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第3話 疾風と〈幸運〉(2)

「本当だ。結構時間かかったな」

 ひとりごち、暮れかけた空を見上げる。

 ふと、書庫で浮かんだ幻影が、目の先をよぎった。

(馬鹿馬鹿しい)

 立ち止まり、目をつむる。

 人魚が実在するかどうかはともかく、あの形をしたものを食用にするかと考えると、あまりの醜悪さに気分が悪くなる。

(富むことに飽いた人の中には、珍味とは名ばかりの悪食をする者もいる。でも、共食いじみた行為にまで踏み込める者が、どれほどいるだろう。よほどの理由がない限り……)

 たとえば、不老不死の奇蹟――。

(――まさか……それなのか)

 そう思ったとき、イリアンは心に引っかかるものを覚えた。

(神に背いた悪魔の化身を、人間が滅ぼすという理屈はわかる。だけど、それを食べるという行為は、妥当なのだろうか。その肉が、美味であっていいのだろうか)

 そもそも、罪深い悪魔の化身の中に、神の奇蹟などあるのだろうか?

 なにかが抜け落ちている。完璧な一枚の絵を描くには、なにかが足りない。それが重要なことなのか、些細なことなのかさえ、わからない。

 どうしても拭えない、違和感。

(――いや、そんなことは、いまはどうでもいい)

 余計な考えを振り払うため、イリアンは白銀色の頭を切るように振った。

(まずは現存する海竜魚(かいりゅうぎょ)のことだけ考えるべきだ)

 海竜魚の公式な出現記録は五十年前、養殖に成功したのが二十年前とすると、五十年前に姿を現した雌が捕獲され、最後の母体となったと考えて間違いではないだろう。

(その後、なんらかの事情で天然海竜魚の雌が失われた。死んでしまったのかもしれない)

テオファネスは、取り戻して欲しいのは最後の雌だと言った。正真正銘、絶滅寸前にある、最後の希望だろう。

 それにしても、天然海竜魚の雌を所有する彼の一族とは、何者だろうか。

 ――オレ、亡国の王子さまなんだよ。

 おどけた態度でそう告げていった、奇妙な青年。馴れ馴れしくて、図々しくて、遠慮知らずで、無節操な感じで。でも、言葉の裏に偽りはなさそうに思える。

 地中海の島のどこかで、滅びかけている一族がいるのだろうか。亡国の王子というのも、あながち冗談ではないのかもしれない。

(キリスト教以前の古代の神を祀る一族がいても、不思議ではないか)

 依頼人の身元について、イリアンはあまり委細を問わない。犯罪めいた状況だけは避けるが、相手がどこの国の者であろうが、人種や宗教がなにであろうが、身分階級がどうであろうが、基本的に差別はしない。また、できる限り相手の事情には立ち入らない。そうしないと、自分の身が保たないからだ。

「……ああ、疲れた」

 小路に入り、人通りが途絶えると、イリアンは軽く伸びをする。

「ここのところ、仕事続きだな。……まあ、食べるのに困るよりいいけど」

(そうだ。サヴァにいい肉買っていってやろう)

 商店街までの近道をしようと、入り組んだ路地裏の細道に踏み込む。仕事で帝都中を歩き回るため、たいていの街区の地理は明るい。

 だから、確かに警戒はしなかった。脇道の袋小路の薄闇に、四、五人の背の高い男たちがいるのを見つけるまでは。

「……」

 イリアンは足を止めず、そのまま行き過ぎようとした。しかし、一様に無精ひげを生やした男たちは、にやにや笑いながら彼の行く手を阻み、取り囲む。決して小さくはないイリアンだが、男たちは彼より頭半分抜け出ている。

(おとなしく通してはもらえないか……)

 イリアンは男たちを見回し、ひそかに嘆息する。

 薄汚れ、垢じみた着衣の男たちは、揃って筋骨たくましく、簡易だが全員が武装し、帯剣している。

(得物になりそうなものは……ないな)

 くすんだ闇に目を走らせても、使えそうなものは棒切れひとつ落ちていない。自分の持ち物も財布くらいで、手ぶら同然だ。喧嘩ができないことはないが、あまり得手ではない。

(かわせるか……)

 男たちは好色そうな目つきで、絡みつくようにイリアンを眺めまわす。そして下卑た口調でなにかを言い合っているが、言葉はわからない。

 正面に立つ男が一歩、踏み込んできた。イリアンは姿勢を低くして地面を蹴り、男の脇腹すれすれを素早くすり抜ける。背後に回ると、男の背中を踏みつけるように力いっぱい蹴った。

「――!」

 男のひとりが怒声を上げ、抜刀した。それにならい、他の男たちも次々に剣を抜く。殺意は感じない。ただ、獲物を追いつめてなぶる肉食獣のように、威嚇しながらじりじりと間合いを詰める。イリアンは次第に袋小路の奥へと追い込まれてしまった。

(失敗、したか)

 せめて、仕事に差し支えない程度ですむといいのだが。

 イリアンは醒めた頭の片隅で、そんなふうに考える。

 ――でも、自分は人と違っているから、簡単には解放されないかもしれない……。

 踏み倒された男は、革手袋の甲で鼻血を拭うと、その手でイリアンの僧服の詰め襟をつかみ、ぐいと引き寄せた。

 強い衝撃が顔を襲う。頬を張られたのだと思った瞬間、両肩を激しく壁に打ちつけられた。

 頭が激しく揺すられ、目の前が暗くなる。前髪をつかまれ、乱暴に上向かされたとき、

「――」

 のびやかな声が路地に響いた。

(――この声)

 耳鳴りの奥でも、確かに聞き覚えがある。

 闖入者は路地の入り口から現れた。影法師は同じく長身で、均整の取れた体格の男。

 邪魔に入った男に、イリアンを追いつめていた男たちが怒鳴る。イリアンを離し、煩わしい闖入者に向かった。

 耳に馴染みのよい、良く通る声の人物は、男たちと少し話したが、やがてかすれた咆哮を合図に男たちが剣をかまえた。――決裂したらしい。

「奥の壁にはりついて避けていろ!」

 張りのある叫びがイリアンに投げられる。イリアンは言われたとおりに下がった。

 裏路地に、剣の打ち合わされる音が響く。武装した男たちは、見かけのとおり戦い慣れていた。圧倒的に有利な人数で、八方から切れ間なく斬撃を繰り出す。

 単身で五人を相手にする男は、しかし少しも慌てていない。幅広の剣を狭い路地で器用に振るうさまは、剣技というより舞踊のようだ。大胆で荒々しい動きは我流に見えるが、無駄のない精確な太刀筋は、正規の訓練を受けた者の証だった。

 踏みつぶされた蛙や、締められた鶏のような声を上げ、武装した男たちが次々に倒れる。くぐもった呻きが、地面を満たした。

「大丈夫か。やれやれ、別嬪さんが台無しだ」

 通る声の男はイリアンに歩み寄り、手を差し出した。イリアンは素直にその手を取り、

「奇遇ですね、アドナン」

 男の名を呼び、笑う。口の中に疼痛が走り、血の味がした。

「なにが奇遇だ。壊されかけたっていうのに、大した余裕だな」

 アドナンと呼ばれた男が、イリアンの痩躯を軽々抱き起こす。

「壊されたでしょうか」

「相手が相手だからな。こいつらゲルマニア人の傭兵だ。十字軍なみにタチが悪い」

 言いながら、地面にうごめく男たちを指し示す。男たちは痛んではいるが、重傷ではない。五人の傭兵を相手に、手加減するだけの余裕があったということだ。

「官憲に見つかるから、行くぞ」

 アドナンはイリアンに肩を貸し、路地裏から連れ出す。

 少し大きな通りに出ると、眩い夕陽が目を射た。イリアンは目を細めながら、隣に立つ男を見上げる。

 入日を受けて燃え立つように輝く、見事な赤銅色の髪。日に焼けた肌は黄金色に映えている。短衣の軽装をまとった体躯は鍛え抜かれ、猛獣の強靭さを思わせる。

 年齢はイリアンより十歳は上だろう。無造作に伸ばした髪に縁取られた顔は、彫が深く精悍だ。力強い印象の中で、薄茶色の瞳だけが、どこか子供じみた光を湛えているのが、男を親しみやすく見せている。

 男の手が、イリアンの傷ついた顎に触れる。

「すぐ冷やしたほうがいいな。腫れるぞ。罰当たりに綺麗なツラが、なんてざまだ」

「顔で生活しているわけではないので、かまいませんよ」

「おまえに関しては、その理屈は通用せんぞ。その顔で誘ってみろ。落ちないやつがいるとは思えん」

「そうでもありませんよ」

 含みを持って微笑する。アドナンは女好きだが、自分のような者はその守備範囲にはないことを、イリアンは承知している。

「それにしても、相変わらず手ぶらで無頓着に歩き回ってんのか。剣の使い方を忘れたなんて寝言ほざいたら、張り倒すぞ」

「近頃は吸血鬼(ヴコドラク)の頸ばかり落としているので、剣技としては使い物にならないんです。……どちらへ?」

「いいからついて来い。近くに知り合いがいる。傷の手当をしたほうがいい」

「大丈夫ですよ。帰ってからしますから」

「子供が遠慮するな」

 先に立って歩きながら振り向きもせず、赤毛の男は後ろ手にひらひらと手を振る。イリアンは黙ってついて行った。

 偉大なる先帝が建立したモスクの横手を通ってしばらく行くと、イオニア人が造った水道橋が見えてくる。その街区は、宵間近ながら妙に人通りが多い。

「ここだ」

 アドナンが指差したのは、一見瀟洒な石造りの館だった。

 扉を叩くと、内側からゆっくりと開かれる。

 煌々とした灯りを背に、上半身裸で禿頭の大男が顔を出した。

「よう、アフメット。景気はどうだ」

「おかげさまで、まずまずです。――ようこそ、お越しくださいました、提督(レイス)

 禿頭の大男は、濃い髭に縁取られた分厚い唇を、にいっと吊り上げた。笑顔を作っているつもりらしい。

(娼館……)

 香料と白粉に混じる、かすかな汗の匂い。淫靡な雰囲気に、イリアンはそれと悟る。

 アドナンは慣れた様子で、大男の刺青に覆われた肩を叩き、

提督(レイス)はよせよ。昔の話だ。――女主人は起きているか?」

「人聞き悪いわね。いくらなんでも、営業時間には起きているわよ」

 甘やかで気怠げな、若い女の声。

 入り口から真正面に広い階段があり、踊り場で左右両翼に分かれている。その左翼の階段から、声の主が姿を現す。

 長い黒髪、大きな黒い瞳。太陽を浴びてやわらかく色づいた上質の象牙のような肌の色。ゆるく結い上げた髪からこぼれる後れ毛をかき上げる仕草が艶めかしく、薄着の袖からあらわになった二の腕が、ふっくりとみずみずしい。

「久し振りだな、ディアーナ」

「そうね。しばらく見なかったから、てっきり難破でもしたのかと思っていたわ」

 女はちらと上目にアドナンを見遣る。視線の鮮やかな、美しい女だった。胴着に締められた腰は折れそうなほどに細く、その上にはちきれんばかりに盛り上がった豊満な乳房が、薄い肌着を透かして見える。髪からは薔薇(ギュル)の芳香が漂っていた。

 女主人というからには、この娼館の主人なのだろう。それにしては、かなり若い。まだ二十代に入ったばかりではないだろうか。濡れたように光る唇は淡い桜桃色で、それが女を少しあどけなく見せている。

イリアンは、思わず見惚れた。

「あらあ、可愛い! この坊やは、どなた?」

 月女神(ディアーナ)という、相応しいような、そうでないような名前の女主人は、急に声を明るくしてイリアンを見つめた。

「おれの知人だ。怪我している。手当てしてやってくれないか」

「いやだ、大変! 頬が腫れているじゃない! 綺麗な顔なのに、もったいないわ」

 良い香りのするしなやかな指が、イリアンの頬に添えられた。

「わたしの部屋へ行きましょう。薬をつけてあげる」

「すみません。突然にお邪魔して、ご面倒を」

「気にするな。こう見えて、こいつは世話好きだから、面倒なこたあない」

「あなたが言うことじゃないでしょ、偉そうに」

 女がアドナンを睨む。どういう関係なのか、大分親しそうである。

「部屋は階上よ。……これ、僧服ね。あなた、キリスト教の修道士さま?」

 イリアンの僧服を眺めながら、女主人が訊ねる。

「いいえ、違います。聖職にはついておりません」

「そう。なら良かったわ。修道士さまをこんな淫楽の園にお連れしたんじゃ、天罰がくだりそうだもの」

「天罰なんか、信じる玉か」

 後ろから、アドナンの呟き。

「うるさいわね。なんであなたまでついてくるのよ」

「そいつの貞操を守らにゃならん」

「どういう意味よ!」

 ディアーナが柳眉を跳ね上げる。イリアンは吹き出しそうになるのをこらえた。

 彼女の私室は二階左翼の一番奥だった。床には最高級のペルシア絨毯が敷き詰められ、壁際には低い長椅子が設えられている。テュルク人の標準的な内装の通り簡素で、家具といえば戸棚と衣裳箱くらいしかない。

 女主人はイリアンを絨毯に坐らせ、水鉢に冷たい水を汲んで手巾を浸し、彼の頬に当てた。

「薬を出すから、冷やしていてね」

「ありがとうございます。……申し訳ありません、お忙しいのに」

「ああ、いいのいいの。うちの姐さんたちは、みんなしっかりしてるから、手際よくさくさくさばいてくれるし。世話なくて本当に助かるのよ」

 女はひょいと身軽に立ち上がり、戸棚の端に置いてあった飾り箱を取り出した。

「仕事で来ていたのか」

 向かい合って腰を下ろしたアドナンが訊ねる。

「いえ、ユーニスのところへ、調べ物をさせていただきに」

「へえ。あのお坊ちゃまとも、しばらく会ってないな。元気だったか?」

「はい。お変わりなく、勉強熱心でいらっしゃいました」

「骨の髄から学生だよなあ。――あのお坊ちゃま、おまえに気があるぜ」

 薄茶色の瞳が、いたずらを仕掛けた少年のように揺れる。イリアンは苦笑を返した。

「そんなこと、彼に失礼ですよ」

「そうかな。おまえを見る目と、おれたちを見る目とじゃ、明らかに情熱が違うぜ」

「あなたみたいな獣くさい男と、この綺麗な坊やと、どちらが見るに値すると思うの? 図々しいわね」

 薬の小瓶を持ったディアーナが、イリアンのそばに坐る。胴着とつながっている深紅の裳裾が、大輪の薔薇のようにふわりと広がった。

「見せて。……ひどく殴られたわね。口の中も切れたでしょ。まったく、ゲルマニア人の傭兵なんて、海賊と同じくらい乱暴なんだから」

「ひでえ言い草だな」

 もと帝国海軍提督(レイス)で、現在は海賊の首領だという強面な経歴を持つ男は、ぼやきながらもにやりと笑った。

「さ、終わった。二、三日は痛いかもしれないけど、腫れは引いてくるはずよ」

 イリアンは丁重に礼を述べ、辞去するつもりで腰を浮かせる。それを、ディアーナが押し留めた。

「いま飲み物を持ってこさせるから、ゆっくりしていきなさいよ」

 言いながら、思いがけず強い力で坐らせられる。そしてイリアンの返事も待たず、部屋を出ていった。

「いいじゃねぇか。ゆっくりしていけ。遅くなったら泊まっていってもかまわんぞ」

 困惑するイリアンに、アドナンが自分の家のように呑気に言った。

「それに……ちょいと気になることがあってな」

 ふいと真顔になったアドナンに、イリアンは頷いて坐りなおす。

「おまえ、ハブルと揉めていないか」

 イリアンはわずかに目を瞠った。本当はとても驚いたのだが、それとは悟られないよう、できるだけ表情を隠す。

 ハブルは特定の信仰を持つ宗教民族の名称だが、縁あって付きあっているこの男がハブルと言うとき、それはあるひとりの人物を指し示すことを、イリアンは知っている。

 ――ナクソス公ホルグ・ピント。

「……どうしてですか」

「昨日おれの部下が、おまえの教会の近くを通りかかったとき、黒い帽子の男を見かけたそうだ。男は、教会の周りを探るように歩いていたらしい。――ピントの密偵だと思う」

 窺うように見つめるアドナンの視線を、真っ直ぐに見つめ返す。

 根競べになる前に、イリアンはふっと息を吐いた。

「まだ、揉めてはいませんよ。ナクソス公に関わる依頼を受けたのは、一昨日ですから」

「やっぱり関係あったのか」

 アドナンは落胆したように首を振った。

「アドナン……」

「イリアン」

 赤毛の男は彼の方へ身を乗り出す。

「おまえとは同郷のよしみだし、まあ……ちょっとした縁もある。悪いことは言わん。ホルグ・ピントに関わるな。あの男は――厄介だ」

 それは、イリアンとて十分承知している。

 わかっていても、引くことができない理由がある――。

「イリアン、おまえ、まさか……あいつのため、か」

 どくん。

 意志とは裏腹、胸が鳴った。

 心の奥から沸き上がる衝動を、今度は隠しきれなかった。

「馬鹿なこと考えるなよ。おまえひとりで、なにができる。無茶をするな」

「べつに、殴りこもうとか、斬り合おうなどというのじゃありませんよ。心配いりません」

「なら、なにをする気なんだ。言ってみろ」

 軽く受け流そうとした試みは、まったく通用しなかった。アドナンは精悍な顔を硬く引き締め、イリアンを凝視する。

(言ってもいいだろうか)

 仕事の依頼は、イリアンにとって機密だ。いままで依頼の内容を他者に漏らしたことは一度もない。恩人であるミルコヴィッチ師にさえ。

「イリアン。おれは、おまえのことも、あいつのことも……良く知っている。おれを信じろ」

 真摯な光で揺らめく、薄茶の瞳。

 この男は、自分を裏切ることはない。経験からも、それはわかっていた。

(打ち明けても、いいのだろうか)

「失礼いたします。お飲物をお持ちいたしました」

 扉を叩く音がして、小柄な女が入ってきた。銀の盆に載せた酒杯を持っている。

「なんだ、酒じゃないのか」

 がっかりしたようにアドナンが洩らす。酒杯の中身は、香料入りの糖蜜水(シェルベット)だった。

「ご酒は、お怪我にはよろしくないと、奥さまが」

「その奥さまは、どうした」

「お得意さまがお越しですので、応接していらっしゃいます」

 小柄な女はイリアンの横顔を一瞥し、小さな目を驚きに見開いた。赤く染まった頬を伏せて慌てて礼をし、逃げるように出ていく。

「あいつが自分から接客してんのか。よほどの上客なんだな。……で、イリアン」

 糖蜜水(シェルベット)をふたつともよこしながら、アドナンが顔を覗き込む。

「頼むから、今回は強情張ってくれるなよ。ピントは帝都の火薬庫だ。うかつに手を出せば、もろとも爆死だぞ。おまえの命に関わる。……それに」

 そこで男はふと目を伏せ、

「あいつのことは……おれにも責任がある」

 ぽつりと落とすように言った言葉。イリアンは目をつむり、心を決めて、開いた。

「わかりました。お話しいたします。――ありがとう、アドナン」

「礼なんか言うな、馬鹿」

 微笑するイリアンに、アドナンはぶっきらぼうに答えた。

 イリアンは、不思議な青年からの不思議な依頼を打ち明けた。天然海竜魚(かいりゅうぎょ)の雌について、海の事情に詳しいアドナンならなにか知っているかもしれないと、いまさら期待している自分に気がつく。

 アドナンは眉根を強く寄せ、なにかを考え込んでいた。イリアンが話し終わるまで身じろぎもせず、相槌ひとつ打たない。

「……天然海竜魚の、幻の雌、か」

 深い溜め息とともに、吐き出す。

「不老不死をもたらすという話は、船乗りたちのあいだで聞いたことがある。お宝の伝説には大げさな尾鰭がつくものだから、信じちゃいなかったが。事実だとしたら、大変なことだ。教皇庁が奇蹟の認定で大騒ぎするぜ、きっと」

「あの方の口振りでは、教皇もご存知のようでした」

「知っているかもな。そして、独り占めを企む。やりそうなことだ。それが、本当に生存しているなら、だが……」

 磊落な男にしてはめずらしく口ごもる。その意味を、イリアンは悟る。

「なにか、ご存知なのですね、アドナン」

「ああ……まあな。――このあいだの航海で、カイロに立ち寄ったときの話だ」

 飲まないと言ったはずの糖蜜水(シェルベット)をひと口飲み、顔をしかめてから、男は語り始めた。

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