第1話 月を喰う者(3)
テオファネスというイオニア風の名前の風変わりな青年が帰ると、間もなく夜がやってきた。
天窓から覗いた白い月が聖堂を横切り、通り過ぎ、暗闇が降りても、イリアンは動けないでいる。
――ナクソス公ホルグ・ピント。
ポルトゥスカレから来たハブル人の大富豪。野心家で、奸智に長け、いつの間にか皇帝の寵臣となっていた男。野望を達するためには手段を選ばない貪欲な人物だと、帝都で知らない者はいない。
(天然海竜魚の持つ不老不死の奇蹟と引き替えに、皇帝からなにを奪い取る)
「……政敵の追い落としを図るつもりか」
(そんなことは、させない)
軽く唇を噛み、目を閉じる。
ふと、傍らに気配を感じる。いつからいたのか、サヴァが心配そうなまなざしで見上げていた。
「大丈夫、心配ないよ、サヴァ」
やさしく声をかけながら、頭を撫でてやる。硬い毛の感触が、痺れた指先をくすぐった。
聖堂内は冷え切っていた。思いに耽るイリアンは、寒さすら感じなかった。相棒の温かい熱を感じ、ようやくぶるりと身ぶるいする。
腰を上げ、祭壇の燭台に火を灯す。見上げると、磔刑にされ、うなだれた神の子の頬が、きらりと光った。
「……師よ、お赦しを。わたしは〈土曜日生まれ〉の枠の外で、罪を犯すかもしれません」
祭壇に置かれた正十字を手に取り、冷たい銀に口づける。信心のためではない。彼の出生を肯定し、〈土曜日生まれ〉として生きる道を教えてくれた師――いまは亡き司祭への敬意のために。
〈土曜日生まれ〉――それは、単に土曜日に生まれたというだけの意味ではない。
土曜日に生まれた者には、闇の眷属を駆逐する能力があると伝えられている。さらに、その出生が異常――逆子や仮死状態での誕生――だった者は、生まれながらに屍鬼を狩る力が備わっているという。
その存在を、バルカンの地では知らない者はいない。ただし、決して口の端には上らない。それは忌むべきもの、此岸と彼岸の境界に立つ者だからだ。
確率から言えば、土曜日に生まれる子供は珍しくはない。ただ土曜日に生まれただけでは、それほど問題にはならないのだ。
だが出生異常を伴うとなると、話は大きく変わる。特に、羊膜を被って生まれる白い子供の場合は。
闇との境界に立つものが人から生まれるとき、その赤ん坊は羊膜に包まれたまま生まれてくる。吸血鬼や魔女は赤い羊膜を、魔を狩る者は白い羊膜をまとっている。
赤い子供は死産で生まれ、しかるべき埋葬を行わないと墓場から蘇り、肉親たちに害を為す。
一方、白い子供は、洗礼を受ける教会において死と再生の儀式を経ることによって、人の血と肉を獲得し、人を害する魔物を駆逐する者――クルスニクとなる。
イリアンは、土曜日に生まれた、白い子供だった。
生まれて間もなく村の教会に預けられたイリアンは、羊膜を身代わりにした埋葬によって一度の死を迎え、聖水をくぐることによって新たな生を与えられた。
(生まれ変わったわたしは、しかし家族には受け入れられなかった)
細い指先でくすんだ銀の正十字をなぞりながら、イリアンは寒くて暗い村を思い出す。
――おまえの髪は白い羊膜、おまえの眼は墓場の獣。
彼は両親のどちらにも似ていなかった。父親は濃い金髪で、母親は黒に近い褐色の髪。兄たちもそのどちらかに類していた。彼の容姿は明らかに異質だった。
彼を預かった村の教会で聞いた話では、父親は彼を自分の子ではないと罵り、妻の不貞を疑った。夫に責められた母親は半狂乱になり、眠っているとき淫魔が自分を犯し、無理やり産まされたのだと喚いた。
この騒動によって、彼は村という共同体から完全に切り離された。
魔物の子供と忌み嫌われた赤子は、それでも神の加護の端くれにしがみつくことだけは赦された。教会の片隅で、最低限の衣食を与えられ、幼いなりの雑役を与えられて、生きることだけは認められたのだ。
だが、彼が十歳を過ぎたとき、突然父親が教会に押しかけ、神の足下から彼を奪った。
その日は葬礼があったため、教会は無人だった。父親はなにを説明するでもなく、彼を村外れまで連れて行き、見知らぬ男の手に押しつけた。子供を手放して空いた父親の手には、硬貨の入った小さな革袋が握られた。
人買いの手に渡された彼は故郷を離れ、黒海沿岸で帝国に向かう奴隷商人に転売された。
旅の途上で人以下の扱いを受け続け、帝都最大の奴隷市場に立たされたときには、彼の心は深い深い海の底で、死の次に長い眠りにつこうとしていた。
(でも、眠らなかった。あのとき、あの瞬間、見定めたのだ)
かけがえのない、たったひとつの輝きを。
「……あ」
祭壇前にひざまずくイリアンは、また別の気配を感じて振り返る。
燭台の光の輪の外、締め切った扉の前に、忽然と女の姿が現れた。
裾を引く、碧い衣裳。頭を覆った碧い面紗。女は足音もなく、衣擦れの音すら立てず、滑るように通路をやって来る。
女は祭壇の左側、前から四列目の席に坐った。祭壇前にいるイリアンなど、気にも留めない。
イリアンはサヴァを促し、女を妨げないようそっと壁際に退く。
碧の貴婦人――イリアンはそう呼んでいる。女の顔は見えない。頭部を覆った碧い面紗からは、対面の壁に祀られたセルボの守護聖人、聖サヴァの像が透けて見える。
彼女はいつも夜の決まった時間に現れ、決まった席に坐り、しばらくのちに消える。なにかをなすわけでも、言葉を発するわけでもなく、ただそれだけ。悪い気も感じられず、なにより魔性に鋭敏なサヴァが注意を向けないので、イリアンはそっとしておいている。
――わたしには、見えないのだよ、イリアン。おまえにだけ見えるということが、おまえが特別な能力を持っている証にほかならない。異能を恥じることはない、土曜日に生まれた子よ。
このセルボ正教会の司祭にして、イリアンの師だったミルコヴィッチ師は、穏やかに言った。
奴隷市場で買われたイリアンは、最初の人の手を経てこの教会に預けられた。最初の人の元では、彼の持つ特殊な能力が、周囲に良くない影響をおよぼしたためだった。
自分が普通ではないと、十四歳になっていた彼は痛いほど自覚していた。人に忌み嫌われ、迫害されるのは、自分が悪いせいだと信じていた。
つらく苦しい旅の果てで、ようやく見つけた愛しい場所を出なければならなかったのも、すべて自分が忌まわしい生まれであるせいだと、絶望的なまでに思い詰めていた。
――イリアン。主は、すべての人を愛し、すべての人のために十字架の道を歩まれた。おまえも例外ではない。おまえが、そのように生まれついたのは、主の思し召しなのだ。自分を厭うのは、主の御心に背くことだよ。
老司祭は言い、イリアンの生を肯定してくれた。そして、おのれの身を厭い、蔑むだけだったイリアンに、自分自身と向き合って生きる意味を諭した。
――おまえはほかの誰より、主に近いところにいるのだ。だから、クルスニク――〈十字架の人〉と呼ばれるのだよ。
長い夜を持つ欧州の東の地方では、闇の眷属がより身近に息づいている。人々は様々な魔除けのまじないを伝え合い、最低限の防御を施しながら、闇と隣り合わせに生活している。
魔除けは、此岸と彼岸の境界に線引きをする役目を果たしはするが、あえて境界を越えてきた彼岸のものを撃退するほどの力はない。それができるのは聖職者か、狩る者と呼ばれる特別な訓練を受けた職能者、または生まれながらに特殊な能力を持つ者だけだ。
――おまえには、おまえにしかできないことがある。この国は、われわれとは異なる信仰を持っているが、人の生業や心の闇は、われわれとなんら変わりがない。おまえの能力は、必ず人々の役に立つよ。
ミルコヴィッチ師は、イリアンに職能者として必要な知識を教えてくれた。イリアンが望むなら、彼を正教会に正式加入させ、いずれ自分の教区を任せたいとまで言ってくれた。
その師の死は、イリアンにとって大きな痛手だった。聖職者になることは望まなかったが、せめて師の守ったこの神の砦だけは受け継いでいこうと、総主教座と帝国政府とに陳情し、建物の存続だけは許可された。
(教区から外されても、ここには師のご意志が生き続けている。わたしにとっても、ここはもうひとつの生まれ変わりの場所だ)
失いたくない。だが、これから自分が為そうとしていることを思うと、不安に苛まれる。この仕事は、もしかしたら、皇帝の逆鱗に触れる所行となるかもしれない。
(もし、ここが無くなってしまったら、彼女はどうするのかな)
蜃気楼のように儚い女の姿を眺めながら、漠然と思ったとき、碧の貴婦人は闇に溶けるように、消えた。