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第6話 禁忌の庭(2)

 部下と段取りを相談すると言ってアドナンが帰り、ディアーナも中座して、イリアンはひとり部屋に残される。

 手の中には、青玉を飾った金の腕輪。

 ――テオファネス。

「その人のことが、心配?」

 いつの間にか、茶杯を載せた銀の盆を手に、ディアーナが戻ってきていた。

「ええ……はい。無事に逃げられたのならいいのですが、もし、ピントに捕らわれたとしたら、と思うと」

 ディアーナはイリアンに香草茶を手渡し、自分もひとつ取って坐る。

「無責任になるから気休めは言わないけど、ピントは冷酷な男よ。目的のためなら、手段を選ばない。自分も迫害を受けてきたから、他人に寛容になれないのね。もしその腕輪の彼が、ピントの望む答えを持っているのだとしたら、きっと吐くまで責められることになる」

 拷問で、とディアーナはほのめかす。イリアンは腕輪を両手で包み、握りしめた。

 初対面のイリアンに、怒濤のような口説き文句で押し寄せた青年。頼みもしないのに、賛辞やら思いの丈やらをばらまいていた。

 あの饒舌さが、囚われの身になっても発揮されればいい。どんな場面に直面しても、軽薄な印象を裏切らないでいてくれればいい。

 だが、イリアンにはわかっていた。一見、軽々しく浮ついたふうを装っていた青年が、本当は自分の担わされた責任を強く自覚しているということを。たとえどれほど酷い目に遭わされ、殺されることになったとしても、一族の秘密を明かしたりはしないだろう。

(どうか、無事でいて欲しい)

「……そんな顔、できるのにね」

「えっ?」

 うつむき加減だった顔を上げ、ディアーナを見返る。ディアーナは眩しそうに目を細め、微笑している。

「まるで恋人の無事を祈る乙女みたいよ。さっきとは大違い」

「さっき、とは……」

「ドーニャ・イサベラを抑えるって断言したとき。いまの表情の正反対にあったわよ。ちょっとびっくりした。あんな顔するのね。とても冷たくて峻厳で――悪魔を断罪するミカイールみたいだった」

 ミカイール。キリスト教ではミカエルと呼ばれる、神の軍勢を率いる大天使。

「あなたがどんな手を使うかは聞かないけど、くれぐれも後悔しないようにね」

 艶のある声音だが、語調は甘くない。

「……はい。ありがとうございます、ディアーナさん」

「あらやだ、さん付けは止めてよ。それに、お礼を言われるほどのことはしてないわ」

「とんでもない。何度も助けていただきました。それにピントから、重要な情報を聞き出してくださいました」

「可愛い男の子のためだもの。おねえさん、身体のひとつやふたつ、張ってみせちゃうわよ」

 冗談めかして、女はくすくす笑う。

「それにしても、あなたみたいな子が、あんなお尋ね者と知り合いだなんてね。意外な事実にもほどがあると思わない?」

「お尋ね者でも、悪党ではないですから、アドナンは。いつも親身になってくださる、とても好い方です」

 言い終わるや、ディアーナは爆笑した。

「あの男のこと、そんなふうに褒めちぎるのは、あなたくらいね。目の前で言って欲しかったわあ。あの男どんな反応示すか……だめ、想像しただけで笑っちゃう」

 絹の絨毯に横倒しになり、ディアーナは文字通り笑い転げている。

「ね、どんな馴れ初めだったの? 教えて。気になるわ」

「馴れ初めって……そんな大したことではありません。一年半前、わたしはアドナンから仕事の依頼を受けたのです」

 船上で怪異な現象が起こるからなんとかして欲しい、と呼ばれて行ったのは、国政庁(ディヴァーン)から手配されている海賊船だった。海賊たちはもとは帝国海軍の一部隊であり、こともあろうに首領の前身は帝国海軍提督(レイス)だったと聞き、驚いた。

 奴隷を重用して国を機能させているこの帝国は、ついでに海賊に権力を与えて海軍を掌握させるという、欧州(ルメリ)列強では考えもつかない奇抜な政策を採っている。帝国海軍提督(レイス)は代々、地中海を支配していた海賊の首領で、当然その手下たちが海軍兵士となる。

 イリアンが出会った海賊の首領は、地中海域で〈赤い風(ヴェント・ロッサ)〉との異名を馳せていた。ふたつ名の由来となった見事な赤銅色の髪を持つ精悍な偉丈夫で、ならず者の親玉とは思えない快活な男だった。

 海軍を離脱し逃亡した理由について、彼はただひと言、

 ――飽きたから。

とだけ言った。

 もっともその首領は、海軍の前はイェニチェリに配属されるところまで昇進した選良だったのに、そのときも軍務に倦んで脱走したという。札付きである。少年徴集制度(デヴシルメ)によって徴集されたのだから欧州(ルメリ)の出身だが、同じセルボ人だとわかったときは、愉快な奇遇だと笑ったものだ。

 それが、たんなる奇遇ではないと知るまでは。

「……あなた、彼の弟に縁があったのね」

 さらりと向けられた言葉に、思いがけず深いところを刺激され、動揺したイリアンは空の茶杯を取り落とした。

「あ、ごめんなさい。……触れちゃいけなかったかしら?」

「いえ、そんなことは……」

 ぎこちなく笑み、杯を拾う。

「……救っていただいたのです。奴隷市場で売られていたわたしを買い取り、安らげる場所を与えてくださった方なのです」

「そうだったの」

 ディアーナは相づちを打っただけで、それ以上のいきさつを訊ねなかった。

「それにしても、あのふたり、兄弟だなんて信じられる? どこも似てないじゃない。同じなのって言ったら、目鼻の数くらいよ」

 イリアンに気を使ってか、ディアーナは明るい調子で話の方向を変えた。

「そうですね。母親が違うと伺いましたから、似ていなくても仕方ないのかもしれません」

「……兄弟らしくないのは、見た目だけの問題じゃないのよね」

 長椅子にしどけなく横たわり、女は虚空を見遣る。

「兄弟が一緒に徴集されて、右も左もわからない場所に連れてこられて、同じ宮殿(サライ)で学ばされて……なんてなったら、普通は離れがたくなるもんじゃない? 一緒に上を目指そうぜ、とか、いつか必ず故郷へ帰ろうぜ、とか、励まし合ったり支え合ったりするものじゃないかしら。でも、あのふたり、ぜんぜん連絡取り合っていないみたいなのよね」

 イリアンも同感だった。他人のイリアンでさえ、同郷だということで親しみを持ってくれたりしたのに、兄弟が無視し合うというのは普通ではない。

 それでもアドナンのほうは、弟のことを気にかけているらしいのだが、弟は兄がいるなど微塵も感じさせない。むしろ、その存在を切り捨てている感すらある。

(兄弟の仲を決裂させるなにかがあったのだろうか)

 気にはなるが、訊く機会も度胸もない。

「まあ確かに、あんまり気は合わなそうだけどね。兄貴は気さくで気楽だけど、弟は近寄りがたかったわ」

 ディアーナはそう言って笑った。

「あの御方を……よくご存知なのですか」

「あの御方? ……ああ、リュステム・ハリール・パシャのこと?」

 名前を言われると、わかっていても、ついどきりとしてしまう。

「話をしたことはないわね。ハレムの女奴隷(ジャーリエ)は皇帝以外の殿方と一切会えないもの。でも、見かけたことは何度かあるわ。祝祭典のとき、御簾越しにだけど。女の自分が恥ずかしくなるほどの美青年だもの、ハレムの女たちのあいだでは大評判だったわよ。冷淡な雰囲気がいかにも切れ者って感じで、もうたまらないくらい素敵って、のぼせる娘も少なくなかったわね」

 なんだか妙な気分だった。イリアンの知っているかの人物は、女たちにきゃあきゃあ騒がれるような光景からは最も遠いところにいるような気がするのだ。

(嫉妬しているのかな)

 遠くから眺めて憧れているだけのほうが、幸福なこともある。近づきすぎて、亀裂が生じ、二度と傍に寄れなくなってしまうより、ずっといい。

(すべて、わたしが悪いのだ。わたしの、人とは違う性質が、あの御方を困らせることになってしまった……)

 慕わしいひとと離れなければならなかった理由。それを思うと、三年経ったいまでも、胸がえぐられるほどに痛い。

(あの御方のいない世界は、無に等しいと思っていた。それでも、わたしは、まだこの世界で生きている)

「――愛しているのね」

 誘惑のような、女の言葉。

 ――愛している。

 人と人とのあいだで、最も多く交わされているだろう言葉に、イリアンは違和感を覚える。

 愛している。

 恋人のように、というなら、少し違うように思う。

 恋しいが、恋愛ではない。恋をしたことがないから、本当はよくわからないのだが、自分がいままでに向けられた情熱的で甘い囁きは、かの御方には相応しくないような気がする。

 お傍に在りたかった。ただ、お役に立ちたかった。

 光の中に立つ、かの御方の後ろに生まれる影。そこにこそ、自分の居場所があると、信じて疑わなかった。

 世界が存在するために、失うことなど考えられない大切なひとだった。自分よりも――神よりも。

 ――はるか高みの、永遠に手の届かないところに行ってしまった、わたしの楽土。

 もう二度と、手に触れることは叶わないのだろうか。

「いいなあ、そういうのって」

 心の暗い部分に沈んでいきそうだったイリアンを、のびやかな声が引き戻した。

「いい……でしょうか」

「そりゃ、いいに決まってるわよ。好きな人がいるって、それだけで生きていく張りになるし、そのひとのために、もっともっと素敵になろうって前向きになれるじゃない」

(ああ……それは、あのときの、わたしの呪文だった)

 胸を熱くする、懐かしい想い。

 ――たとえ離れていても。

 そう自分に言い聞かせて、楽園から出てきたのではなかったか。

 なのに、分かたれた時間は、少しずつ心を削り始めていた。生きているのに、傍にいられない苦しさ。想いだけがつのり、心に積もり溜まって、行き場がなくなって。

(隔てられた場所だとしても、違う世界となってしまっても、あの御方は確かに存在している。その現実だけで、わたしは、生きていこうとしたはずだった)

「だって、あなた、大切な第三宰相のために、こんな危険を冒す気になったんでしょう? それって、生きる希望そのものじゃない」

 生きる希望。

 初めて聴く言葉のように、イリアンは、それを噛みしめる。

 ――わたしが生きていく世界でも、すべては、あなたの御ために……。

「あーあ、わたしにも好い男ができないかしら。ね、ちょっとだけ、わたしに浮気してみない?」

 黒い大きな瞳が、悪戯っぽく輝く。

「えっ?」

「わたしには興味がない?」

「いえ、決してそんなことは」

 相手の気分を害することのないよう、素早く首を振る。

 切り裂いたような鮮やかな目元。印象的なまなざしのウズベクの女は、咲き誇る薔薇(ギュル)のように美しい。匂い立つような色香は、イリアンでさえも絡め取られそうな気にさせる。

「ちょっとでも興味を持ってくれるなら、おねえさんとっても喜んじゃうんだけどな」

 身体を起こした女が、膝でにじり寄ってくる。

「わたしなど、とてもお役に立てそうもありません。あなたのような魅力的な女性には、もっと相応しい殿方がいらっしゃるはずです」

 丁重に、やんわりと、イリアンはお断りする。

 ディアーナは大きな目をさらに瞠って、肩をすくめた。

「わたしも海千山千って言われるけど、あなたも相当、誘われ慣れているみたいね」

 イリアンは小さく苦笑した。実戦経験はともかく、誘われた数だけは、間違いなく多い。

「わたしも、あなたのように、惚れた男に操立てしてみたかったけどね。窮屈なハレムから出られたのはいいけど、すぐ食い詰めちゃった。天涯孤独の女ひとりでできることと言ったら、自分を商売道具にするしかないのよね」

 とはいえ、その若さで娼館の女主人に収まっているというのは、大したたくましさではないだろうか。

「どうしてハレムを出ようとなさったのですか」

「飽きちゃったから。だって、毎日毎日、歌舞や楽器の練習したり、裁縫したりの繰り返しで、単調なんだもの」

(アドナンと、同じこと言っている)

 イリアンは思わず笑みこぼす。恋人であるようなないような、この微妙な関係の男女が気が合う理由が、なんとなくわかった気がした。

「出られてよかったですね。一度入ったら、二度と出られない場所と伺っておりましたので」

「うん。前にも言ったでしょ、大物に顔が利くって。わたしをハレムに入れた男が、責任取って出してくれたの。いまの黒人宦官長よ」

 宮殿(サライ)には多くの宦官が出仕している。皇帝の居住区である内廷の庶務雑事を取り仕切るのが白人宦官であり、ハレムを取り仕切るのは黒人宦官の仕事である。

 ハレムという、皇帝の寝室を守ることになる黒人宦官長は、宮殿(サライ)でも大きな権力を握っている。確かに大物だ。

「わたしの名前、彼がつけてくれたの。故郷で売り飛ばされたとき、わたしにはまだ名前がなかったから」

「そうですか……。なぜ月女神(ディアーナ)と?」

「そう思うでしょ? 違うの。月の女神さまじゃなく、正確には、ソグディアーナ」

「ソグディアーナ」

「わたしの生まれたウズベクのサマルカンド周辺は、昔そう呼ばれていたんですって。ソグド人の土地だから、ソグディアナ。そんな古い地名、暮らしてる人誰も知らないって。教養あるぶっちゃって、やらしいでしょ」

 むき出しの細い肩を揺らして、ディアーナが笑う。口調には、温かな親しみが込められていた。

「あなたの、大切な方だったのですね」

「まあね。わたしの初めての男だったし」

 一瞬、イリアンは彼女の言っていることがわからなかった。その意味が明らかになったとき、彼は絶句した。

 宦官といえば、去勢した男子のことではなかったか。

「……すみません、ディアーナ。おっしゃる意味が、わかりません」

「うーん、つまり、ひとくちに宦官って言っても、何段階かあるのよ。女奴隷(ジャーリエ)が懐妊しちゃうと困るから、子供を作る機能は確実に取り除かれるけど、女を抱く機能はまた別でしょ? ナーディルは……ああ、宦官長のことね。彼は少年のとき、あんまり美しかったので、そっちの機能は残されたまま処置されたんですって。そのほうが、金持ちのハレムには重宝されるのだそうよ」

 皇帝でなくても、金持ちなら自分のハレムに複数の愛妾を抱えている。主人も生身であるから、愛妾すべてを平等に満足させるのが困難なときもある。

 そのため、女たちの身の回りの世話をさせるついでに、空虚な寝所の相手を務めさせたりするのに、そういう処置を施した奴隷の需要が少なくないという。

 売買される商品の立場を、痛いほど思い知らされているイリアンは、不快感に眉をひそめる。

「あなたが、嫌な気持ちになるのはわかるわ。――わたしも、同じだったから」

 冷たい手が、頬に触れる。

「この国は、奴隷ばかり。あなたも、わたしも、ナーディルも、アドナンも、リュステムも」

 その通りだ。みな、自分の意志とは無関係に、奪われ、踏みにじられ、血を吐かされてきた。

 それでも生きているのは、差し伸べてくれる手があったからか。手を差し伸べようと思う相手がいたからか。

「……本当に綺麗な肌をしているのね。真っ白で、滑らかで、髭も生えてない。――女の子みたい」

 冷たくてやわらかい手のひらが、頬から首を撫でる。その感触が心地よくて、イリアンは目を閉じる。

 強い薔薇(ギュル)の芳香が、鼻孔をくすぐったとき、唇に温かな唇が押し当てられた。不思議と拒む気にはならなかった。

 ディアーナがイリアンの肩を抱き、ゆっくりと仰向けに横たわらせる。逆らわないイリアンは、それでも頭の隅で、考えていた。

 ――普通の人とは違う自分を、彼女はどう思うだろうか?

 重ねた唇の隙間を、ちらと舌がすべった、次の瞬間。

「奥さま!」

 いきなり扉が開いて、禿頭の大男が入ってきた。

「あっ……こ、こ、これは……これは、大変っ失礼をっ!」

 ディアーナとイリアンの状態を目の当たりにした大男は、頭頂まで真っ赤に茹で上がりながら、戸口で硬直した。

「……アフメット。あなたの粗忽がどうしても直らないっていうなら、その役目、サヴァに替わってもらってもいいのよ」

「もっ、申し訳ありません!」

 瞬時に青くなった大男は、床に突っ込むのではないかと思うほどの勢いで、頭を下げる。

 ディアーナは大きく溜め息をついた。

「悪いわね、使用人のしつけがなっていなくて」

「いいえ。お気遣いなく」

 イリアンも苦笑する。ひそやかに甘い雰囲気は、呆気なく霧散してしまった。

「で? なんの用なの」

「は、はい。ナクソス公爵さまが、お越しでございます」

「ピントが?」

 ディアーナはイリアンと横目に見交わした。

「このあいだ、いい思いさせ過ぎちゃったかしら。うっとうしい男ね」

 不機嫌そうに舌打ちをする。

「すみません。わたしのせいで」

 詫びを言いかけたイリアンの唇に、赤く染めた細い人差し指が当てられる。

「協力するって言ったのはわたしよ。坊やはそんなこと、気にしなくていいの」

 屈託なく言って、片目をつむってみせる。なぜか傍らのアフメットが赤くなった。

「適当にあしらうからいいわ。あなたも勝手にくつろいでいてね」

 ディアーナは部屋を出かかり、ふと足を止めて振り返った。

「……ねえ、イリアン。例の奇蹟のことだけど、それって本当に奇蹟なの」

 光の強い黒い双眸が、イリアンの目に焦点を絞る。

 天然海竜魚のもたらす、不老不死の奇蹟。

「わたしの信仰も、あなたの信仰も、啓典は違うけど、至福とは死後に神の御許に召されることだって教えているんじゃない?」

 はっとして、イリアンは息を飲んだ。

 いつか必ず訪れる死のあと、天の御国の門をくぐることを許されるために、生きているあいだに神に従い善を行う。

 奇蹟が成就したら、それは永遠に叶わないこととなるのだ。

 神の御国への道を追求する信仰を抱く者にとって、永遠に現世に留まり続ける不死が、果たして祝福される奇蹟なのか――。

 イリアンの腕を、ざわざわと這い上がる不気味な感触。首筋に悪寒が走り、思わず肩を抱く。

 墓場から起き上がる屍鬼(ジャドゥ)。神に与えられた安らぎを拒絶し、永遠にこの世を彷徨い続ける忌まわしいもの。

 ――あれが不老不死の姿なら、誰も奇蹟などと呼んだりはしない。

「どちらかというと、呪いのように思えるんだけど。気のせいかしらね」

 語尾に疑惑の音を残して、扉は閉ざされた。




 娼館の中庭の片隅に、使われていない古井戸がある。真夜中、イリアンは井戸の端にいた。

 地面に枯れ枝を組み、火を熾す。小さな焚き火が燃え始めると、小袋から数種類の香草を取り出した。

 ヒヨス、ニワトコ、トリカブト、チコリの青い花、チャービルの種。順番に火にくべながら、短い呪文を唱える。

 背後の館からは、眠らない者たちの囁きや呻きが洩れ聞こえている。

 赤い炎から立ち昇る白く細い煙が、ゆるゆると渦を巻きながら天に吸い込まれていくのを、イリアンはひざまずいたまま見送った。

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