第8話 聖なる鱗(3)
夜明け近くまで漕ぎ、船はようやく岸に着いた。
砂浜と珊瑚礁に囲まれた島は、内陸に向けて小高い丘になっており、深い緑の松に覆われている。
上陸したときには、黎明の清涼な空気が満ち始め、浜辺に淡い闇が打ち寄せていた。
「やっと着いたか。時間食ったな。官憲に捕まったかと思ったぞ」
岸辺に立っていたのは、長身の黒人の男。年齢は四十代半ば、思慮深い顔立ちに知性を感じさせる双眸を備えている。四肢は細いが、時間をかけてじっくり鍛錬した筋肉がついており、敏捷な猫科の獣を連想させる。
出迎えた黒人の男を、アドナンはじろりと横目に睨み、
「捕まっても、助けにくる気なんか、ないんだろうな」
「当たり前だ。ひとり捕まったくらいで、全員の命を危険に晒せるか。首領なら、自分の首級ひとつで部下の命すべてを購ってみろ」
二十歳近くも年下の頭目に向かって、黒人の男はきっぱり言い放つ。アドナンは広い肩をすくめ、イリアンに目配せした。
「ご無沙汰しております、ハーミド。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「イリアンか。息災でなによりだ。こいつは最近、運動不足だから、好きなように使ってやってくれ」
強い瞳をふっと和らげ、ハーミドという海賊の副官は、若い首領を顎で示した。
「まだそう簡単に鈍る歳じゃねえぞ」
小声でぶつぶつ反論するアドナンに、イリアンはかすかに笑う。
ハーミドは、脱走兵だった少年を見込んで自分の後継とした先代の首領の副官だった。先代から、教師として若い頭目を指導してやってほしいと頼まれた副官は、当代でも二番目の立場を守り、先代の遺言通り教え子をびしびし教育したらしい。
だからアドナンは、とうに少年でなくなったいまでも、この有能な副官に頭が上がらないのだ。
「おい、なに便乗して笑ってやがる。とっとと獲物を運べ」
イリアンと同じように笑っていた部下たちが、叱咤を受けて、慌てて走り回った。
海賊たちが駆け寄るあいだを抜けて、黒い塊が疾風のように飛び出してきた。
「サヴァ!」
イリアンが両腕を広げて相棒を迎え入れる。嬉しそうに突進した犬は、主人の腕の中で、ちぎれそうなほど尻尾を振った。
「ケガ人は館に寝かせろ。天然海竜魚は、〈海月の寝床〉だ」
アドナンの指示に、ふたりの部下が簡易な担架にテオファネスを乗せ、古く重厚な造りの館へと運び込んだ。
残った部下たちは、天然海竜魚――人魚の露出した下半身を濡らした布で包み、数人がかりで持ち上げる。そして入り江をぐるりと巡った。
(――洞窟がある)
入り江の端、珊瑚礁の切れ間に、ぽっかりと開いた洞窟があった。中に入り、松明に照らし出された天然岩の天井を振り仰ぐ。
(まったくの自然のものじゃない。人が手を加えた跡がある)
岩壁を撫でながら顔を寄せる。観察するイリアンに気づいたのか、アドナンが近くの岩壁をこつこつ叩いた。
「昔このあたりを支配していたイオニア人が、水牢に使っていたんだ。まだ十分使えるぜ」
言いながら岩壁の一部に触れると、天井から鉄柵が下り、水面に突き刺さった。
「どうしてこんな島に水牢を」
「イオニア人の皇帝たちは、自分らの権力の座を守るため、危険と見なした聖職者や皇子を、妻子ともどもこの辺りの島々に流刑にしたのさ。二度と帝都に戻れないよう、目を潰し、手足を切り落としてな」
皇子たちの島々。
残酷な歴史に、イリアンはなんとも複雑な気持ちになる。
「でもイオニア人たちも、まさか何百年もあとにここを天然海竜魚の生簀に使われるなんざ、思いもしなかっただろうぜ」
アドナンが合図すると、部下たちは袋の口を解き、巻いた布を広げながら、包まれたものを勢いよく水中に放り投げた。
荒っぽい仕事に、中身を知っているイリアンはぎょっとする。
白い布が勢いよく開かれ、中のものが飛び出す。それは数本の松明の明かりを受け、宝石のように煌めき、ざぶりと沈んだ。
不自然な静けさが、洞窟を制した。一同はかたずを飲み、生簀をゆるゆると泳ぎ始めたそれを、じっと見つめている――現実と幻想との境界を探りながら。
「……でけえ」
「……うむ」
アドナンが呟き、ハーミドがそれに答える。ふたりはその後、同時に長く溜め息を吐いた。
意識を取り戻した人魚は、疲れた様子もなく、艶めかしい裸形――人間の女の優艶な上半身と、海蛇に似た尾鰭を持つ下半身とをくねらせながら、気持ちよさそうに泳いでいる。
「こいつは……えれぇもんだぜ」
「くにのおふくろに見せてえ」
「く、食えるのか、こんなもんが」
海賊たちが少しずつ自分を取り戻し、ぼそぼそと話し始める。
「……イリアン、おまえ、知っていたのか」
アドナンに問われ、イリアンは首を振る。
「でも、テオファネス……依頼人の彼は、そういえばずっとセイレーンと呼んでいました」
「オデュッセウスの人魚か……。養殖の研究をしたゲルマニア人が、おかしくなっちまうのも道理だ。こんなもん、見せられたら……」
アドナンは腕組みし、困りきった表情で顎を掻いた。
「とりあえず、見張りを置け。ふたりずつ交替だ。生簀には入るなよ。――いいか、こいつは〈土曜日生まれ〉のイリアンのものだ。そのことを忘れるな」
首領の厳命に、部下たちは直立して答える。こんなとき、このならず者の一団は、曲がりなりにも帝国海軍だった前職の名残を垣間見せる。
〈土曜日生まれ〉のイリアンのものに触れるな――。
人智の及ばない壮大な海原を渡って生きる海賊は、概して迷信深い。その海賊たちにとって、〈土曜日生まれ〉のイリアンの名は、降魔の呪文のように響くらしい。一年半前、海賊船の怪異を収める現場に居合わせた者の中には、聖人崇拝的な心持になっている者もいると、冷やかし気味のアドナンから聞かされた。
自分の容姿が、晴れ着の焦げ目くらいに目立つと自覚しているイリアンには、ありがた迷惑な話だが。
「疲れただろう。少し休め」
「あ、はい。ありがとうございます」
去り際のアドナンに軽く頭を小突かれ、イリアンも人魚に背を向ける。
真正面には、白い波頭を輝かせた明るい海が広がっている。暖かな朝の光が、洞窟にも差し込み始めていた。




