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第2話 野獣の檻

 御前会議は、いつもの通り、滞りなく進んだ。

 いつもの通り――夜明けとともに、会議の参加者が宮殿(サライ)の外廷、国政庁(ディヴァーン)の円蓋下の間に集まる。

 会議の主催である大宰相、以下、第二から第五までの宰相たち。文書行政部門の国璽尚書と御前会議事務諸局の書記官たち。財政部門の欧州(ルメリ)地区財務長官、小アジア(アナドル)地区財務長官、地方財務長官。司法・文教部門の欧州(ルメリ)地区司法官と小アジア(アナドル)地区司法官。

 国政庁(ディヴァーン)の前には、すでに訴願者の列が長く伸びていた。先着順に訴えを聴いていくのだが、長蛇の処理は通常正午までかかる。

 リュステムは、大宰相の並びに腰を下ろし、訴願に耳を傾けながら、ひそかに大宰相を窺っていた。

 大宰相は、熟練した采配で会議を裁き、余念がないかのように見える。

 だが時折、彼の意識が逸れるのを、リュステムは知っていた。大宰相は、背後の頭上を気にしている。

 円蓋のすぐ下の壁には、格子の嵌められた小窓があり、広間に隣接した小部屋に続いている。大宰相の意識は、その小部屋の中の気配に乱されるのだ。

 正午になると、午餐の準備のために全員、円蓋下の間を退去する。

「第三宰相」

 広間を出てすぐ、リュステムは呼び止められた。

「大宰相」

 リュステムはターバンを巻いた頭を下げ、正面に立った白い長衣(カフタン)の男に敬意を表す。

「午餐の前に、少し話しても良いかな」

 大宰相はリュステムを国政庁(ディヴァーン)内の私室へ連れて行った。

「――本日も、皇帝陛下の御来臨は叶わなかった」

 大宰相は立ったまま後ろ手に組み、落胆の嘆息とともに言った。

 御前会議の主催は元来、皇帝である。しかし政務において宰相の権限が拡大されると、皇帝は会議の主催を大宰相に一任し、自らは隣室の格子窓から見守る形式になっている。

「陛下が内廷と後宮(ハレム)とに引き籠り遊ばされて、すでに二か月になる。その間、わたしが御尊顔を拝したのは、片手で数えるほどに過ぎぬ」

 リュステムは扉口に控え、目を伏せて黙って聞いている。

「本来ならば、われわれごとき卑しかる者が、皇帝陛下の御振舞いについて、意見し得るものではない。だが、あえて――あえて、この場限りにて言わせてもらうが……」

 白いものの混じる豊かな顎鬚を、大宰相は思案気に撫でた。

「陛下の御放埒は、国家にとって憂慮すべきものである」

 大宰相は真っ直ぐにリュステムを見据えた。リュステムは慎重な視線でそれを受け止め、応答はしなかった。

(うかつなことは、口にはするまい。いつ、どこで、何者かが聞き耳を立てているとも知れない)

 それは、身に染みついた習慣だった。彼は、宮殿(サライ)内に自分を嫉み、隙あらば追い落とそうとする者たちが存在することを知っていた。それが当然だという自覚も、もう随分と前から心の底に根を下ろしていた。

 慎ましく伏し目にして、大宰相の言葉を待つ。

大宰相――帝国の要たる人物。

 昨秋、コリントス湾でキリスト教皇の軍と交戦し、あろうことか無敵のはずの帝国艦隊が、ほぼ壊滅という大打撃を蒙った。

 しかし大宰相は迅速な対策で艦隊を再建し、帝国の威信と体面を保った。壮年を過ぎてもなお精力的なこの男の手腕が、帝国の安定をもたらしている。

 だが、この二、三か月のあいだに、その面貌は変わってしまった。穏やかだった面差しには深い憂愁の影が張りつき、頬の肉を削いだかのように憔悴している。心労は、年齢以上に頑健だった身体さえも蝕み始めていた。

「そなたに、頼みがある、第三宰相」

 大宰相は、眼窩に落ち窪んだ暗いまなざしを、じっとリュステムに注いだ。

「内廷におわす陛下の御様子を窺い、報告してくれぬか。そして、もしでき得るならば、お諌めして差し上げよ。いまや、国政庁(ディヴァーン)の者で、陛下に親しくお目通りの叶う者は、そなたしかおらぬ」

 リュステムは、なんと答えるべきか、一瞬ためらった。その彼を、大宰相の次のひと言が、鋭く突き刺す。

「たとえ、どのような形であっても、な」

 はっと息を詰め、リュステムの頬が強張った。白い面に、かすかな朱が走り、次第に青ざめる。

 大宰相が、彼を見つめていた。どこか哀しげな、憐憫を含んだようなまなざし。

 反射的に、リュステムは目を逸らす。わずかな動揺。それが、忌々しい。

 抑えていた感情の奥底から、ふつふつと湧き上がるものがあった。冷たいがために熱い、暗い渦。炎のように彼の身内を舐め、焦がしていく。

 ――わたしを見るな。

「リュステム・ハリール」

 名を呼ばれ、リュステムは顔を上げた。懐かしそうに揺れるまなざしが、眼前にあった。

「リュステム・ハリールよ。そなたは、それほどに若くして、現在の地位にまで昇った。そのことについて多くの者は羨み、嫉み、口さがない噂や中傷を言い立てておる。だが、わたしは、そなたが真実英邁で有能であることを知っている。そなたは、スルタン私室の小姓(オウラン)の時分から、他より抜きん出てて優秀であった」

 大宰相は眩しそうに目を細めた。

「そなたを初めて見たとき、わたしはすぐにわかった。――風の匂いを嗅いだように思うたのだよ。懐かしい、故郷の大地を吹き抜ける風を」

 大宰相はリュステムに歩み寄り、その肩を親しげに叩いた。

「そなたに期待しておるのだ。頼むぞ、リュステム・ハリール・パシャ」

 自信に満ちた笑みを浮かべ、大宰相は自ら扉を開けた。

 午餐の食卓はすでに整っているらしく、円蓋下の間のほうから、香ばしい焼肉(ケバブ)の匂いが漂ってくる。

 金糸の刺繍に飾られた豪奢な白いカフタンをひるがえし、大宰相は悠然と円蓋下の間に入った。

 随従する瑠璃色のカフタンのリュステムは、この帝国一の栄華を享受する同郷出身の男の背中を、冷ややかに眺めていた。

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