえな。出直すか)
この怪しいゲルマニア人に、訊きたいことがたくさんある。できるだけ素面に近い状態を捕まえるため、明日の夕方にここで待とう。
そう決めて、アドナンは酒場を出た。
しかし翌日以降、ゲルマニアの男の姿は、カイロから忽然と消え失せてしまった。