第8話 聖なる鱗(1)
「〈土曜日生まれ〉のイリアンとおっしゃる方は、ご在宅でしょうか」
若い女の声が、司祭館の扉を叩く。
イリアンは司祭館の裏手の薬草園にいた。呼びかける声に、急いで手を拭い、入り口に回る。
扉の前に、黒い面紗を被った小柄な女が立っていた。
「〈土曜日生まれ〉のイリアンさまでしょうか」
「そうです。――失礼ですが」
「申し遅れました。イサベラ・マリア・デ・メンデスの使いの者でございます。わが女主人に、ぜひお力をお借りしたい仕儀がございますため、拙宅までご足労賜りたくお願い申し上げます」
面紗を外したのはイリアンと同年代の娘だった。美人ではないが、愛嬌のある顔立ちだ。リスのような目に、涙ぐみそうなほどの賛嘆を込めて、イリアンを見つめている。
イリアンは慎ましく目を伏せた。
「ご依頼、確かに承りました。ですが、本日は多忙につき伺うことができません。明日でしたら」
「火急のお願いです。何時ごろなら、いらしていただけましょうか」
使いの娘はイリアンの言葉を遮り、切迫した調子でたたみかけた。
イリアンは内心ひそかに笑みこぼしながら、思案を装う。
「夜間外出禁止時刻になってもかまわないとおっしゃるなら、伺いましょう」
娘は顔を輝かせ、安堵したように、胸の前で手を合わせた。
三日前、ディアーナの娼館の中庭で、イリアンはひとつの呪術を行った。
――ドーニャ・イサベラ・デ・メンデスの夜から、静寂が去るように。
魔性を駆逐すべきクルスニクとして、また、そう育ててくれた恩師の遺志を守る者として、決して行ってはいけない術だった。
だが、イリアンは、境界を越えた。
大切なものを守るために。それが自分の、生きる希望だと信じたから。
(この依頼を受けた瞬間から、すでに越えていたのだ。わたしは境界に立つ者であり、境界を越える者なのだから)
犯した罪は魂に刻まれた。でも、後悔はしない。
(それに、いまはもう、理由はひとつではなくなった)
イリアンは懐から金の腕輪を取り出す。大粒の青玉が日差しを含んで輝いた。
深く澄んだ海の色。持ち主の瞳と同じ青。
――テオファネス。
陽気な青年の姿は、この腕輪と引き換えに忽然と消えてしまった。ピントの邸に行けば、なにか手がかりがあるかもしれない。
(せっかく苦労して依頼を果たしても、お礼を言ってくれる依頼人がいないなんて、張り合いがなさすぎると思いませんか、テオ?)
余計な仕事を増やした分、余計に感謝してもらわなければ割に合わない。イリアンは唇を噛みしめる。
呪術を成し得たあと、心配してくれるディアーナのもとを辞去し、教会に戻った。求める来訪者を出迎えるために。
待ち人はやって来た。今日は満月の二日前になる。
「……今夜で、いいのかい?」
ドーニャの侍女が帰って間もなく、司祭館の陰から若い男が現れた。イリアンの見知るアドナンの部下のひとりだ。
「はい。――アドナンに、そのようにお伝えいただけますか」
「わかった。計画通りに手配する」
「よろしくお願いします」
男は身をひるがえし、立ち去った。
背後にその気配を感じ取りながら、イリアンは青玉の腕輪を握りしめた。




