第1話 月を喰う者(2)
「〈土曜日生まれ〉のイリアンってヒトの家は、ここ?」
陽気な男の声が響く。
イリアンは聖堂の床を掃く手を止め、開け放してあった扉を見た。
暮れかけた秋の日差しを背に、男の影が立っている。
「そうです。あなたは」
箒を脇によけ、質素な黒い僧服の埃を払い、イリアンは男と対峙した。
「〈土曜日生まれ〉のヒトの力を借りたくってさあ。いるの?」
軽薄そうな口調の主は、まだ二十歳をひとつふたつ過ぎたばかりの青年だった。
黒髪のゆるやかな巻き毛に、海のような深い青の瞳。テュルク人ではない。地中海沿岸のイオニアか、イリアンと同じバルカンの者のようだ。整った顔立ちだが、人を食ったようなにやにや笑いが、それをどこか外している。
上質の衣裳は光沢のある水色の絹、左手首には大粒の青玉がついた金の腕輪をはめているのが、道楽に慣れた洒落者らしく見せる。
「お話を伺いましょう。――どうぞ、お掛けください」
イリアンは青年に長椅子を指し示した。
しかし青年は、固まったように動かない。見開いたまなざしが、イリアンを注視している。
「詳細を伺いたいので、お座りください」
「……すっげぇ、ちょー可愛い!」
「……は?」
イリアンが相手の言葉を咀嚼するより早く、目の前に大股に進んできた青年は、同じくらいの背丈のイリアンの顔を至近距離で凝視する。
「キミ、名前は? いくつ? ここで働いてんの? いやあ、めんどくさいお使い押しつけられて嫌々来たけど、キミみたいな綺麗なコと出逢えるなんて、ホント、オレって強運! やっぱ、日頃の行いがいいせいかなあ」
放っておけば、いつまででも喋り続けそうだ。
「いくら一族で一番若造だからって、ジジイ連中が気軽にこき使ってくれちゃってさあ。オレ、こんな怪しげなところ、来たくなかったんだよ。〈土曜日生まれ〉のイリアンって、なんか吸血鬼とか退治するヤツなんだろ? そんなヤバめの胡散臭いヤツに一族の大事を任せるなんて、信じんらんねぇ。あ、キミは別だよ! キミ、ホンットに可愛いよなあ」
「……わたしが〈土曜日生まれ〉のイリアンです」
頬ずりせんばかりに近づいた青年の顔から離れ、イリアンはようやく口を挟むことができた。
「はい?」
「わたしが、吸血鬼とか退治するヤバめの胡散臭い土曜日生まれのイリアンです」
「げげっ」
青年は大げさに飛び退いた。
「キ、キミが、〈土曜日生まれ〉のイリアン……? だって、イリアンって、男だって」
「間違いではありません。脱いでお見せするわけにはまいりませんが」
イリアンはさらりと肯定する。この手の反応には慣れている。
人は初めてイリアンと会ったとき、程度の差こそあるものの、まず間違いなく呆然とする。彼の容姿に驚き、見惚れるのだ。それは、老若男女民族宗教を問わないものらしい。
イリアンは、欧州はバルカン出身のセルボ人である。
陰りのないなめらかな白い肌。真冬の月光に似た白銀色が、ゆるやかに波打つ髪。光に透けると金色に見える、淡い菫色の瞳。
手足が長く、背は高い方だが、肢体は細い。知人いわく「男にしては華奢すぎるが、女にするには丸みが足りない」そうだ。十七という年齢を考えれば、仕方ないのだろうが。
彼は容貌についての賛辞を受けることが多い。あわせて老若男女民族宗教問わずして、恋の告白やら愛の囁きやら情欲の口説きやらを賜ることも、少なくない。
かつて故郷での彼は、その稀有な姿形のため、愛されるよりむしろ怖れられ、忌み嫌われていた。他の者と格段に隔たっているということは、村という共同体では異質であり、薄気味の悪い存在でしかなかった。この街に来るまで、彼は自分を、悪魔のようにおぞましく、醜いものと思い込んでいた。
麗貌だと、人は評する。ならばそうなのだろうと、彼は思う。思いはするが、彼にとって自分の容姿などは、大した問題ではなかった。
だから、人が彼を見たときに示す反応は、彼が自身を客観視するのに多少役には立つものの、それ以上でも以下でもない。
「きみが……ホントに」
うつむいて、ぼそぼそと消えそうな声で客の青年は繰り返す。それほど衝撃だったのだろうか。
「――」
「なんでしょう?」
青年の言葉が聞き取れなかったため、イリアンは聞き返す。
青年は、がば、と面を上げ、
「いいよな、男のコでも!」
それに、どう答えろと言うのだろう。
(妙な客人だな。調子が狂う)
祭壇前の通路を挟んで、イリアンはようやく青年と向かい合って坐ることができた。
「こうやってあらためて見ると、女のコか男のコかなんて、大した問題じゃないような気がするな。うん、全然問題ない!」
青年は何度も頷きながら、嬉しそうにイリアンを観賞している。
「どのようなご依頼でしょう」
「うーん、声もいいよねぇ。まったく濁りがないし、耳の奥を優しくくすぐるような、ちょっと切ない感じがまたなんとも」
「冷やかしでしたら、お引き取り願います」
さすがに疲れたイリアンが、突き放すように言った。
「おお、忘れてたぜ」
青年は、はたと手を打った。本気で忘れていたのかもしれない。
「セイレーンを知ってる?」
唐突に出てきた単語に、イリアンは少し意表をつかれたが、すぐに頷く。
「もちろん、存じております。近頃は少し減りましたが、鮮魚や乾物を扱う大抵の市場では、容易に手に入ります」
セイレーン――海竜魚とは、食用魚のひとつである。ジュゴンと呼ばれる海獣に酷似しているが、帝国周辺の黒海や地中海沿岸地域で、もっぱら食用とされているものは、全身を小さな鱗で覆われた魚類だ。鳴き声が甘えた猫のようであるため、伝説の海の精霊にちなんで、セイレーンとも呼ばれる。海竜魚の肉は滋養強壮に効果があるとされ、帝国では富裕層にも庶民にも人気の食材である。
現在常食されている海竜魚は、すべて養殖ものだった。初めて海竜魚を食べた欧州が、その美味なるのに驚き、競って乱獲を始めた。天然の海竜魚は、急激にその数を減らし、絶滅の危機に瀕した。
重宝な食材の確保を目指した皇帝は、人材を募って養殖の研究を始めた。そしてゲルマニア人医師とデンマーク人の水産業者によって、世界で初めて海竜魚の養殖に成功した。いまから二十年前のことである。
もともと希少種だった天然海竜魚の雌は、養殖の成功より遡ること三十年前に絶滅と見なされ、雄も現在は帝国保護領海に数頭を残すのみとなっていた。
「早朝、ガラタの波止場近くの市場でお求めになるとよいでしょう。黒海産の良質なものが手に入る」
「違う違う。そんな紛いもんのほうじゃなくて」
青年はわずかに不快げに手を振った。
「天然のセイレーンの雌が、いま、この街いるんだ」
「……天然海竜魚の、雌、ですか」
イリアンは青年の言葉を反復した。青年は黙って頷く。口をつぐんでいると、充分端正な面貌なのだが。
「雌の天然海竜魚は、五十年前に絶滅したと伝え聞いております」
「その伝聞は間違っちゃいねえけどな。オレらんとこにいた、その雌が、最後の生き残りだから」
「あなたがたのもとに……では、いま帝都にいるとおっしゃるのは」
「オレらんとこから、奪われたってこと」
先ほどまでの脳天気な表情がなりをひそめ、声の音階も落ちる。海色の瞳が、深度を増したように濃くなった。
「オレの一族はさ、もう伝説になるくらい長いあいだ、セイレーンを守ってきたんだ。なのに最近のやたらな乱獲で、いまや絶滅の危機。オレら一族にとっても、存亡の危機なんだよね。最後の雌のセイレーンは、まさに一族の命綱ってわけ」
目の上に落ちかかる前髪をかき上げ、青年は探るようにイリアンを見る。
「そんなときに、一族ん中の不心得もんが、こっそり外国の商人に売っ飛ばしたんだよ。ハシタ金に目ぇ眩ませちゃってさあ。真っ当にやってたほうは、ホントいい迷惑なんだよねー」
口調はあくまで軽薄だが、まなざしはもう笑っていなかった。
(五十年前に絶滅したはずの天然海竜魚の雌が、この帝都にいる?)
そういうことも、あるのだろうか。可能性を考えるにしては、半世紀とは微妙な歳月ではある。幻の天然海竜魚、さらに稀少種の雌。もしそれが生存していたら、確かに相当な値打ちだろう。
海竜魚は雌雄同体で、稚魚のうちは性が未分化である。雄として成熟し、そのうちの身体の大きな個体が雌に性転換し、卵胎生で繁殖する。だが、なぜか雌として成熟できる個体は圧倒的に少ない。群れとして見れば大多数が雄だ。
その代わり、雌となった個体の寿命は長く、生殖可能期間も長い。養殖はこの特性を最大限に生かすことによって成功したといわれる。
天然海竜魚は養殖海竜魚より寿命が長い。しかも希少種の雌の生は、格段に長いと伝えられる。
「……セイレーンの雌が狩られまくったのは、単に美味いとか、希少価値が高いとかってだけじゃないんだよね」
それまで、だらしなく斜めに傾いて坐っていた青年は、姿勢を直し、果てない海原のような双眸をイリアンに向けた。
「天然のセイレーンの雌は、その肉を食べたヒトに、不老不死の生命をもたらすんだ」
瞬間、青年の言葉の意味がわからず、イリアンは呆けた。
「いま……なんと」
「だから、ヒトが天然のセイレーンの肉を食べると、不老不死になるんだよ。もれなく全員がなれるってわけじゃないけどね。適性ってのがあるし。当たりのヒトは、なれるって、ジジイ連中が言ってたよ。キミたちはそういうの、奇蹟とかって呼ぶんだろ」
「……まさか、そんなことが」
「マジマジ、大マジ。だから、みんな欲しがっちゃって、大変なんだよねぇ。教皇も、国王も、皇帝も例外なし。セイレーンの雌を追い求めるヒトビトは、みんなそのこと知ってるからさあ。キミたちの王様もそうだよ。聞いたことない?」
くだけた言葉とは裏腹、海の深淵を覗くような青い瞳が、イリアンを捕らえ、射すくめる。イリアンは引き込まれるような錯覚に陥った。
(――信じられない)
不老不死の奇蹟。
そんな夢のような話が、起こり得るのだろうか。
客の青年の表情は、いま、止まっている。なにを考えているのか読み取ることはできないが、嘘偽りを並べているようにも見えない。自信や確信があるというのとも異なる。ただ、当然の事実を、当然のように述べているだけ――。
「本当、なのですか」
「嘘言ったって、オレになんの得もないじゃん」
それはそうかも知れない。とりあえず納得が胸に落ちて、イリアンは小さく頷く。
「それで……わたしに、なにをご依頼でしょうか」
青年は語調だけは軽快に、はっきりと答えた。
「盗られたセイレーンの雌を、取り戻してくんない?」
「……は?」
「一族の存亡に、〈土曜日生まれ〉のイリアンちゃんの手を、貸して欲しいのよ。うん」
「いえ……いえ、待ってください」
予想外の依頼に、イリアンは少し戸惑った。
「失礼ですが、わたしが〈土曜日生まれ〉と呼ばれる理由を、ご存知でいらっしゃいますか」
「土曜日に生まれたヒトは、魔性をやっつける能力があるって聞いたけどぉ。特にキミは、ほかのヒトより破格の異能の才があるって評判よ」
「……ご存知のようで、なによりです」
小さく溜め息。
「ならば、ご理解いただきたく存じます。わたしの仕事は、起きあがる死者を再び眠らせたり、悪いまじないから身を防御したり、邪眼を避けたりする術を施すことです。奪われた人や物を取り戻す仕事ではありません」
断ったが、青年は一向に気にしたふうがない。涼しい顔で、また少しずつ上体が斜めにかしいでくる。
「この街には、そういったことを専門に請け負う者もおります。ご紹介して差し上げても」
「ほかのヒトじゃ、だめなんだよ」
青年はやわらかい語調ながら、はっきりと否定した。
「〈土曜日生まれ〉のイリアンちゃんでなきゃだめ! って厳命されてきたんだもん。断られたら、オレ、ジジイたちに殺されちゃう」
「なぜ、わたしでなければならないのです」
「キミが、この国で一番、無欲だからって」
不意打ちを食らって、イリアンは瞬いた。
「セイレーンの雌の不老不死の力って、ヒトにとってすんごい誘惑でしょ。野心とか欲望の的じゃない。その奇蹟を目の当たりにしてさあ、誘惑に負けて、オレらを裏切ったりしないっつう確信があるヒトじゃないと、お任せできないんだよ。なんたって一族の命運を決する一大事だしさ」
「……わたしなら、誘惑に負けることはない、と?」
「会ってみて分かったけど、キミは、そんな油っぽい欲とは無縁に見えんだよね。なんか、関心がないっていうか」
なめらかに答える青年に、イリアンはわずかに肩をすくめた。
「おっしゃるとおりです。わたしには、その奇蹟は興味がない。――それにしても、ずいぶんと過大な評価をしていただいているようですね」
「評価じゃないよう。ホントのことを言ってるだけだよう。世辞じゃなくってさ」
「……それは……どうも」
褒められているのか、信用されているのか。どうやら、そういう温かみのある理由ではないらしい。
では、見透かされているのか。イリアンはいままでにない居心地の悪さを感じた。
確かに彼は、世俗の快楽には興味がなかった。
僧服を身に着けているものの正式な聖職者ではなく、修行しているわけでもない。努めて禁欲的な生活をしているつもりもないのだが、あえて外す羽目もない。仕事で得る報酬は、ひとりと一匹が生活するのに充分であれば、余剰はいらない。
(そう、ほかにはなにもいらない。ただひとつ、それさえあれば)
それを想うとき、胸にひろがるのは、熱の疼き。切なくて、苦しくて、灼けるように甘い――。
「じゃあ、契約成立だね?」
すかんと抜けた明るい声に夢想を破られ、イリアンははっとした。
「いえ……やはりそれは、わたしの仕事ではありません」
「セイレーンを隠してんの、ナクソス公爵なんだよね」
突然表れた名前が、彼を打った。
「ナクソス公……ホルグ・ピントですか」
「そうそう」
急に冷たくなった指先を、イリアンは握りしめる。鼓動が早くなるのを鎮めようと、深く息をついた。
――ナクソス公ホルグ・ピント。
「――お受けいたしましょう」
イリアンは決然と目を上げた。
「やったあ! やっぱ、可愛い夜鳴き鶯ちゃんは顔だけじゃなくって心も優しいねえ。オレ、感激しちゃったよ。ちゅーしたくなっちゃった」
(夜鳴き鶯ちゃん……)
それは初めての呼称だった。
「……とりあえず、方法を検討させてください」
差し伸べられた手をさりげなく払い、暗に帰れと言ってみる。ごねるかと思いきや、青年はあっさり腰を上げた。
「そ。じゃ、オレ帰るわ。また近いうち来るよ。ホントはイリアンちゃんとこに泊まりたいんだけど」
「うちに宿坊はありません。――そういえば、まだお名前を伺っておりませんでした」
「ああ、そうだっけ? ごめんごめん。オレ、テオファネスってんだ。夜鳴き鶯ちゃんには、親しみを込めてテオって呼んで欲しいなあ」
「そうですか。テオファネスさんですね。では、またのちほど」
素っ気なく切り返し、扉口まで送ろうとする。と、青年は同じ高さの視線で、覗き込むようにイリアンを見つめた。
「もうひとつ、内緒の話があるんだけど、聞きたい?」
「ご依頼に関係あるお話なら」
「あるっちゃ、あるかな。……実はオレさ」
青年はイリアンの耳元に口を寄せ、素早く言葉をすべり込ませる。
「なにを隠そう、亡国の王子さまなんだよね」






