第9話 闇より生まれ出しもの(1)
控えめに燈火を点した婦人部屋で、ディアーナはひとり弦楽器を奏でている。
昨夜、イリアンとアドナンがピントの邸宅から天然海竜魚を奪った。
邸宅守備の私兵の注意を逸らす役目を果たしたディアーナは、娼婦たちを娼館に帰した後、ひとりこの島にやって来た。
そして、目撃した。幻の雌の天然海竜魚。その、秘せられていた正体を。
「相変わらず達者だな。ハレム仕込みは伊達じゃないか」
いつ現れたのか、戸口にアドナンが立っていた。
「勝手に聴かないでよ。金も払わないくせに」
「風に乗って流れてきたのさ」
アドナンは了承も得ず婦人部屋に入り、ディアーナと向かい合って坐る。
ディアーナは男を黙殺する。指は弦から離れない。
「いつまでいらいらしているんだ」
「いらいらなんて、していないわ」
「しているさ。――人魚を見てから、ずっとだ」
びぃん、と音を外して弦が鳴る。
「馬鹿馬鹿しいぜ、意識するなんて。あれがいくら美しいったって、しょせん魚じゃねえか。おれは、二本足の女のほうが、はるかにそそられるな」
「ふん。守備範囲の広い女好きの見解なんか、参考になるものですか」
自嘲気味にディアーナは鼻を鳴らす。
「あれが、魚だって言うの? 食用にされる下等な獣だって言うの、あれが、あんな形をしたものが」
ディアーナは弦楽器を脇に除けた。
「あんなに美しい女、ハレムにだっていなかった」
上目に男を睨む。挑むように、唇を噛んで。
「悔しいのは、美しいからじゃない。あれが人間の女で、ハレムにいたとしても、意識なんてしなかったわ。最初から張り合う気なんて、起きないもの」
「なら、なんでいまは悔しいんだ」
「二本足じゃないからよ」
腹立ち紛れに、ぷいとそっぽを向く。
後ろから、アドナンが抱きすくめた。
「……なんのつもり」
「言っただろう。おれは二本足の女のほうが、そそられるって」
アドナンはディアーナを絨毯の上に仰向けに倒した。
「あなたとわたしは、とっくに終わったものと思っていたけど」
「昔の味が懐かしくなることだって、あるのさ」
笑みながら、アドナンはディアーナに口づける。
睨みをきかせた仏頂面のままのディアーナは、それでも逆らわず、男の背中に腕を回した。
「……あ、痛て」
「すみません。少し我慢してください」
イリアンは長椅子に寝ているテオファネスの顔に薬を塗っている。
眼球をえぐり取られた左目は、乾いた血で目蓋が貼りついてしまい、洗い流すのに苦労した。背中に鞭打たれた傷は縦横に走って皮膚をえぐり、両手の指は十指すべて折られている。それ以外にも、全身に痣や打撲が残っていた。
ピントの邸で発見したときには、青年は死に瀕しているように見えた。アドナンもそう感じていた。
(傷の回復が早すぎる)
まだ一夜も経っていない。それなのに、鞭の傷跡には皮膚が盛り始めている。なにより、これだけ痛めつけられた当の本人が、つぶれていない。
「イリアンちゃん、腹減った」
「手当が済んだら食事をお持ちしますので、もう少し待っていてください」
「血がいっぱい流れたからさあ、肉が食いたいなあ。イリアンちゃん食べさせてくれるんでしょ? オレ、ほら、手がこんなんだし」
「……」
テオファネスは添え木を当てて包帯を巻かれた両手を、これ見よがしに差し出した。
「さっき水飲ませてくれた妖艶な美人のおねえさん、感動的なくらい深ぁい胸の谷間だったけど、オレ、愛しいイリアンちゃんに介抱してほしいんだよなあ」
弱弱しい声は、演技なのか本当なのか。気のせいかイリアンは頭痛を覚えた。
長椅子の下に伏せているサヴァは、最初から我関せずで、眠ったふりを決め込んでいる。ちなみに、感動的な深い谷間の胸を持つ妖艶な美女とは、ディアーナのことだ。
話があらぬ方向へ流れる前に、イリアンは本題に入ることにした。
「あなたのおっしゃる海竜魚が、あんな生き物だとは、思いも寄りませんでした」
「オレ、ちゃんと人魚って言ってたよ。イリアンちゃん、違うの想像してたんでしょ。ヒトが養殖したっていう、紛い物のほう」
「はい……その通りです」
気恥ずかしくなり、うつむく。確かに、あのときテオファネスは、紛い物じゃないほうだと断らなかったか。
根強い先入観の枠から出られなかった自分の想像力の貧しさが、職能者として情けなかった。
「気にすることないよう。いま生きているフツーのヒトビトは、あんなの見たことないんだから。それに、紛い物のほうは本物と似ても似つかない形になっているしね」
養殖海竜魚が、ジュゴンに酷似した形の魚類であることは間違いないのだ。
「でも……百年くらい前までは、地中海や黒海で、当たり前に存在していたのでしょう? ……それも、なんだか、不思議で」
奇蹟のように優美な人魚の姿。神の手になるこの世の造形の中でも、一、二を争う美しさではないだろうか。
「なにも不思議じゃないよ。あれは昔から存在している生き物だ。キミたちの救い主が生まれるより、はるかに遠い昔からね。ヒトが街を築くより、古いと思うよ」
それは、太古の昔から存在するということか。もしかしたら、人の歴史より古いという意味かもしれない。
(――ああ、そういうことなのか)
心の奥にわだかまっていた、海竜魚への違和感。少しずつ、揺らぎ始める。
「……んなわけで、キミたちのカミサマの枠にはめられちゃうと、歪んじゃうんだよね。悪魔だか蛇だか知んないけど、オレらそんなの、ないし。奇蹟なんて言葉すらないよ。……だからさ、わけわかんない理屈で一方的に狩られて滅びるのって、すげえ納得いかねえの」
ひとつしかない青いまなざしが、表情豊かにひらめく。いつも陽気に輝いている、晴天の海の色。
「ヒトビトは知らないかもしんないけど、ほかにも色んな生き物がいるよ。ヒトと形が違ってたって、ちっとも不思議じゃない。オレには、死んだヤツが起き上がって帰ってくるってほうが、よっぽど異常だと思えるよ」
「……そうですね。本当に、そうだと思います」
テオファネスの言葉が、すっと素直に心に落ちた。
奇蹟ではない。呪いでもない。人魚は人魚として、この世に存在する。人間がいても、いなくても、雌の人魚の内なる力は、変わらず存在し続ける。理由などない。
――すべては、あるがままでしかないのだ。
ずっと探していた小さな欠片が、空白にぴたりと収まる。ようやく完璧な一枚の絵が仕上がった。
それを抱きしめるように、イリアンは微笑する。
笑うしかなかった。
テオファネスに、色々な意味で苦労して食事を取らせたあと、サヴァに護衛を頼み、イリアンは人魚の洞窟へ行った。
「お疲れさまです」
見張りの海賊たちをねぎらい、生簀を覗く。
水底で眠っているのか、人魚の姿は見えない。松明の照り返しで、ときおり海面がきらめくのは、細波なのか、銀の鱗なのか。
(――あなたは、何者なのですか)
心の中で発した問いは、人魚に向けると同時に、奇妙な依頼人にも向けたものだった。
驚異的な回復力。親しみ全開であるかのように思わせながら、厳然とした境界線を守っている言動。隔たった価値観。
(でも、訊けない。訊くわけにはいかない)
それは、イリアンが守っている、仕事上の鉄則だから。相手の秘密を問うのなら、自分の秘密も明かさなければならない。でなければ公平ではない。
(知る必要はない。もうすぐ、この依頼も終わるのだから)
見張りの海賊に一礼し、イリアンは洞窟を出る。
外はすっかり夜だった。暗い海が、膨大な生命力のうねりをもって押し寄せ、すべてを奪って引き戻す。
月が出ていた。満月まで、あと一日となる月が。




