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第11話 永遠の海(2)

「あら、人魚になり損ねた坊やは?」

 ようやく吐き気の治まったディアーナが、アドナンの傍に来た。

「ずぶ濡れだから、船室で着替えさせている」

「わざわざお部屋でお召し替え? 男の子なのに、恥ずかしがり屋さんね。……もっとも、こんなケダモノ臭い荒くれ男たちの前じゃ、男の子だって心配よね。あんなとびきりの美少年だし」

「なんとでも言え」

 仏頂面のアドナンに、ディアーナはくすくす笑う。が、思いついたように、ふいと真顔になった。

「……ピントの私兵と戦ったとき、あの子と一緒だったの。あの子、とても強かったわ。剣技ももちろんだけど、それ以上に、気迫が……いえ、なんて言うのかな、雰囲気かしら。全然違うのよ。戦い方も、問答無用の一撃必殺で、容赦ない感じ。いつもの、柔和で礼儀正しいあの子とは、別人のよう。……そういえば、ドーニャ・イサベラを抑えると言ったときも、そうだったわ」

 アドナンは黙したまま、答えない。――理由は、わかりきっていた。

 そしてそれが、イリアンが聖職者になれない理由であることも。

 リュステムの優秀な〈剣〉だった少年は、人を殺めることにためらいを感じない。もちろん、人の命は大切だと思い、可能な限り殺生は避けようとする。自分の身が危険だとしても、平時は人を傷つける武器を持たず、ときに自らの安全すら諦めるような潔さを見せる。

 だが、ひとたび退けない現場に直面すると、その身体に刻み込まれた戦闘能力が発動する。

 そして少年は、確実に敵を仕留める〈獣〉となる。

 ディアーナが別人のようだと評したのは、ある意味、的を射ているのだ。

「あの子は一体……どういう子なの」

 訝しげに、それでも少年に対する気遣いと親しみを持って、ディアーナが訊ねた。

 アドナンは腕組みをし、吸い寄せられるように青空を見上げる。

「ただの子供だ。……不幸だが、とても強い子供」




 船長室に入ったイリアンは、扉に鍵をかけ、甲板からは見えない奥の部屋に進む。

 下着や靴まで、どうしようもないほど濡れていた。溜め息をつきながら、ゆっくりと服を脱ぐ。身に着けているものの、すべてを。

 最後の一枚を脱ぎ、素裸になる。そして、水瓶に汲んである真水に浸した布で、身体中の海水を丁寧に拭い落とす。

 大人になりきれていない、細い首と肩、長い腕。

 そして胸――見た限りではなんら変哲のない、痩せた少年の胸板。だが、手で触れてみれば気づくかもしれない。薄い肉に、ごく淡く重なる、もう一層のやわらかな肉。

 折れそうな腰から、ほとんど隆起のない下腹。その下には、いまだ目覚めを知らない少年の印と、さらにその奥、立っていては見えない秘された場所に、眠れる少女の証。

 同時に存在することのない、ふたつの性――それが、白い子供(クルスニク)として生まれ、〈土曜日生まれ〉として生きるイリアンの真実だった。

 ひとつの身体に存在するふたつの性は、十七歳となったイリアンに、まだなにももたらさない。どちらも未成熟である性は、むしろどちらの性でもないといえるかもしれない。

 ――奇蹟なのか、呪いなのか。

 イリアンには、わからない。

(どちらだって、変わらない)

 こんな形をしていても、自分はここで、生きている。いまは、それしかない。

 爪先まで拭い終えると、イリアンは新しい服を手早く身に着けた。

「……」

 着替え終えた自分の姿を眺めて、イリアンは固まった。

「おお、似合うじゃないか」

「あらあ、とっても素敵!」

 甲板に戻ったイリアンに、寄ってたかって賛辞が降り注いだ。

 襟がなく丈の短い上衣は黒の繻子で、金糸の精緻な刺繍が一面に施されている。幅広の腰帯は鮮やかな赤、これにも金糸の刺繍と金の房飾りがついている。短袴は白絹で仕立てられ、裾まわりだけ銀糸の刺繍に縁取られていた。

 どう見ても晴れ着、しかも間違いなく婚礼衣装だった。

「……わざとやりましたね、アドナン」

「わざとなもんか。おまえみたいな細っこいのに合う服は、女物以外じゃそれしかなかったのさ。花嫁衣装よりましだろ」

「うーん、もしかしたら、そっちのほうが似合うかもよ」

 ディアーナが瞳を輝かせて観賞している。イリアンは抗議を諦めた。

「そういやおまえ、依頼人に金はもらったのか」

「いただきましたよ――これを」

 純金に大粒の青玉がついたテオファネスの腕輪を取り出す。ひと目見たアドナンは、仰天した。

「こりゃあ古代イオニアの遺物だぞ。正真正銘のお宝だ。こいつひとつで軍艦一隻、商船なら三隻は買えるぜ」

「そんなに!」

 ディアーナも目を瞠る。

 ――だってさ、帝都に隠れなき〈土曜日生まれ〉のイリアンに、ただ働きさせるわけにはいかないだろ?

 そう言って笑った、片方だけの海色の瞳。

 手の中で、青い石が真昼の光を弾いて輝く。まるで、おどけて笑う青年のまなざしのように。

 奪われたはずのもう片方の瞳は、こんなところに残していったのだ。

(規定額より、多すぎますよ、テオ)

 イリアンは腕輪をそっと撫でた。

 船は錨を上げ、エーゲ海からマルマラ海へと戻って行く。

 イリアンは手すりにもたれ、海上に踊る眩い光に、目を細めた。

 顔を上げると、いくつかの小高い丘の稜線に沿って形成された市街が展開しているのが見える。

 千年の時を越えてなお圧倒的な存在感を誇る大聖堂(アヤ・ソフィア)。内陸に目を向ければ、偉大なる先帝の名において建立されたモスクの優美な尖塔(ミナーレ)が見える。その後方には、いまでも市民に豊かな水を供給し続けるイオニア人の水道橋があるはずだ。

 ぐるりと見渡せば、岬沿いに伸びる古の城壁が、愛する乙女を守る騎士のように、街を守護しているのがわかる。

 二千年の光陰に彩られた至福の都(デル・サアーデト)

 抗えない力によって、故郷から奪われた。つらく、苦しい旅路の果てに、ここにたどり着いた。失うだけ失って、なにも持たず、なにも望まなかった。

 そして、この街で、運命と出逢った。命よりも、世界よりも大切な、ただひとつの愛しい光。手が届くと思っていたのに、それが、遥か天上の輝ける星だと知ったとき、胸を貫いた痛みと絶望。

 絶望の底でも、見上げれば輝ける星があると信じて、立ち上がったわずかな希望――。

 いま自分は、不幸なのか、幸福なのか。それはまだ、わからない。答えは出ない。

 ――でもいま、わたしは、ここにいる。自分の意志で、いるのだ。

 たとえ自分を導いたのが、変えることのできない宿命の力だったとしても。

 ――まだ歩いていける。この足で、もう少し、前へ。

 街のほうから風が吹き、イリアンの白銀色の髪を乱して、吹き抜けた。

 イリアンは見えない風を追った。

 風は、清冽な青に横たわる海峡を渡り、遥か世界へ向けて開かれた海へ、流れていった。

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