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第10話 楽園の痕(1)

「――ピントの私兵は天然海竜魚(かいりゅうぎょ)の奪還に失敗。壊滅は免れましたが、相当の打撃を被る結果となりました」

 灯りを消したままの寝室。リュステムは寝台の上に半身を起こし、部下の報告を聞いている。天蓋付きの寝台は紗幕に覆われており、外側にいる部下の姿は見えない。

「伝令はナクソス島へ向かいました。ピントが部下の失態を知るのは、一両日中のこととなりましょう」

「……では、あの者が帝都に戻るのは、明後日になるな。――十分な時間だ」

 リュステムは笑み、寝乱れた黒髪をかき上げる。

「それから、〈土曜日に生まれた者〉より、言付かってまいりました」

「〈土曜日に生まれた者〉から?」

「帝国に仇為すつもりはない、と」

「そうか……」

 吐息とともに答え、目を閉じる。

「御苦労だった。下がってよい」

「……例のものは、いかがいたしましょう。御命令とあらば、人知れず奥宮に戻すよう計らいますが」

「その必要はない。なにもせず、このまま捨てておけ」

「それで、よろしゅうございますか」

「かまわぬ。目の色を変えるほどの代物でもない」

「――承知いたしました」

 紗幕の向こうから、気配が消える。

 リュステムは室内靴を履き、寝台を下りる。紗幕を開け、窓辺に寄って、張り出しの飾り窓を開けた。

 薄藍に、紫の雲がひと刷毛のびる、黎明の空。潮の匂いのする冷たい微風が、温んだ寝室に流れ込んでくる。

「帝国に、仇為すつもりはない……か」

 伝言を反芻し、微笑する。

「わかっているよ。わたしの美しい養い子。十字架を背負い続ける宿命の子供よ」

 特異な出生と並外れた容姿によって、愛されるより忌み嫌われた哀れな子供。奴隷市場でひと目見るなり、すぐにその異才に気がついた。

 聡明で思慮深く、感情よりも理性で動くことができる性質。その芯は、愛情に敏感で激しいまでに一途。――理想の存在だった。

 その稀有な存在を、些細な理由で手放すことになったのは、リュステムにとっても痛手だった。なるほど、確かにあれは不吉な白い子供(クルスニク)で、邸に起こった怪異の元凶であったかもしれない。だがそんなことよりも、あれが将来、自分の片腕となり得る素質を持った逸材であったということのほうが、はるかに重要だった。

 しかしリュステムは、図抜けた個より横並びの群を選んだ。目的を達するためには、より多くの剣、多くの獣が必要なのだ。いくら光輝ける宝石であっても、たったひとつしかないのであれば、失ったあとは終わりだ。

(……なのに、未練だな。追い出しておきながら、思い切ることができないとは)

 リュステムは自嘲の笑みを洩らす。

 同郷出身の司祭に預けたのちも、リュステムは多忙な時間の隙間を見つけては、養い子を訪ねた。会って、他愛もない日常のことを話すだけだったが、子供はとても嬉しそうだった。

 彼が職能者としての修業を始めたときには、わざわざバルカンの領地から、魔性を見つける能力を持つという四つ目の犬――両目の上に斑点のある犬――の仔犬を捜し、与えてやった。子供は狂喜し、仔犬に故郷の守護聖人の名をつけ、兄弟のように愛した。

 そのようにリュステムは、子供の心が自分から離れていかないよう、気を配った。宰相職についてから、前にも増して多忙となったため、訪問が間遠になったのは否めない。最後に会ったのは一年前、ミルコヴィッチ師の葬儀の日だっただろうか。

 それでもリュステムに不安はない。かの子供は、いまなお自分を慕い続けている。むしろ離れて暮らしてからのほうが、想いが強く激しくなっているようだ。

(それでこそ、だ。わたしの愛しい獣よ)

「……いまはひとりで、その牙を磨くがよい。わたしのためにある命と思っているなら、孤独な時間も至福の瞬間となろう」

 詠うように呟いて、低く笑う。

 リュステムは満足していた。かの子供が、目障りなハブルの手から天然海竜魚を奪った、その手際に。

 無能な皇帝に、雌の天然海竜魚のもたらす不老不死の幻想を吹き込んだのは、リュステムだった。俗物の皇帝を堕落させ、掌中に収めたのちは、天然海竜魚の奇蹟を盾に、欧州(ルメリ)列強と取引することを目論んでいた。

 その矢先、天然海竜魚は宮殿(サライ)から姿を消した。海竜魚の養殖を研究していたゲルマニア人が盗み出したとわかったときには、すでに闇の市場に売り払われたあとだった。

 国宝を失った大宰相は、血眼になってその行方を追った。

 一方リュステムは、思惑が外れたにも関わらず、捜索に熱心ではなかった。

(あの酔いどれ(サルホシュ)を籠絡するのに難はない。本物の天然海竜魚がなくとも、いくらでも言いくるめる手はある)

 奇蹟は偽物であってもかまわない。重要なのは、相手にそう思い込ませることだ。そもそもリュステムは、奇蹟など信じていないのだ。

 だから、養い子の介入を妨げはしなかった。かの子供の助け手に、かつて兄と呼んでいた男がいたのも、想定の範囲内だ。

(――大したことではない。あの男が出てこようとも)

 窓枠にかけた指先に、力がこもる。吐息とともに、ゆるゆる吐き出される、遠い記憶。

 一緒に逃げよう、と言った。

 あの夜、内廷の小姓(オウラン)の居住棟で。まだ少年だった、あの男。それよりさらに幼かった、自分。

 故郷の村から徴集され、ともに帝都にやって来た。腹違いのためか、正反対の適正によって選別され、あの男は新軍(イェニチェリ)の予備軍に、自分は皇帝の小姓(オウラン)となった。

 規律を守るということが性に合わないあの男は、脱走を計画した。そして、弟である自分を誘いに来た。

 行かない、と答えた。そのときの、あの男の表情。

(なぜ、そんな哀しそうな顔をする? いまさらなにを期待していたのだ)

 同じ男の種から生まれた兄弟。それが誇らしかった時期もある。村の子供たちの主導的存在だった彼は、いつも小さな弟を守っていた。

(そう、あのときも、そうだった。弟を守るために、彼女を見殺しにした――)

 少年を徴集するために訪れたユルドゥルム常備軍の兵士たち。初めこそ軍紀に従っていたが、滞在が長引くにつれ、次第に乱れ始めた。

 勝手に村人の家に入り込んでは飲み食い散らかし、逆らえば容赦なく暴力を振るう。嫌がる若い娘を追いまわし、白昼堂々と悪さをする。親たちは為すすべもなく、不運な娘を抱きしめて、ともに泣くしかできなかった。

 やがて連中は目をつけた。村一番の美人と評判の娘。やさしい栗色の髪のレンディータ。彼を産んだ母の妹。早世した母親の代わりに、兄弟を慈しみ愛してくれた。

 最も美しく可憐な彼女を、ユルドゥルム兵が見逃すはずはなかった。

 夜更けになっても帰宅しない彼女を心配し、兄弟は危険を覚悟で捜しに出かけた。そして、村外れの森の中で、目撃したのだ。

 悪魔たちが、彼女を食らうさまを。

 逆上してどうしようもなくなった弟は、彼女を助けに飛び出そうとした。幼い自分が、屈強な兵士たちに敵うはずなどない――そんなことは考えもしなかった。

 兄の手が、それを止めた。潜んでいた木立の陰で、兄は弟の口をふさぎ、身体を押さえて拘束した。

 弟を守るために。

 代わりに彼女は見捨てられた。 

 あのとき飛び出していれば、兄弟は間違いなく殺されていただろう。だが、それでもよかった。

 必要なのは、彼女を守ろうとすること。命を懸けても彼女を助けようとする者がいるのだと、彼女に教えてあげるべきだったのだ。

 ――哀れなレンディータ。たったひとりで、冷酷な夜に沈められた娘。

 繊細な娘には、悪魔の烙印が刻まれた生を、それ以上続けることはできなかった。

 誰よりもなによりも大切なひと。幼い自分の命より大切だったのに。

 あの日以来、弟は兄を拒絶した。

 冷たい憎しみが、絶対帝国への憎悪と怨念に変わるまで、時間はかからなかった。

(――昔話だ。夢に見てうなされることもない)

 いまはもう、兄には恨みも憎しみもない。強大な国家の前では、個人に対する感情など、塵芥に等しい。

 だからリュステムは、兄を切り捨てた。自分の生きる、すべての世界から。

「……それでもまだ、わたしの前を羽虫のように飛び回るというのなら――覚悟するがいい」

 無法者となり下がった者、権力欲に支配された者、暗愚な傀儡に過ぎない者。

(いずれまとめて、始末をつける。踊らせる舞台はひとつではないし、動かせる手駒も十分にあるのだから)

「とりあえずは、天然海竜魚盗難の顛末を、大宰相閣下にご報告するとしようか」

 夜明けの礼拝を告げる朗誦(エザーン)が、目覚めた帝都に響き渡る。

 モスクの円蓋が朝日に照らされ、黄金色に輝くさまを眺めながら、リュステムはゆるやかに笑った。

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