第3話 疾風と〈幸運〉(1)
「結構です。開けてください」
イリアンは背後で備えていた男たちに声をかけた。
いずれも屈強な四人の男。それが、怯えたように蒼ざめ、尻込みしながら集まるさまは、気の毒なくらい滑稽だった。
太陽が天頂に昇りきる直前、宮殿岬を少し内陸に入ったところにある墓地に、イリアンは仕事で訪れている。
依頼人はテュルク人の宝石商で、死んだ娘婿が起き上がり、娘のもとへやってきて妊娠させたという。イリアンは屍鬼となった娘婿の退治を依頼された。
屍鬼を完全に滅ぼすには、首を切り落とし、遺骸を焼くしかない。そのためイリアンは依頼人の下僕を借りて、墓暴きを行っている。
依頼人の宝石商は、自分も立ち会うと言い張って譲らなかった。イリアンは男のためを思って、止めたのだったが。
下僕たちが円筒形の墓石を退かし、石棺の留め具を外しにかかっているあいだ、用具の準備に取りかかる。代わりにサヴァが鋭い眼で周囲を警戒していた。
仕事をするときのイリアンは僧服ではなく、簡素な民間人服をまとっている。頭を覆う青い布、膝までの濃紺の短衣に革の腰帯、細身の黒い短袴、ふくらはぎまでの白い靴下、濃紺の平靴。
依頼人の宗教や人種、民族が様々なので、特定の宗教宗派を表さないようにするためだ。もちろん、動きやすいという理由も大きい。
棺の留め具を外し終わった男たちが、落ち着きなく互いに見交わし、不安そうにイリアンを見た。力仕事をするために生まれてきたような体格の男たちに囲まれると、イリアンは少女のように華奢で儚い。
だが、いまこの場を制しているのは、紛れもなくイリアンだった。
「全部開けてください。大丈夫です。昼間は起き上がったりしませんから」
下僕たちはもう一度顔を見合わせると、覚悟を決めたように、石棺の蓋を動かした。
「うっ、うわ……!」
「げえぇ!」
「ひいっ」
暴かれた墓を覗き込んで、男たちが様々な悲鳴を上げる。依頼人の宝石商は、腰を抜かしてしまった。
無様に退いた男たちにはかまわず、イリアンは墓の中身を凝視する。
「……やはり」
そこには、ひと目で異常とわかる屍骸が横たわっていた。
夏の盛りに埋葬されて、すでに五十日が経過している。にも関わらず、死者の身体はぷくぷくとはち切れんばかりの張りを保っている。皮膚の色は鮮やかな血色で、髪や髭、爪も伸び続けている。
埋葬したときは白かったはずの屍衣は、毛穴から滲み出た血を吸って、まだらに赤黒く染まっていた。
人間の血をたっぷり飲んで膨れた吸血鬼は、血の詰まった皮袋と表現される。この屍骸も、伝統的な比喩を裏切らなかった。
「間違いありません――屍鬼です」
イリアンは依頼人を振り返る。下僕に支えられてやっと立ち上がっている宝石商は、血を吸われてしまったような青い顔をしかめ、嘔吐を堪えながら言った。
「は、早く……早く、始末してくれ。こ、こんな、こんな化け物が、む、む、娘を……娘を」
歯の根が合っていない。うわごとのように繰り返し、やがてしくしく泣き始めた。
「承知しました」
イリアンは山査子の枝を削って作った杭を持ち、屍鬼の心臓の上に正確にあてがう。そして、木槌で一気に打ち込んだ。
「ぎいいぃぃぃいやあああぁぁぁ!」
まるで生きている人間の断末魔の叫びだった。叫びを彩って、どす黒い血が大量に噴き上がる。
屍鬼は真っ赤な眼球をかっと見開き、鮮血色の口を大きく開けて悲鳴を上げ続けた。
一同は耳をふさいで地面に倒れ伏し、口々に啓典の聖句を唱える。
サヴァはイリアンを守るかのように鋭く吠えながら、墓の周りを何度も回って結界を張る。
心臓、額、両腕、両足と、六本の杭を打ち込むと、イリアンは小剣を抜いて屍鬼の頸に当て、頭部を切り落とした。祈祷も呪言もない。一連の作業は、流れるように淡々と行われる。
鍛錬を積んで、狩る者となった職能者は、古のまじないや、それぞれの宗旨に基づいた祈りの言葉を使う。常人であるがために、この世ならぬものの瘴気に当てられたり、向こう側へ引き込まれたりするのを、避けなければならないためだ。
イリアンにはその必要がない。生まれながらに魔性を狩ることを定められたクルスニクは、ただそこにいるだけで良い。狩る方法は、身体が、血が、生まれるより遥か以前の記憶が、教えてくれる。
切り落とした首を屍骸の脚のあいだに置き、香油を振りかけ、魔除けの香木を混ぜた薪を積み重ねる。火を点けると、墓穴は瞬く間に炎に包まれた。
「……あのおぞましい化け物は、本当に婿だったのか」
かろうじて自分の足で立てているらしい宝石商は、イリアンと並んで炎を眺めた。
「娘の胎内にいるのは、なんなのだ? 月満ちて生まれ落ちるのは、人か、化け物か」
イリアンは答えなかった。
「娘が化け物を産んでしまったら、わたしはどうすればいい」
屍鬼――吸血鬼とのあいだに生まれた子供は、人となんら変わりない姿をしているものもいれば、そうではないものもいる。全身が獣毛に覆われていたり、身体中の骨がなかったりと、異常な姿をしている赤子を見たことがある。そういう赤子の大半は、長く生きることはない。
まれに、人並みに成長することができる者がいる。ダンピールと呼ばれるそれらは、〈土曜日生まれ〉と同じ能力を持っているが、得てして人に害為す闇の眷属となることが多い。
(そうしたら、また狩るのか。わたしが……)
「……生まれたら、信頼の置ける宗教指導者にご相談なさるのがよろしいでしょう」
それだけ告げて、イリアンはサヴァとともに墓地を去った。
ひと仕事終えて帰宅し、邪悪な血に穢れた身を洗い清めて、寝台に倒れ込む。
(出かけなければ)
そう思いながら眠ると、めずらしく一刻ほどで目覚めた。疲れが完全に取れたわけではないが、気持ちが高ぶっているため、それ以上寝ていられない。
起き出して、清潔な僧服を身に着ける。
「行ってくるよ、サヴァ」
愛犬に留守を任せ、再び出かける。渡し船で対岸に渡り、岬を宮殿とは反対方向に向かう。
活気溢れる市場街を抜けると、閑静な住宅地に入る。この街区はイオニア人支配時代の重厚な建物が多く、富裕な人々の居住区となっている。
イリアンは湾に面して建てられた石造りの館を訪れた。
イスラムの典型的な住宅のとおり、この邸も男性居住棟と女性居住棟の二翼に分かれている。訪ねるべき人の住む男性居住棟の入り口に回るため、庭園を歩いていると、思いがけず邸の主人に遭遇した。
「ご無沙汰しております、ジャーフェル師」
老賢者に、礼を尽くして挨拶をする。
暖かな秋の日だまりの中、ほのかに色づく庭園を眺めていたらしい老賢者は、眠そうな眼をめぐらし、イリアンを見留めた。
「おお、土曜日に生まれた子か。久しいな。ミルコヴィッチ師は、ご息災かね?」
「ジャーフェル師、わが師は一年前に亡くなりました。……葬儀の折には、ジャーフェル師にもご臨席賜りました」
「そうだったかね」
「そうです」
「そうか……ミルコヴィッチ師は、亡くなったのかね」
そうか、そうかと口中で呟き、真っ白な長い髭を撫でる。イリアンはひそかに苦笑した。
イスラムのジャーフェル師はミルコヴィッチ師の古くからの友人で、帝国でも高名な宗教指導者である。かつてはイスラム法の最高権力者であり、全宗教指導者の長にまで到達した人物だ。
現在は引退し、帝国からの年金で読書三昧の悠々自適な隠遁生活を送っているという。飄々とした語り口と、楽園にいるような風情からは、とても往事の厳格さは窺えない。
イリアンは、この老人が好きだった。宗教や人種の枠を越えて幅広い交友関係を結び、異なるものを排除せず、ときに敬意を表していた人格者は、同様に宗教や人種の枠を越えて敬愛されているのだ。
「ユーニスなら、部屋におるよ」
「はい。ありがとうございます。失礼いたします」
「ミルコヴィッチ師に、よろしくな」
イリアンはいとおしいような気分で会釈し、邸に入った。
階段を上り、一番奥の部屋の前で止まる。そして、静かに扉を叩いた。
「どうぞ」
中から、部屋の住人が答えた。イリアンは扉を開け、
「お久しぶりです、ユーニス。突然お訪ねして、申し訳ありません」
「イリアン……!」
文机に向かい、書き物をしていたらしい青年は、びっくりした様子で顔を上げた。
「すみません、お忙しかったでしょうか」
「いや……大丈夫だよ。しばらくだね」
テュルク人の若者は、ターバンを押さえながら、照れ隠しのように笑った。
「お庭でジャーフェル師にお会いしました。お元気そうで、なによりです」
「そりゃ元気だよ。山盛りの焼肉をもりもり食べるんだから。ふつう、年寄りって食が細くなったりしないかなあ」
親しみを込めて憎まれ口を叩く青年は、老賢者のもとに起居する神学生だ。
「あなたも、お元気そうですね、ユーニス。よかった」
「ああ、うん。まあ……元気さ」
青年は口ごもり、赤い顔を伏せる。イリアンより三歳ほど年上だが、小柄で童顔のため、年下にしか見えない。
「実は、また……お願いがあってまいりました」
「いいよ、わかっている。――書庫だろ」
ユーニスは笑み、机の抽出から大きな鍵を取り出した。
「好きに見ていいよ。でも、なるべく――先生には、内緒だから」
「わかりました。ありがとうございます」
イリアンは礼を述べ、鍵を受け取って部屋を出た。
庭園に下りると、老賢者の姿はなかった。イリアンは庭を横切り、離れの書庫に行く。
ジャーフェル師の蔵書は、おそらく個人の所有としては帝国随一だろう。そこにはイスラム神学はもとより、キリスト教など他宗教の書、医学、科学、詩や散文、世界中の地図や図象解説書まで、多岐に渡る貴重な書物が収蔵されている。
中でも驚くべきは、師がイスラムの長老として現役だったころの法令文や議会文書、軍事・外交記録、裁判記録、正史から市井の見聞録に至るまで、国政庁のあらゆる記録の写しが、すべて保管されていることだ。
イリアンは五十年前の勅令と御前会議の記録を探した。当時の皇帝は、自らを立法者と称し、欧州では壮麗王と呼ばれた偉大なる支配者で、現皇帝の父親に当たる。
海竜魚養殖の研究を始めることを勅令によって命じたのは、この先帝だった。当時イスラムの長老だったジャーフェル師は、先帝の精神的支柱であり、良き相談者でもあった。
「――あった。これだ」
『珍重にして普遍の滋味、絶やすことなく、広く世に叡智技能を求め、以てこれを存続させるべし。』
写しなので皇帝の花押こそないが、確かに先帝の発した詔勅だ。会議文書では、具体的にどのように計画を進めるのかが話し合われていた。
その会議文書のあいだに、海竜魚に関する記述をまとめた報告書が挿入されていた。
海竜魚が食肉として常食され始めたのは、十三世紀初頭、およそ三七〇年も遡る。
それ以前からも、この辺り――小アジアや黒海の漁民たちのあいだでは食用とされていたが、欧州にまで広く行き渡ったのは、一二〇四年、聖地奪回を謳った十字軍が、当時東方ローマ帝国の帝都であったこの都を占領したことによる。ラテン人は、数々の聖遺物やイオニア人の宝物とともに、この珍味を自国に持ち帰った。
教皇庁教条にいわく、海竜魚なるこの水棲の獣は、魚類の一である。創世記に記されし楽園において、原初の人間アダムとエヴァを堕落させた蛇の眷属であり、蛇と好んで交わる卑しい生物である。元来は陸棲であったのが、神の怒りに触れ、アダムとエヴァの楽園追放後、水中の暗闇に堕とされた。その罪深さゆえ、決して栄えず、さらには人間によって食用とされ続ける宿命を与えられる、と。
――これは、楽園を喪失させられた人間の復讐である。――
このことから聖職者にも常食が許され、欧州での需要が増大した。
しかし、長年にわたる乱獲の結果、現在天然のものは絶滅の危機に瀕している。とりわけ稀少種であった雌は、公式の出現報告は五十年前の記録を最後に途絶え、すでに絶滅と見なされていた。
雄の海竜魚は地中海の北海域に僅少生息しているが、帝国の禁猟禁輸保護動物に指定されており、もはや食用ではない。
食肉として日々の生活に欠かせないものになっていた海竜魚が絶えないよう、勅命により雌の絶滅寸前、いまより半世紀前に研究が始まった。
最後の雌といわれる母体から採取した「卵」を用いた繁殖作業は、三十年もの試行錯誤の末、ついに帝都在住のデンマーク人水産業者とハイデルベルクから来たゲルマニア人医師との共同研究によって成功を収めた。いまより二十年前のことである。
(テオファネスの言う雌が最後の一頭なら、養殖研究のために「卵」を採取された雌は、どうなったのだろう)
報告書には、楽園のアダムとエヴァを描いた版画が添付されていた。
右端に善悪の知識の木が描かれ、その左側に知恵の実を持ったエヴァが立ち、さらに隣にアダムが立っている。善悪の知識の木には蛇が絡みついている。
蛇は一見しただけでは雄か雌かわからない。化身した悪魔で、エヴァと通じたともいわれるから、雄なのだろう。
海竜魚は雌雄同体である。稚魚のうちは性が未分化で、雄として成熟し、そのうち身体の大きな個体が雌に性転換するという。
その特徴が、イリアンの心をざわめかせる。
(聖書に示された人間と同じだ。最初の人間は男で、その肋骨から女が創られた。でも、両性の扱いは、ずいぶんと違う)
聖書では、すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であると教えている。女は男に属するものであるというのだ。
海竜魚も雄の中から雌が現れる。だが、卵胎生で生まれる海竜魚にとって胎盤を備えた雌は、雄より体格が勝り、寿命も長い。
生命の誕生には、雄と雌が必要だ。それを分けるのは、神の手か、それとも……。
(余計なことを考えるな。いまはそんなこと、関係ない)
思考の迷宮に踏み込みそうになるのを、強いて振り切る。イリアンは報告書の頁を繰った。
添付の図はもう二枚あった。一枚は、博物図鑑から転用されたらしい海竜魚の絵だ。ジュゴンという海獣に似ているというが、鈍重な体型は、悪意の誘惑者にはとても結びつかない。
「――!」
もう一枚の絵を見たとき、イリアンは思わず息を詰めた。
豊かに流れる長い黒髪。丸みを帯びた肩からしなやかに伸びる二本の腕。細い頸の下に、少女のような小ぶりの乳房。遠くを見やる表情はどこか虚ろで、深い青の瞳だけが妙に鮮明に迫る。
その、人間の少女にしか見えない身体の腰から下は、海蛇のように長い魚身だった。青銀色の鱗が、大きな尾ひれまでちりばめられている。
いつごろ描かれたものか。鮮やかに彩色された細密画は、書庫の薄闇の中で、ほのかに発光しているかのような生々しさがあった。
「これは……人魚、じゃないか」
細密画から目を逸らせない。なぜここに、人魚の絵が混ぜられているのだろう?
人魚は伝説上の生き物だ。船乗りたちの中に、見たことがあるという者がいると聞いたことがあるが、イリアン自身は眉唾だと思っている。ジュゴンのような海獣を、人魚と見間違うことが多いとは、海に詳しい知人から教えてもらった。
イリアンはもう一度、楽園の蛇を見た。悪魔の化身、罪深き誘惑者。木の幹にからみつくその蛇身が、細密画の人魚の長い魚身と同じに見えた。
人魚は類稀なる美貌と美声によって、船乗りを誘惑し、暗い海の底に引きずり込む魔性の生き物である。古代イオニアの英雄オデュッセウスは航海の途上で人魚に襲われ、誘惑の歌声から身を守るために、耳に栓をして逃れたという。
海の誘惑者、人魚――セイレーン。
海竜魚をセイレーンと呼ぶ。これは驚くには当たらない。姿形の似ているジュゴンも、セイレーンと呼ばれることがある。どちらも泳ぎ方や鳴き声が人魚を連想させることから、そう名づけられただけのことだ――だが。
――原初の人間アダムとエヴァを堕落させた蛇の眷属。
海竜魚の定義は、そうではなかったか。竜のような身体を持つ、罪深き、海の生物。
美しい姿形と歌声で、船乗りを惑わす、魔性の女妖――。
イリアンの目の前で、博物図鑑の海竜魚が、巨大な水槽の中を悠々と泳いでいる。水産物商人がそれを捕らえ、魚切包丁で器用に捌いていく。解体された海竜魚の肉は、市場に並べられ、人々が食べるために買っていく。
市場の裏手、解体された残骸の中から、白いしなやかな腕が伸び……。
「――イリアン」
夢想を破られ、はっと我に返る。
「大丈夫かい。真っ青だ」
「ユーニス……」
イリアンは下から顔を覗き込む小柄な人物を見止めた。黒い瞳が、気遣うように揺れている。
「気づきませんでした。いつから、いらしたのです」
「えっ? あ、ああ、えと、ごめん。呼んだんだけど、聞こえなかったみたいだから」
童顔の青年は、あせったように手を振った。少年臭さの抜けない仕草が、イリアンの緊張をふっとほぐす。
「だいぶ経つのに、なかなか戻ってこないから、どうしたのかと思って」
「そんなに経ちますか」
言われてみると、肩や腕がすっかり冷えている。日の当たらない書庫では、秋の空気も冷たく降り積る。
「すみません。もう終わりますから」
「あっ、いや、べつに急かしたわけじゃないんだ。いいんだよ、ゆっくり見てくれて。先生はお部屋だし」
「いえ、本当にもう終わります」
会議文書の綴りと報告書を書架に戻す。ユーニスは少しすまなそうな顔をした。
「どうもありがとうございます」
書庫を出て、青年に鍵を返す。
「また必要だったら、いつでも来てくれていいよ」
「助かります」
ユーニスはまだなにか言いたそうだったが、あまり長居するのも気が引けるので、イリアンは辞して邸を出た。