第6話 禁忌の庭(1)
めずらしく早起きしたイリアンは、午前中のうちに依頼人の家に夢魔除けの薬を届け、帰路のついでにピントの邸を偵察しに回った。
海峡に面した邸宅は、海側が正面に当たり、玄関前の船着場に小舟で乗り付ける。高官や富商たちの邸宅が立ち並ぶこの一帯は、帝都の一等地のひとつだ。
街路に面した裏手側は高い塀で囲われており、侵入者を堅く拒んでいる。塀の内側には、腕に覚えのある私兵が哨戒していることだろう。
(真正面からでは、まず無理だな。裏の手を使うとしても、どうすれば……)
通行人を装って通り過ぎ、角を曲がってひと息つく。
そのとき、降ってきたかのように、ある考えが浮かんだ。
――なんでもできるんだね。さっすがオレのイリアンちゃんは優秀だなあ。
脳天気な青年の声音が蘇る。
(それは、わたしにしか、できないことだ。でも……)
それは、自分だからこそしてはいけないこと、すべきではないことでもある。
(そんなことしたら、師に申し訳が立たない)
だけど――。
慈しみ深い師の笑顔の向こうに、緑のまなざし。懐かしくて慕わしい御方の幻影。
(わたしに、どちらかを選べというのか)
葛藤に答が出ないまま、教会に帰り着く。門扉を開けると、すぐに愛犬が駆けつけた。
「ただいま、サヴァ。……どうした」
サヴァはいつになく切迫した様子で吠え、イリアンの短衣の裾をくわえて引っ張った。嫌な予感がして、サヴァのあとを追って聖堂に飛び込む。
鍵をかけたはずの聖堂の扉は破られ、大きく開け放たれていた。
「……なにがあったんだ」
聖堂内は荒らされていた。窓が割られ、整然と並べてあった長椅子が好き勝手な方向に曲がっており、毎日掃き清めている床には、泥だらけの靴跡がいくつも残っている。
祭壇はひっくり返され、その上に置いてあった十字架は、灰を散らかした香炉とともに地面に投げ出されていた。
イリアンは十字架を拾い、指で汚れを丁寧に拭う。決して信心深くはないが、この十字架は恩人ミルコヴィッチ師の魂そのものと思っていたのだ。
彼の日常にはほとんど無縁である感情――怒りが湧き上がる。十字架を抱きながら、睨むように泥まみれの靴跡を振り返った。
「――!」
そのとき、彼は見つけた。斜めに倒された長椅子の陰、金色に光る腕輪が落ちている。腕輪には、持ち主の瞳と同じ色をした大粒の青玉が飾られていた。
「……テオファネス」
イリアンは腕輪を拾う。汚れているのは泥だと思っていた。しかしそれが、泥よりはるかに不吉な汚れであることに気づく。
(――血痕)
よく見ると、泥を踏みにじった靴跡にも、少量の血痕が混じっていた。
(まさか、テオファネスの身に、なにか……)
「イリアン」
背後から名を呼ばれ、弾かれたように振り返る。
陽光に映える赤銅色の髪。
「アドナン……」
「よかった。無事だな」
アドナンは剣を手に、聖堂内に入ってきた。
「ひでえ有様だ」
「ええ……ピントの密偵の仕業と思われます。わたしが留守だったため、代わりに居合わせた依頼人の方が」
「そいつは違うな」
断定的なアドナンの口調に、イリアンは首をかしげる。
「ピントの標的は、最初からおまえの依頼人だったんだ。貴重な天然海竜魚の秘密を握る人物として」
「間に合ったのね。よかったわ」
娼館の前で不安そうに立っていたディアーナが、イリアンとアドナンを見るや笑みこぼした。
「ご心配おかけいたしました」
「まったくよ。悪党どもに不埒なことされていたら大変だって、おねえさん気が気じゃなかったんだから」
「心配なのはそっちの話かよ。すまんがこいつ、しばらく預かってくれ」
「任せておいて」
ディアーナは余裕のある表情で胸を張る。
あのまま教会に残るのは危険だからとアドナンに説得され、状況を見つつ、とりあえずディアーナの娼館に匿ってもらうことになったのだ。
「たびたび申し訳ありません」
「いやね、遠慮なんかしないで。好きなだけいてくれていいのよ。……あら、わんちゃんも一緒?」
イリアンを守るように寄り添って、サヴァがディアーナを見上げる。
「ご迷惑でしょうが、わたしのただひとりの家族なので、残してくるわけにはいかないのです」
「わんこを置いていくなら自分も残るって言い張ってな。優しいなりして強情なんだ、こいつは。悪いが、一緒に匿ってくれ。賢い犬だから、迷惑はかけんと思う。イリアン以外には馴れないがな。おれなんか、いまだに警戒されるぜ」
「ふうん」
ディアーナは屈み、サヴァと同じ目線になる。
「本当ね。賢そうな目をしている。――あなた、ご主人と一緒にいたい?」
語りかけながら耳の下を軽く掻く。するとサヴァはくすぐったそうに首を振り、ディアーナの手を舐めた。
「……おい。ずいぶん態度が違うんじゃねえか? 雄かこいつは」
「性別の問題じゃないと思うわよ。人を見る目があるのよ。ねえ」
と、頬の毛皮をこするように撫でる。狼のような犬は、なされるがままになっていた。
「犬はあとにしろよ。なんかわかったことがあるって言ってただろう」
ぶっきらぼうにアドナン。サヴァのひいきがどうも気に入らないらしい。
「あ、そうそう。朗報なのよ」
ディアーナはふたりを階上の自室へ促した。
「ピントが家を留守にする?」
聞き返すアドナンに、ディアーナは水煙管をひと息ぷかりとふかして頷いた。
「そう。明後日から十日くらい、領地のナクソス島へ妻子を連れて行くらしいの。葡萄の収穫を監督しに行くんですって」
「十日か……好機だな」
顎を撫でながらアドナンが呟く。
「でも、邸の警戒が甘くなるわけではないのでしょう。むしろ、主人がいない留守のあいだこそ、厳重に警戒するのかもしれません」
「それはそうなんだけどね。でも主人がいるのといないのとでは、大違いよ。少なくともピントは、部下に慕われている良い主人とは言い難いし」
「暴君だからな。鬼のいぬ間を狙って、羽伸ばす部下もいないとも限らない」
「そうそう。だいたい邸を守る私兵たちは、主人がなにを隠し持っているかなんて知らないんですもの。けちな金持ちが財産減らすのを怖れている、くらいにしか考えていないわよ。……ただね」
ふうぅ、と長く息を吐いて、
「あまり良くないお知らせもあるのよ。――女主人は、ご在宅なの」
「女主人イサベラ、か。そりゃちと難儀だな」
アドナンは腕組みをし、眉根を寄せる。
ドーニャ・イサベラ。大富豪メンデス家の当主にして、ピントの伯母に当たる。女ながら、その経済的手腕は男顔負けで、メンデス家が欧州の香辛料貿易の大半を支配するようになったのも、彼女の功績が大きい。その商才に一目置いた先帝が、彼女に帝都移住を勧めたのだった。
「あまり丈夫じゃないから、ほとんど寝室から出ないみたいだけど、なんたってメンデス家の女主人ですもの。ピントだって、大きな商談には必ず伯母上のご意向を伺うみたいよ。部下への影響力も大きいわ」
「相手が女じゃ、色仕掛けも通用しないしな」
茶化すように言ったアドナンを、ディアーナはきつい流し目で睨んだ。
「だけど、機会はこのときしかないのよ。――ピントは領地から戻ったら、出来立ての葡萄酒と一緒に、天然海竜魚を皇帝に献上するつもりらしいわ」
イリアンは、はっと目を上げた。
「もともと皇帝のものだった天然海竜魚を、しらばっくれて自分が捕獲した別物のように取り繕うつもりなのね。やることがいちいち、こすっからいのよ」
「どっちだっていいのさ、皇帝は。もう一度手に入るのなら、いくらでも代価を支払うだろう。奇蹟の生き物を餌に、ピントは念願のキプロスをねだる。暗君は否とは言わん。そうなると、大宰相の政治的地位も危うくなるな」
大宰相、そして、彼につながる者たちも。
好機はそのときしかない。これを逃せば、すべてが終わる。天然海竜魚は絶滅し、かの御方は――。
「わたしに考えがあります」
意識するより早く、言葉が飛び出していた。
――師よ、どうかお赦しを。
「ドーニャ・イサベラは、わたしが抑えます」
言い切ったときの自分は、どんな顔をしていたのだろう。
イリアンは、自分を見つめる男と女の表情に、よく似た驚きと困惑の色を見て取った。




