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第7話 嘆きの王

 芳醇な香りの立つ深い紅色の液体を口に含み、まろやかな舌触りを楽しんでから、ゆっくり嚥下する。

 彼は熱い溜め息をつき、椅子に深く身を沈めた。

 真正面に、大きな綴れ織の壁掛がかかっている。鮮やかな色糸で描き出されているのは、記憶にはないのに懐かしい、遥かな景色。

 灰みがかった薄紅色の神殿と、周囲を取り巻く豊かな緑、色とりどりの花々。清らかな泉が湧き、眩い青空の下には、聖なる山が聳えている。

 聖地ハーブラ。彼の、彼らハブルの民の楽土が本来あるべき場所。

(――なぜ、こんなところにいる)

 強く歯噛みした奥歯が、きりきりと嫌な音を立てた。

 ホルグ・ピントは酒杯の半分も残った葡萄酒を、ひと息にあおった。

 苛酷な迫害と弾圧を逃れ、生まれ故郷のポルトゥスカレからヴェネツィアへ移住したのは、もう三十年も前、十代の終わりごろだった。

 今世紀初頭に一族の本家筋がヴェネツィアに移住しており、伯母に当たる当主を頼って着の身着のままで逃げ込んだのだが、彼は若いながらも商才を存分に発揮して一族の隆盛に貢献した。ただ、ときに行き過ぎることもあり、一族の中には眉を顰める者もいるが、女主人(ドーニャ)は彼を擁護した。

 やがて彼は裕福なヴェネツィア人の娘と結婚するのだが、数年後、登記上の問題で妻の財産の一部を共和国政府に凍結されてしまうこととなる。彼はこれを不当として抗議したが、容れられなかった。

(おれがハブルだからか)

 彼は底知れぬ怒りを感じた。苦難から逃れ、共和国という甘い蜜に誘われて訪れたはずの地が、結局は母国となんら変わりはないと知ったのだ。

 ハブルだから迫害される。ハブルだから正当な権利も主張できない。ハブルだから。ハブルだから。ハブルだから――。

(ならば、ハブルは何処へ行けというのか!)

 一五〇〇年前、ローマ人によってハーブラの聖なる神殿が破壊された。そのときから、ハブルの長く苦しい離散の歴史が始まった。どこへ行っても余所者とされ、不当な差別を受け、迫害や粛清の対象にされる。

 自分たちの安住の地はどこにあるのか。聖なる土地、聖なるハーブラはどこにあるのか。

 ――ハブルの民に定住の場を。祖国を。

 ピントの中で、その想いは一気に膨張した。

 伯母がイスラムの皇帝と馴染みになり、帝都への移住を勧められたとき、彼はともにやって来た。皇帝の息子がムスリムであるにもかかわらず無類の酒好きと知ると、フランクから最高級の葡萄酒を取り寄せて献上した。

 愚鈍で放埓な皇太子は御しやすかった。彼はすぐに皇太子と親しくなり、皇太子が即位して新皇帝となると、数々の特権――帝国の葡萄酒取引専売権、葡萄酒栽培の中心地であるナクソス島と周辺の島々の行政権など――を獲得した。

 ナクソス公爵に就任したピントは、宰相に次ぐ高官(パシャ)位を与えられ、宮殿(サライ)の内廷にまで立ち入る権利をも手に入れた。

(まだだ。まだ足りない)

 ピントには貪欲に狙うものがあった。彼の野望、彼の悲願。誰にも侵略されない聖なる土地。

(――キプロス)

 地中海の島キプロスに、ハーブラを建国する。一年前、ついにピントは皇帝からキプロス王の座を約束させることに成功した。キプロスはヴェネツィアの領土である。憎悪するヴェネツィアから、大切な領土を奪取するのだ。

(なんと痛快ではないか)

 ピントは対ヴェネツィア戦争推進派の高官(パシャ)たちと手を組み、即時開戦を目指して皇帝を口説きにかかった。

 だがそこに、強力な政敵が立ちはだかった。大宰相である。

 先帝の代から大宰相を務めていたその男は、理性的な政治手腕と優れた軍事的才覚とを併せ持ち、かつ人望もあった。前皇帝から現皇帝の後見を託され、国政を掌握していた大宰相は、実務上の最高権力者だった。

 ヴェネツィアとの戦争に反対する大宰相とピントは、真っ向から対立することとなった。

 政治に無能な皇帝は、大宰相に全幅の信頼を置いている。たとえ一対五であっても、大宰相のほうが有利に思えた。

 ピントは作戦変更を図った。口説く標的を変えたのだ。

 ――第四宰相リュステム・ハリール・パシャ。

 皇帝の寵愛深い侍童上がりの宰相。小姓(オウラン)出身なのは大宰相も同じだが、第四宰相の場合は意味合いが違った。美貌の青年は、皇帝の側室(カドゥン)と陰口を叩かれる枕童だったというのである。その寵は現在でも変わらず、時々皇帝の寝室に呼ばれることもあるとの噂だった。

 それほど皇帝に近い位置にいる寵臣ならば、もっと早々に近づいておくべきだったのかもしれない。だが、なぜかピントは第四宰相を敬遠していた。それは青年が大宰相派と言われているせいだけではない。

(美しすぎるからか)

 ピントは自分の容姿に多少なりとも劣等感を抱いている。矮躯で醜い自分に引き比べ、セルボ人の青年宰相は、生半な美女より遥かに麗人だ。嫉妬するのも止むを得ないが、張り合っても始まらない。

(……得体が知れない)

 そうなのだ。あの整った仮面の下にある思惑が、まったく読めないのである。

 皇帝の寵愛を一身に受けながら驕りを見せず、出世には無関心のように振舞っている。ただの侍童上がりではない証拠に優れた文官の才能を発揮し、大宰相にも一目置かれている。彼を妬み、追い落とそうとする連中は多いが、彼を支持し、彼に付きたいと考えている高官(パシャ)も決して少なくはないのだ。その気になれば、彼は国政庁(ディヴァーン)で強力な派閥を組織することが可能なのである。

 なのに第四宰相には、そのような動きはまるで見当たらない。皇帝には忠実、大宰相にも逆らわず、よく輔佐を務めている。財力に任せて浪費したり、酒色に溺れることもない。

(なにを考えている?)

 ただひとつわかることは、あの青年も、なにかを求めているということだけだ。それがなにかまではピントにはわからない。ただ気配を感じる。なにかを渇望する意識、生涯を賭けても達成したい願いを抱いている者の気配。同族の匂い。

(だから、近づきたくなかったのかもしれん)

 だが、目的を達成するために、ピントはリュステムを訪問した。婉曲に戦争推進支持派への賛同を誘ったが、リュステムはピントの意をあっさり汲み取った。

 ――承知いたしました。陛下の御本意を伺い、わたくしはそれに従いましょう。

 拍子抜けするくらい簡単だった。もとより皇帝は戦争を望んでいたので、寵臣の囁きは大きく弾みをつけた。

 ――朕は大帝国の皇帝なるぞ。

 そのひと言で、大宰相は引き下がらざるを得なかった。

 勝利に浮かれたピントは、リュステムに大金を贈った。しかしリュステムは受け取らなかった。

 ――陛下の御意思に従ったまでです。

 味方なのか、敵なのか。二年経って、彼が第三宰相に昇進した現在に至っても、ピントはいまだにつかみかねている。

(まあいい。当面の敵を排除するほうが先決だ)

 帝国はヴェネツィアとの戦争に勝利し、キプロスを獲得したものの、それはピントのものにはならなかった。大宰相が意地を見せ、国防の要衝キプロスを国家の直接統治下に置いたのである。

(老いぼれめ。どこまでも阻む気か)

 野望を達成するためになにが一番の障害か、ピントははっきりと見定めた。彼は大宰相失脚の画策に全力を尽くすことを決意する。

 ピントは豊富な財力を武器に、欧州(ルメリ)各国の王たちに接触した。度重なる戦役と内乱に疲弊し、財政困難に陥っていた各王室は、彼の資金力に抗えなかった。瞬く間に数か国の債権者となり、優勢さを誇示した。

 一方で多くの密偵を放って欧州(ルメリ)の情報を収集し、必要とあれば破壊工作も厭わなかった。手段を選ばないやり方について一族の者から非難を受けても、彼は傲然と頭を上げ、言い放った。

 ――虫けら同然の蔑みを甘んじて受け、這いつくばって生きてきた無能の分際で、主張だけは一流市民のつもりか。貴様らが吸いついている甘い汁の木の幹は、誰が育てた。強者に寄生するしか能のない食い詰め者めが、生きていたければ口をつぐんで隠れておれ!

 事実、いまのメンデス家の権勢を支えるのは、ナクソス公爵ホルグ・ピントにほかならない。誰がなんと言おうと、ハブル人社会でピントに逆らえる者などいないのだ。

(ハブル人だけではない。いずれこの国でも)

 教皇や欧州(ルメリ)列強と真正面から対峙する異教徒の大国。親族の縁によって訪れたが、彼はこの国が気に入っていた。ハブルの自分にとってはどこも異国だが、少なくともこの国は自分の価値を認めてくれている。この国の中枢に入り込めたなら、計画の実現に向けて大きく前進できるだろう。

 賢帝の誉れ高い父王とは似ても似つかない暗愚な王は、ピントの世慣れた話術と上等の葡萄酒とで、簡単に落ちた。皇帝の事実上の妃である第一側室には様々な贈り物をして、歓心を買う努力を続けている。

(敵は見定めた。基盤は固まりつつある。あと足りないものは、なにか)

 そんなときだった。思いがけない財宝を、ピントは手に入れることとなる。欧州(ルメリ)一、いや世界一と言っても過言ではないだろう、奇蹟の存在。

 ――幻の雌の天然海竜魚(かいりゅうぎょ)

 どのような経緯をたどったものか。それはもともと、宮殿(サライ)の奥宮に秘されていた帝国の至宝であるらしい。それがひそかに宮殿(サライ)から持ち出され、めぐりめぐってピントの眼前に現れた。

 奇蹟の至宝を失った皇帝は、この世の終わりに遭遇したような有様だったという。現在、大宰相に厳命し、血眼になって天然海竜魚を捜索させているところだ。

 いまこのとき、ピントがそれを皇帝に献上すれば。

(思いどおりだ。なにもかも)

 興奮に胸が沸き立つ。勝利を叫びながら、走り出したいような衝動に駆られる。

 愚昧な皇帝は、奇蹟を取り戻すためなら、ピントの望むものすべてを与えてくれるだろう。欲望に我を忘れた皇帝を止めることは、たとえ大宰相であっても不可能だ。どれほど愚かであろうと、あの男は紛れもなく、この大帝国の唯一絶対の君主なのだから。

(だが、もうひとつ……)

 ピントには領土のほかにもうひとつ、欲しいものがあった。長年の望みではない。つい最近芽生えた、新しい願望だ。思いがけず目の前に現れた、未知の幸運。

 その肉を食べた者を不老不死にするという雌の天然海竜魚。それは神の奇蹟、選ばれた者にのみ与えられる、神の恩恵。

 神に選ばれし祝福の民、わがハブル――。

 キプロスを獲得して約束の土地となし、離散のハブルの民を集めてハーブラを建国する。神に選ばれた民の国。その国の王。

(選ばれた民の王こそ、奇蹟を得るにふさわしい。不老不死の王が永遠に国を守るのだ。わがハーブラ、永遠の楽土。おれは未来永劫、唯一無二の奇蹟の王となるのだ!)

 皇帝に献上したのち、分け前に預かれる可能性は、どれほどのものか。ピントは自分の価値を計算する。

(……まあ、いい。なんとでもなる。分け前も含めて、遠まわしに脅しをかけてもいい。おれには、それができる)

 ピントは唇をゆがめて笑った。酒杯を卓上に置き、聖地を描いた壁掛の前に立つ。

(もうすぐ、ここに至る。ほかの誰でもない、このおれが)

 いわれなき差別と蔑みが、人生の大半だった。唾を吐かれ、罵倒され、踏みつけられてもなお、生き抜いてきた。

(いまに見ているがいい。おれを見下してきた、すべての者どもめ)

 ピントは両手を硬く握り締めた。指輪の細工に傷つけられた手のひらから血が流れても、彼は力を緩めなかった。

 流血は苦痛ではない。この憤怒、抑えきれない憎悪へ注ぐ、新たな糧となり得るものだから。

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