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第11話 永遠の海(1)

「おーっ、すっげえいー天気じゃん! 感動のお別れにはもってこいだね、イリアンちゃん!」

 甲板からぐるりと水平線を見渡し、晴れすぎてかえって深みを増した青い空を仰いで、テオファネスは陽気に笑った。

 顔の左目部分は白い布で覆われているが、痛む素振りは見せない。完全ではないが、支えられなくても歩けるようになっている。その回復力の異様な早さについて、イリアンに思うところがないわけではないが、いまさら考えても意味はない。

 テオファネスの依頼で、アドナンは天然海竜魚(セイレーン)――人魚(セイレーン)を積み込んで船を出した。軍艦を改造した海賊船は、目立たないよう商船に偽装しているが、とにかく足が速い。皇子たちの島々(プレンズ・アダラル)から出航し、マルマラ海をアナドル側に添って進み、海峡を抜けてエーゲ海に出てから停泊した。

「……どうでもいいけど、迎えの船なんか来てないじゃない。いつまで待たせるのよ」

 甲板の手すりに、ぐったりともたれているディアーナが、不機嫌きわまりない口調で文句を垂れる。顔色がひどく悪い。

「だから陸で待っていろと言ったんだ。船酔いするくせに、勝手についてきたおまえが悪い」

 アドナンがあきれたように言った。

 いつもなら軽妙な反論を投げ返すディアーナだったが、本当に気分が悪いらしい。力なく呻いて、

「……甲板に吐いてやる」

 小さな呪いの言葉は、アドナンには届かなかった。

「迎えの船なんか来ないよ、妖艶なおねえさん」

 にっこり笑ったテオファネスは、愕然とする一同のあいだを抜けて、人魚のいる水槽に歩み寄る。

「テオ、迎えが来ないって……それでは、どうやって」

「簡単なことさ。難しく考えることなんか、ないよ」

 言うや、青年はひとりで軽々と人魚を抱え上げ、長い魚身をくねらせているそれを、無造作に手すりの向こうへ放り出した。

「わあっ!」

「おい!」

 一同が異口同音に悲鳴を上げた。

 あまりな行動に絶句してしまったイリアンに、けろりとしたテオファネスは、にっと笑って向かい合う。

「いろいろありがとう。オレ、イリアンちゃんと逢えて、ホンットに嬉しかったよ。……だから、このまま別れるなんて、ヤなんだな」

 その瞬間、なにが起こったのか、イリアンはわからなかった。ふっと身体が浮かび上がると、空を飛んで、風を感じる前に巨大な水に飲み込まれた。

「イリアン!」

 アドナンの呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、海中でもがくイリアンには、どうしようもない。海面を目指して水を掻きながら、ふと自分の腰に回される腕があることに気づく。

 首をめぐらすと、すぐ目の前に、テオファネスの顔があった。片方だけの、深い深い青の瞳。いま自分を取り巻く水の色と同じだと思ったとき、近づいた唇が、イリアンの口をふさいだ。

「――!」

 息苦しさに、逃れようとするが、青年はしっかり抱いていて離してくれない。塩辛い海水とともに口中に侵入した青年の舌が、イリアンのそれに絡みつく。

(なんだ……どうして)

 テオファネスの唇が離れた。イリアンは呆然とする。

(苦しくない。息が、できる……)

 青い瞳が、嬉しそうに揺らめき、細められる。何度も見た明るい笑顔。

(――テオ、あなたは)

 青年の両肩に、背後から白く細い腕がのびてきた。長い黒髪が海草のように波に揺れ、流れる。テオファネスに背中から抱きついた人魚は、無垢な笑みを浮かべ、イリアンを見た。

 その瞳。海の色をした透明な青――そっくりな青い宝石が、みっつ並んでイリアンを見つめていた。

(あなたは……あなたたちは)

 人魚は珊瑚色の唇を、同じ色をしたテオファネスの唇に重ねた。テオファネスは人魚を抱きしめる。人魚の海蛇に似た魚身が、青年の身体にぐるりと巻きついた。

 大きな尾鰭が水を掻き、無数の気泡を起こして、イリアンを包み込む。

 気泡の膜の外側で、絡みあった人魚と青年は、海中をすべるように泳ぎ、去った。

「……イリアン!」

 海面に浮上したイリアンは、頭上の甲板から、心配そうな顔がいくつも突き出しているのを見つけた。それらに手を振る。甲板から縄梯子が投げ下ろされた。

「大丈夫か。あの野郎、いきなりおまえを抱き上げて、そのまま一緒にどぼん、だ」

「とっさのことで、抵抗もできませんでした」

 渋い顔のアドナンに、イリアンは苦笑を返す。

「それで、あいつはどうした」

「――帰りました」

 人魚と泳ぎ去った青年の様子を、皆に説明する。

「なんだと、あいつも人魚だったのか!」

 甲板に驚きの声が広がる。

「そのようですね。たぶん彼は、人魚……海妖を統べる一族の者なのです」

 自分のことを、亡国の王子だと言った。彼の一族は、戦役や乱獲で海洋を荒らす人間のために、滅びようとしている。

 それを食い止めるために。太古から続く神話の血筋を絶やさないために、彼らは重大な役目を担ったのだ。一族の存続の、最後の砦としての。

 ――彼が失った、美しい海の瞳。きっとそれを受け継ぐものが、生まれるのだろう。

 その瞳を、イリアンが見つめ返すことは、決してないのだろう。

「イリアン、おまえ、あいつが人魚だと知っていたのか」

「いえ。でも、初めてお会いしたときから、人ではない気がしていたので」

「人じゃないと思ったのに、依頼を受けたってか」

「依頼人の出自は、基本的に問いませんから」

 アドナンが顎を落とした。

「……おまえも、尻尾か角か鰭くらい、持ってんじゃないのか」

 イリアンは答えず、微笑する。

 海風が吹き込み、イリアンのずぶ濡れの身体を通り抜けた。小さなくしゃみが、立て続けに二回、出る。

「そのままじゃ風邪引くぞ。着替えをやるから、下で替えてこい」

 アドナンは部下に指示し、服を持ってこさせる。イリアンは礼を述べて、船室に向かった。

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