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第8話 聖なる鱗(2)

 海峡に面したピントの邸宅は、寝静まった街区の中で際立って明るかった。

「ずいぶん厳重な警備をなさっているのですね」

「旦那さまがご領地に赴かれて、お留守だからな。ご病気のドーニャおひとりでは心許ないだろうし。用心しすぎて困ることはないさ」

 門番は気安く答える。前庭には軽武装の男たちが数名、辺りを警戒しながらうろついている姿が、煌々と燃える燈火に照らし出されている。

「ナクソス公は帝都でも指折りの素封家でいらっしゃいますから、ご警戒なさるのも無理からぬことです。……きっと、大きな宝物庫を備えていらっしゃるのでしょうね」

「あるともさ。ほら、お邸の北に別棟があるだろう。あれが全部、大金庫だ」

 イリアンのお喋りに乗せられて、門番は口軽く教えてくれる。

「それはすごい。北の棟は、ドーニャのいらっしゃる西翼の棟と繋がっているのですか?」

「そりゃそうさ。……ここだけの話だがな、旦那さまの財産のほとんどは、ドーニャが管理なさってる。なんたって一族の女当主さまだ。さすがの旦那さまもドーニャには頭が上がらん。だから奥方さまは、いっつもご不満たらたらなのさ」

 小声で耳打ちするように、門番が内情を暴露する。この手の噂話が好きなのは、ご婦人方ばかりではないらしい。

「おい、そんなところでいつまでも立ち止まっているな。さっさと中へ入れ」

 哨戒の私兵がふたりに声をかける。門番は慌てて持ち場に戻った。

 イリアンは愛想を出し惜しみせず、私兵に向かって笑いかけ、目礼する。私兵は目を瞠り、口元を笑みの形に歪みかけたが、すぐに顔をしかめて背を向けた。

 こんなとき、自分の容姿がどういう効果を生むのか、イリアンは計算しつくしている。不本意ではあるが、使えるものはなんでも使わなければ、越えられない塀がどんどん高くなってしまうことを、さまざまな経験から学習した。

(考え方が、だんだん海賊らしくなっているような気がする……)

 失業したらいつでも来いと、温かいお誘いをいただいているので、そのときまで技術を磨いておくのも悪くないかもしれない。

「お待ちいたしておりました、イリアンさま」

 侍女が、西翼の棟の入り口で、嬉しそうに出迎える。

「こちらは静かですね」

「ドーニャは騒々しいのがお好きではないのです。旦那さまは、なにかと派手派手しいことを好まれるので、いささか困っております」

 中庭の喧騒が別世界のように、西翼棟は人気もなく静まり返っている。回廊の明かりも落としてあり、前に立って歩く侍女の燈火だけが唯一の光源だった。

「ドーニャ。〈土曜日生まれ〉のイリアンさまがお越しくださいました」

「こちらへご案内差し上げなさい」

 きっぱりとした年配の女の声が答える。侍女は扉を開き、イリアンを中へ通した。

「イサベラ・デ・メンデスでございます。体調が思わしくないため、お見苦しい形でご無礼申し上げますが、どうぞご容赦くださいませ」

 寝台に半身起こして坐る女は、六十代の半ばほどだろうか。燈火に照らし出された顔は、加齢の皺による陰影がより鮮明に浮き上がり、よほど病状が悪いのかと思わせる。

 だが、ぴんと伸ばした背筋と、上品に重ねて収まっている手と、力強ささえ感じさせる張りのある声とが、決して病に飲まれるような性質ではないことを表していた。

 顔の横で編んで垂らした灰色の髪も、きっちり止められた胸元のボタンも、病床に寝乱れた雰囲気はかけらもない。鷲鼻の目立つ面は美貌ではないが、意志が強く高潔な人柄を映し出しているようで、見る者の心を強く惹きつける。

「イリアンです」

「まあ、本当にお美しいこと」

 ドーニャ・イサベラは朗らかに笑った。思いのほか華やいだ笑顔だった。

「使いに遣ったそのフランシスカが、戻るなり大変な興奮で、『まあ魔物を狩る者なんて、どんな陰気で不吉な男かと思ったら、これが奇蹟のような美少年で、まるで天使(アンジョ)が光臨したかと錯覚するほどでしたわ』などと申しておりました。だからわたくしも、お会いするのを楽しみにしておりましたのよ」

「まあ、ドーニャ!」

 戸口に控えていた侍女は、ひどく狼狽して叫び、部屋から出て行ってしまった。

「あらあら、お客さまの前で無作法なこと。お気を悪くなさらないでね」

 ドーニャ・イサベラは優雅な所作で手を伸ばし、寝台脇の椅子に坐るよう、イリアンを促した。

「ご多忙のところ、ご無理申しましたこと、お詫び申し上げます」

「いえ……」

 原因を作った身としては、返す言葉もない。

「――ご事情を伺いましょう」

 椅子に腰を下ろしてイリアンが訊ねると、ドーニャ・イサベラは黒い瞳を伏せた。

「……三日前から、夜半に訪問者がございます。それはこの世の者ではなく、すでに人でもありません」

「それが訪れるのは眠っているときですか、目覚めているときですか」

「どちらとも判じかねます。夢のような、現のような、その狭間のような……でも、はっきり起きているという自覚がないので、やはり眠っているのかもしれません」

「それは、あなたになにか、接触しますか。首を絞めたり、噛みついたり、血を飲んだり、あるいは愛撫したり、というような」

「いいえ、なにも。ただ傍らに立って、寂しそうに、わたくしを見下ろしているだけ」

 イリアンは内心安堵する。師の遺志に背き、邪術を為して召喚した闇のもの。罪もないこの老婦人を意図して煩わせるのであるから、少しでも苦痛を抑えたかった。

 ただ、召喚した闇の眷属がどんな姿をとるのかは、指示していない。特定の夢魔を召喚したわけではないため、現れたものは訪問を受けた人間の主観に左右される。

「あなたの親しかった方ですか」

 すると老婦人は目を上げ、哀しそうに微笑んだ。

「とても愛したひとです。――もう五十年も昔のことです」

 やわらかく細めた目に、豊かな睫毛が重なる。彼女が恋する少女だったころの面影が垣間見えたような気がした。

 覚悟していたとはいえ、ほどよく罪悪感を刺激されたイリアンは、いたたまれなくなり視線を逸らした。

「イリアンどの。わたくしは、そのひとを案じております。彼は十年ほど前に亡くなりました。本当なら、とうに神の御許で永遠の安らぎを享受しているはず。なのに、こうしてわたくしのもとにやって来るというのは、彼が天の御国に入ることを許されなかったということではないでしょうか」

 ドーニャ・イサベラの真摯な口調が、まるで自分を責めているように聞こえる。後ろめたさがそんな気にさせるだけなのだが、イリアンはこれ以上、長引かせるのは避けたかった。

「死者が親しい人のもとへ戻ってくるのは、執着や未練が消えずに残っているからです。その想いを繋いだ糸を断ち切れば、彼らは解放されます」

「常世の安らぎを得ることが叶いますか」

「叶います――必ず」

 ドーニャは目を閉じて天を仰ぎ、小さく祈りを唱えてから、目を開けた。

「では、お願いいたします」

「承知しました」

 イリアンは雑嚢から、香炉とトネリコの葉を数枚と、乾燥させた香草の束を四つと、小袋を取り出した。香炉は部屋の中心に置いて、トネリコの葉を燻す。香草の束は部屋の四隅に置き、口中で呪文を唱えながら小袋の中身――罌粟の実と黍――を、四隅を繋ぐように細く巻いた。

 結界を閉じると、ドーニャ・イサベラの頭上に山査子の小剣をかざし、十字を切る。唱えたのは、召喚して繋ぎ止めていた闇の眷属を切り離す解呪の呪言だ。

「――完了しました。これでもう、あなたのもとに死者が現れることはございません」

「ありがとうございます」

 ドーニャ・イサベラは微笑む。先刻よりもっと哀しい、もっと寂しそうな微笑み。

「死者でもよいから逢いたい願うのは、背徳ですね。……甥が留守のときで、幸いでした。彼はまじないや魔術の類を一切信じないので」

 彼女の甥、ナクソス公ホルグ・ピントは、いまその手の中に奇蹟を握っている。彼にとって、その奇蹟は、どんな価値があるのだろうか。奇蹟をも信じないというなら、それを手にしながら彼は、なにを目指すのか。

「……ナクソス公は、優れた商才をお持ちと伺っております。商売をされる方は、現実的でなければならないのでしょう」

「確かにその通りです。でも甥には、行き過ぎの感があります。それが時々、不安でなりません」

 ドーニャ・イサベラの表情が曇る。

「ご存知かどうか、一五〇〇年前、ローマ人によって祖国ハーブラの聖なる神殿が破壊されたときから、われわれハブル人の長い苦難の旅路が始まりました。ただハブルであるというだけで、差別され、迫害され、排除されてきたのです。ポルトゥスカレでは異端審問所の厳重な監視下に置かれ、三流市民として息を潜めての苛酷な生活を強いられていました」

 老婦人の話に耳を傾けながら、イリアンは椅子を引き寄せて坐った。

「甥は、自分たちを蔑み虐げた人々を見返すため、懸命に働きました。一族の富をさらに増やし、権力を拡大することに成功しました。……でも、甥は決して満足しておりません。彼には、もっと大きな野望があったのです。悲願、と言ってもよいかもしれません」

「悲願……」

「はい。甥の、わたくしたち一族の、そしてすべてのハブルの民の悲願――祖国を」

 イリアンは即座に思い至った。

 ――キプロス。

「われわれハブル人の安住の地はあるのか。失われた聖なる土地、聖なる国ハーブラを、再び取り戻すことができるのか。甥は、流浪のハブルの民に、祖国を与えようとしているのです」

(――そういうことだったのか)

 地中海の島キプロスを獲得して約束の土地と成し、離散のハブルの民を集めて古の祖国ハーブラを建国する。

 ホルグ・ピントは二年前に一度、皇帝からキプロス王の座を約束させることに成功している。当時キプロスはまだヴェネツィアの領土だったため、彼は対ヴェネツィア戦争推進派の高官(パシャ)たちと手を組み、即時開戦を目指して皇帝を口説きにかかった。

 だがそこに、大宰相という強力な政敵が立ちはだかった。

 大宰相とピントら一派は激しく争った。皇帝は大宰相を信頼していたが、表から裏からあらゆる手段を駆使したピントに口説き落とされ、ついに開戦となった。

 帝国は勝利を収め、ヴェネツィアからキプロスを奪った。だがそれは大宰相によって帝国の直轄地とされ、ピントの手には入らなかった。

(ピントにとって、大宰相閣下は、なんとしても取り除かなければならない大きな障壁だった。大宰相閣下を失脚させることができれば、彼の野望は大きく前進できる)

「……甥の気持ちは、痛いほどわかるのです。彼の望みは、ハブル人すべての宿願……。ですが、わたくしは甥を心から支持する気にはなれません。彼は傲慢なことに、自らハブルの王になりたいと願っております。そして、目的を達するためには手段を選ばないという姿勢もまた、神をも懼れぬ行為ではないでしょうか」

 ピントは多くの密偵を放って国内外のあらゆる情報を非合法に収集し、必要とあらば暗殺や破壊工作も厭わない人間だった。たったひとりの政敵を排除するために、万の市民を巻き添えにすることさえ、ためらわないのだろう。

 そしてついに、その密偵の暗躍によって、欧州(ルメリ)随一の秘密を掌中に収めた。

 幻の雌の天然海竜魚(かいりゅうぎょ)

(皇帝陛下が、焦がれるほどに欲しているという、不老不死の秘密。ピントがそれと引き替えに、約束の土地を手に入れる日も遠くはない)

 それは同時に、政敵の追い落としの成功をも意味する。

(大宰相閣下のお傍にいらっしゃる、かの御方にも、禍が及ぶかもしれない)

 わたしは、それをさせないために、ここへ来た――。

「ああ、つまらない話をお聞かせしてしまいましたね。申し訳ございません」

 ドーニャ・イサベラは詫びを述べ、小さな咳をした。

「どうぞ、横になってください。この二、三日はお休みになれなかったのでしょう」

「いえ、大丈夫です。――今宵は本当にありがとうございました。ただいま料金をお支払いいたします」

 ドーニャ・イサベラは枕元の呼び鈴を鳴らし、侍女を呼んだ。

 侍女から報酬を受け取ると、イリアンは女主人に丁重に挨拶し、辞去した。

「こちらまでで結構です。あとはわかりますから」

 明らかに未練げな侍女と西翼棟の入り口で別れ、イリアンは門へ向かう振りを装う。

 そして、西翼棟の入り口から死角になった木立に身を隠し、再び西翼棟に近づく。

 邸宅の敷地内でも最奥に位置するこの辺りには、ドーニャの意向もあって哨戒の私兵がいない。正面口の海側と、イリアンが入った裏門、そして高い外壁の向こう側さえ監視していれば、まず敷地内の侵入は不可能と見えるからだろう。

 当然、邸内への侵入も不可能だ――侵入者が、すでに壁の内側にいない限りは。

 イリアンは西翼棟の扉に耳を寄せ、内側の気配を窺う。必要最小限の使用人しか置いていない棟は、真夜中の静寂に支配されていた。

 用具に備えてある細い針を二本、鍵穴に差し込む。様子を見ながら慎重に動かすと、かたり、と音がして、鍵は開いた。こんな技も、海賊仕込みだ。

 細く扉を開け、素早く身体を滑り込ませる。

 真っ暗な廊下には、頼りない月光も届かない。それでも目が慣れると、両脇に走る長い壁の造りや、各部屋の扉などが見えてきた。

 ――金持ちの典型的な邸宅の造りからすると、西翼棟の回廊から中庭を挟んで向かい側に、北棟に通じる入り口があるはずだ。

 アドナンが、部下に探らせたピントの邸の構造を説明してくれた。

 やがて廊下の片側の壁が途切れ、中庭に面した回廊に繋がった。

(中庭を挟んで向かい側……あそこだ)

 屋根の影、暗く沈んだ空間に、小さな扉があった。イリアンは中庭を突っ切り、扉に手を掛ける。鍵がかかっていたが、外すのは雑作もない。

 鉄で作られた扉は、開けるときに耳障りな音を立てた。中へ入ると、内側からしっかりと閉め、再び施錠する。

 細い通路に、光はない。かび臭く、質量を持って圧迫してくるような湿った闇を、手探りで進む。

 ――表からは見えないが、あの邸宅には隠された入り口がある。邸宅の地階、小舟の艇庫の奥に隠し扉があり、その先に秘密の船着場があるんだ。

(捕らわれた雌の天然海竜魚は、地階に隠されているということか)

 目が慣れても、見えない状態とあまり大差ない単調な通路は、息苦しくなってきたころにようやく変化した。

(階段……でもこれは、上に向かっている)

 通路の突き当たり、狭い階段の前で、イリアンは足を止めた。そして思いつき、階段手前の両壁を探った。指先は、すぐに扉の取っ手を見つけた。

(鍵は……かかっていない)

 上背のあるイリアンなら、ほとんど上体をふたつに折らなければならないほど小さい入り口である。そのうえ、扉を開けてすぐに階段が下っているため、知らない人間がいきなり踏み込んだら、間違いなく転げ落ちるだろう。

(――空気が動いている)

 階段はすぐに終わり、平坦な床を踏む。短い通路の先には、ほのかな炎の灯りが見えた。

 イリアンは屋内の船着場に行き着いた。

 石床から続く幅広の階段が、静かに打ち寄せる黒い波に沈んでいる。左手側の壁は大きくくり抜かれ、鉄格子の門が下りていた。

(海竜魚は、どこだ……?)

 左右の石壁に明かりの点った角灯が掛けられている。イリアンは表面にだけ光が映る黒い水面を眺めながら、一歩、踏み出した。

「あっ……えっ?」

 爪先がなにかに引っかかり、歩を戻す。つまずいたのは、人の足。

「――テオファネス!」

 思わず声を上げる。冷たく濡れた石床に、捜していた青年の身体が、無造作に投げ出されていた。海竜魚を運び出してから、救出に戻ろうと思っていたのだが、まさか、こんなところに。

「テオファネス、しっかりしてください、テオ……」

 青年の上に屈み込み、ぐったりうなだれていた顔を起こして――息を飲んだ。

 整った面貌の左側が、どす黒く汚れている。晴れた日の海のような明るい青の瞳があった場所に、黒々とした穴が穿たれていた。

 前に縛られた手は、すべての指が、あり得ない方向に曲がっている。血にまみれて破れた服の、大きく切り裂かれた背中には、革の鞭で打ち据えられたらしい太い傷痕が、皮膚をえぐって何本も走っていた。

「酷い……ここまでする必要が、どこにある」

 押し殺した低い呟き。強く噛みしめた奥歯が、きり、と鳴った。

「……イリアンちゃん?」

 かすれた声音。ひとつだけ残った海色の瞳が、ゆっくりと開いた。

「テオ! よかった、意識がおありなのですね」

 背中の傷をかばうようにして、そっと青年を抱き起こす。

「驚いた……来てくれたんだ。……やっぱり、オレの夜鳴き鶯ちゃんは……すごいや」

 切れて腫れ上がった唇が、笑うように歪む。

「あなたは依頼人ですから。依頼が完了するまで、失うわけにはまいりません」

「嬉しいなあ。……それ、オレのこと、ちょっとは好きになってくれたって、解釈していい?」

「……お好きなように」

 相変わらずな青年の口振りに、イリアンも少し笑う。

「あなたの腕輪、お預かりしていますよ」

「あ、それ、代金」

「え?」

「足りないことはないと思うけど……もし足りなかったら、ゴメンな。残りの有り金、捕まったときに、全部没収されちまったんだ。……オレ、もう二度とイリアンちゃんに会えないと覚悟したから、それだけでも置いてきたんだよ」

「テオ……なにを馬鹿なこと、おっしゃっているのです! そんなこと、どうでも」

「だってさ、帝都に隠れなき〈土曜日生まれ〉のイリアンに、ただ働きさせるわけにはいかないだろ?」

 青年は半分だけの顔で笑う。苦痛がないはずはないのに、ひとつしかないまなざしは、最初に見たときと同じく、陽気で鮮やかだった。

「そんなこと……どうでもいいのに……」

 イリアンは込み上げる熱に、喉をつまらせる。わずかに滲む、涙。思いがけず感情が乱され、動揺するままに、腕の中にあった青年の頭を抱きしめる。

「……イリアンちゃん……キミ……って」

 ひどく当惑したような呼びかけに、醒めた意識を呼び戻されたイリアンは、急いで青年を離した。

「……あなたを連れて、脱出します」

 たったひとつの青い瞳が放つ強い視線を避けて、顔を逸らす。

「オレのことは、いいよ。それより、あいつを……助けてやって」

 テオファネスが不自由な手を差し出して、暗い水面を指差す。

「雌の海竜魚が、いるのですね」

「うん。……見えるかな。多分、いま、浮かんでくるよ」

 テオファネスが言い終えて、ひと呼吸のあと。

 ぱしゃり。

 水を打つ音。魚の尾鰭が跳ねるように、軽快な。

 闇の波間に、イリアンは目を凝らした。

 波の下から、大きな黒い影が浮上した。海草のように長い帯を引きながら。

 その瞬間を、イリアンは言葉で語ることができない。

 天然海竜魚が、上半身を水面から現した、その瞬間。

(――海の色、だ)

 どこまでも透きとおる海原の宝石。一点の穢れもない聖らかな青。

 それが、焦点を結んで、じっとイリアンに注がれている。

 眼前に現れたのは、燈火をはじく水滴だけをまとった素裸の娘だった。

 肌は真珠のような光沢を持ち、長い漆黒の髪が、しっとりと絡まるように貼りついている。海色の瞳、珊瑚の唇。黒い睫毛に溜まった水滴が、瞬くたびに涙のように白桃色の頬を伝う。

 ふっくらとした頬から顎の線、細い首筋。しなやかに伸びた二本の腕は無防備に開かれ、乳房の隆起を隠そうともしない。

 白珠を磨いて作ったような顔は、人形のように美しかった。

 娘は侵入者を警戒する気配もなく、微笑している。声もなく、まるで無垢な――なにもない笑み。人間なら必ず表すだろうなんらかの感情の揺らぎさえ、ない。

(正気、じゃない……?)

 イリアンはふと視線を落とした。そして、視界に捕らえた。暗い水の下に揺らめく、娘の下肢――銀青色の巨大な魚の尾鰭を。

「……まさか、そんな……」

 真珠色した娘の柔肌は、腰のくびれの下を境に、銀青色に輝く鱗に覆い尽くされた魚身になっていた。人の形をした上半身の倍はあるかと見える長い魚体は、海蛇のようにうねり、ときどき水面に飛び出す扇状の尾鰭が、波を掻く。

 ――幻の雌の天然海竜魚(セイレーン)

 イリアンは娘の優美な面貌を見た。海色の瞳を、珊瑚色の唇を、真珠色の乳房を。そして銀青色の魚身を見た。水中にうねうねとうごめく、奇怪だが艶かしい海蛇の下肢と尾鰭を。それらは繋がっていた。同じ一体の身体に、区切りなく、当然のように繋がっていた。

 ――人魚(セイレーン)

 唐突な吐き気が、イリアンを襲った。胸を押さえ、懸命に悪寒を抑える。精神的な嘔吐感だと、わかっていた。にわかに悟った、嫌悪すべき事実への。

 養殖の海竜魚は、この雌によって産み出された「卵」から作られ、食用にされている――。

(こんな、半分でも人間と同じ形を持った生き物を、わたしたちは当たり前のように食べていたのか!)

 おぞましい、文字通り吐き気のする行為。イリアンは心の中で神への祈りを唱えた。

 最初に海竜魚を食用としていたのは、アナドルや黒海沿岸の漁民たちだった。その後、この地に住んでいたキリスト教徒のあいだに広まり、欧州(ルメリ)のキリスト教徒の占領者たちが、自国に持ち帰った。

 テュルク人は帝都に入城した当時、海竜魚の存在など知らなかった。だが先住のキリスト教徒の市場(チャルシュ)に、それはあった。

 未知の珍味、豊かな滋養。テュルク人もたちまち虜になった。乱獲によってすでに絶滅寸前であったこの生き物を、国政庁(ディヴァーン)は直ちに保護し、養殖の研究を始めた。

(極秘にするはずだ。こんなことが知れたら、帝都は大騒ぎになってしまう)

 『海竜魚。水棲の獣、魚類の一。創世記に記されし楽園において、原初の人間を堕落させた蛇の眷属。蛇と好んで交わる卑しい生物。元は陸棲。神の怒りに触れ、アダムとエヴァの楽園追放後、水中の暗闇に堕とされる。その罪深さゆえ、決して栄えず、さらには人間によって食用とされる宿命にある。』

 イリアンは海竜魚に関する定説を思った。それは通説であり、伝説でもあった。古からそうであったのだと、だからこれからもそうであるのだと、誰もが信じていた。疑いもなく、あまりに日常の出来事なので。

 食用にされるために存在する生き物だから――。

 違う。逆だ。

 イリアンは激しく首を振る。――わかってしまった。

 最初に、人魚がいた。その雌の肉に、人間を不老不死にする力があった。それに気づいた人間が、人魚を狩り、食べた。食べることを始めると、止まらなくなった。漁民も、商人も、高官も、聖職者も――それが罪深い行為だと知りながら。

 だから、行為を正当化するための、理由が必要になったのだ。

(奇蹟なんかじゃない。これは呪いだ。悪魔への復讐でも、人間の正当な権利でもなく、神の禁忌を犯す呪われた行為だ)

 本当の呪いは、罪深き欲望を貪る、人間の中にあったのだ――。

 人魚がこちらを見ている。変わらず無垢な微笑を浮かべて。その美貌には、なにもない。空白の笑み。

(これが魚類だというのか。人間ではなく、海の獣だというのか。こんな姿をしているのに……)

 突然、甲高い音が発せられた。きいきいと耳障りな高音が、低い天井に反響し、イリアンの鼓膜を刺す。イリアンは耳をふさいだ。

 天を仰ぐ人魚の白い喉がふるえている。この奇声は、あの艶やかな珊瑚の唇からほとばしっているのだ。

 とても言語とは思えない、けだものの鳴き声だった。

「――静まれ」

 イリアンの背後から、テオファネスの厳しい声が聞こえた。すると人魚は、ぴたりと黙った。

「ごめん、イリアンちゃん……びっくりしたみたいだね」

「……ええ、とても」

 心を落ち着けようとして、イリアンは口を押さえる。

「信じられない……人間と同じ形をしている生き物を、わたしたちは……食べていた」

「べつに、大したことじゃないと思うよ」

 事もなげに言う青年を、イリアンは驚いて振り返る。

「ヒトは牛や豚や鳥を殺して食べる。動物はみんなそうさ。人魚(セイレーン)だって、生きるためにほかの魚を殺して食べる。不思議じゃないよ」

「でも……人魚は、人間と同じ」

「同じじゃない。人魚は人魚、ヒトはヒト。全然、別種のものだ」

 だから気にするな、と暗に含む青年が、イリアンには信じられなかった。

 目の前にある青年の姿が、ゆらりと歪んだ。不自然な膜が、自分と彼とを隔てている感覚に襲われる――錯覚だった。

「ねえ、それよりイリアンちゃん。早く、そいつを連れて逃げてよ。……オレ、残って、誰か来たとき時間稼ぐから」

 テオファネスの言葉に、頭が冷える。

(時間がない)

 小袋から丸薬を取り出し、人魚の唇に近づける。人魚は嬉しそうに舌を出し、イリアンの指先ごと口に含んだ。

 生温かい、湿った粘膜の感触。イリアンよりも少し低い体温。

 ほどなくして、人魚の様子が怪しくなった。眸が虚ろになり、長い睫毛がふっさりと閉じた。無防備に弛緩した唇から、赤い舌が垣間見える。そのまま、ざぶり、と水に沈んだ。

 イリアンは麻袋を手に、水に入る。それに海竜魚を入れて隠すつもりだった。

 だが、波の下で眠りながら揺らめいている人魚は、予定外に長大なため、収まりきらない。仕方なく上半身だけを覆い隠し、腰の辺りに縄を結わえてくくった。

 水から上がると、壁際に突き出した鉄の取っ手を引き倒す。

 がらがらと音を立てて、鉄格子の門が開いた。

「……そこ、開くようになってるんだ」

「開きます。もともとここは、ピントが国政庁(ディヴァーン)の目を逃れて禁制品や武器を密輸するために使う、秘密の船着場なのです。だから、小舟も十分に通れます」

 濡れた前髪をかき上げ、顎の下に溜まった水滴を拭う。かすかな焦燥。

(予定より、少し時間が経ってしまった)

 そんな不安を打ち消す水音が、鉄門の向こうの水路から近づいてきた。

「よう、遅かったな。心配したぞ」

 一艘の小舟に、ふたりの人影。舳先に坐っていた男が、イリアンに声をかけた。

「天然海竜魚は捕獲したのか」

「はい。……そこに」

 イリアンが指し示す水の中を見たアドナンは、数度瞬き、

「でけえな」

「はい。思ったより……予想外でした」

 秘密の上半身はすっぽり覆っているため、それが本当はなにであるか、アドナンらにはわからないだろう。ここで明かして驚かせるより、脱出するほうが優先であると判断したイリアンは、そらとぼけて人魚を繋ぐ縄を小舟の艫に結んだ。

「おい、こいつは」

 アドナンが横たわるテオファネスを指差す。

「わたしの依頼人です。ピントの密偵に、酷い拷問を受けて……。彼も連れて行きます」

「生きてんのか」

 アドナンは傷ついた青年の傍らに屈み、その様子を見て小さく呻いた。

「ひでえことしやがる。失神してるぜ。……まだ生きちゃいるが、助かるかどうか、わからんぞ」

 イリアンは答えず、わずかに頷く。

「アリフ、手を貸せ」

「へい」

 小舟を漕いでいた若い海賊は、機敏な動作で飛び降り、首領と一緒に青年を運ぶ。

「哨戒の私兵は大丈夫ですか」

「ああ。ディアーナが、着飾った娼婦を満載した小舟で、楽団と一緒にそこいらを流して回っている。人使いの荒い主人が留守だから、見張りもあっちこっちゆるんでいるのさ。夜警に見つかったら、多少のお目玉は食らうだろうが、まあ、役人だって木石じゃないからな。あの別嬪たちに嫌われるのは、かなりキツイぞ」

「恐縮です」

 結局、仕事の大半を無関係なアドナンやディアーナに頼ってしまった。イリアンは自分の力不足を嫌でも認識させられる。

 彼の屈託を察したかのように、アドナンが言った。

「気にするなって。おれもあの女も、好きでやってるいんだ。今回はたまたま、おまえの仕事に乗っかってるが、おれたちには、それぞれの思惑がある。おまえが気に病むこたあない。……って言っても、おまえ、苦労性だからなあ。難儀なガキだぜ、まったく」

 大きな手で、気安くイリアンの背中を叩く。荒っぽい言葉と所作が、落ち込みがちなイリアンの気持ちを支えてくれた。

「感謝します、アドナン」

「言ってるそばから、おまえはなあ……。話はあとだ。行くぞ」

 呆れたように首を振ったアドナンは、部下とふたりで櫂を握り、小舟を漕ぎ出した。

 水路はさほど長くなかった。海峡に出ると、薄雲の切れた十三夜の月が穏やかな波の上に光を散らし、砕けて、溶けていた。

「どちらまで?」

 海中にひらめく青銀の尾鰭を確認しながら、イリアンはアドナンに訊ねる。

皇子たちの島々(プレンズ・アダラル)だ」

 アドナンの数多い隠れ家のひとつがある島の名を聞いて、イリアンはようやく肩の力を抜く。帝都からそう遠くはないから、薬や物資の調達も困難ではない。

 夜目に死顔のように見えるテオファネスを見下ろし、イリアンは胸の痛みを覚えた。

 海峡からマルマラ海へと出る直前に、船を乗り換える。もう少し大きな船で待機していたアドナンの部下が、人魚を繋ぐ縄を結び替えてくれた。

 作業が終わるのを待ちながら、イリアンは岬の突端を見遣った。

 月明かりの下、黒い森の中に、宮殿(サライ)はある。かの御方は、今宵も宮殿(サライ)に留まっているのだろうか。それとも、自邸に帰って休んでいるだろうか。

 海から眺める帝都は、安らぎの夜の中、静かに、厳かに、空に向かって開かれている。少しずつ、遠く離れてゆく。

 イリアンは帝都の上空を仰いだ。

 深みの果てまで透き通った紺青に、満ちる直前の月が、白く輝いていた。

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