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第5話 葡萄酒王(2)

「……疲れておるのか」

 皇帝は無心に動かしていた手を止め、リュステムの顔を覗き込んだ。

 天井の暗闇に意識を浮遊させていたリュステムは、不意に目の前に現れた浮腫んだ男の顔に、一瞬息を詰める。

 ハレムに続く内廷の皇帝の寝室に、彼はいた。

 黄金の房飾りをあしらった天蓋つきの巨大な寝台。

 一面イズニク製の青い陶板で覆われている壁。

 陶板に描かれている繊細な赤と白との花模様を、彼は知り尽くしている。灯りを抑えた薄暗い居室の隅々まで、彼ははっきりとなぞることができる。

 青銅の暖炉を取り囲む満開の李の花の装飾。

 暖炉の向かい側には三段式の色大理石の噴水盤。

 初めてこの噴水盤を見たとき、まだ子供だった彼は、あまりの美しさに驚き、不用意に手を触れてびしょ濡れになったものだ。

(そうだ。目を閉じてさえ、正確に描写できる。ここは、わたしの寝室も同然だった)

「リュステム」

 不安そうに見下ろす皇帝に、リュステムは微笑した。

「申し訳ございません。浅い夢を見ておりました」

 腕を伸ばし、上にのしかかった皇帝の縮れた赤毛に指を絡める。

 皇帝は嬉しそうに首をゆすって笑い、たるんだ腹を青年宰相の身体に押しつけた。

「リュステムよ。そなたは、美しい。そなたの美貌には、ハレムの女たちも敵わぬ。美しい子供、美しい小姓(オウラン)、余のリュステム・ハリール」

 皇帝はうわごとのように繰り返し呟きながら、肉厚の手のひらで青年の身体を撫でまわしている。手のひらの、ざらついて湿った感触。おぞましさが無感覚に変わるまで、随分と長い時間が必要だった。

 皇帝は自分にしかわからない言葉をぶつぶつと洩らしながら、リュステムの白い頬に唇をおしつける。だが行為は、それ以上には進まない。かつて、子供だった青年にしていたような行為は、皇帝にはもうできないのだ。

 長年の深酒と淫楽に蝕まれた皇帝の身体は、もはや自力で交わることができなくなってしまった。数年前から、皇帝は寵姫たちと同衾するさい、精力剤や催淫薬の助けを借りている。そのため一層健康を害し、半病人となり果てているのだ。

 それでも、皇帝は酒を求める。女を求める。そして彼を、最愛の玩弄物リュステム・ハリールを求めるのだ。

 病的なまでの生と性への欲望。身体を蝕む暗い闇は、次第にその精神までも侵蝕し始めていた。

(――それでこそ)

 リュステムは再び天蓋の向こうを仰ぎ見た。

 香炉から立ち昇る青紫の煙が、天井の薄闇に渦を巻いて、いつまでも消えない。彼はそれを見て、笑った。

 意識はもう浮遊しない。自分の身体は誰のものでもない、自分の意識のものだった。

(ようやく、ここまで来た)

 皇帝の獣じみた呻きの下で、リュステムは低く、ゆるやかに笑い続けた。




 彼は帝国領サライ・ボスナ近郊から徴集された。九歳だった。

 キリスト教徒の少年奴隷たちはムスリムに改宗させられ、適性に応じて軍人か行政官へと養成される。彼は文官の適正ありとして外宮殿の小姓(オウラン)に採用された。

 彼には二つ年上の兄がおり、ともに選抜されたが、兄は軍人の資質を認められ、初等教育ののちに常備軍へと編入された。常備軍の中で特に優れた資質を持つ精鋭は、スルタン直属の新軍(イェニチェリ)へと配属される。

 当時、帝国は大帝と呼ばれた先帝の御世だった。大帝の指揮する帝国軍隊が、ハンガリアを征服し、欧州(ルメリ)の首都、ハプスブルク帝国のウィーンを包囲したとき、キリスト教徒はこの東方の国家を確かな脅威と認識したのだ。

 リュステム・ハリールというテュルク人の名を与えられた彼は、抜きん出た容姿と才知を認められ、宰相への出世街道である大帝の私室付きの小姓(オウラン)に選ばれた。

 そして内廷とハレムとの境の間において、彼は大帝の息子、ハレム育ちの皇太子の目に留まった。

 皇太子は、偉大な父帝に比べ、容貌も能力もかなり見劣りがした。若い時分から放蕩で、宰相たちの悩みの種でもあった。

 だが皇太子は、美女を侍らせ乱痴気騒ぎはしても、決して少年愛好者ではなかった。

 それが、リュステムを見出し、狂ってしまった。

 最高級のイズニク陶器のような白い膚、しなやかで素直な漆黒の髪、深い緑柱石の瞳を持つ美貌の小姓(オウラン)。少女の可憐さと、少年の潔癖さが同居する、その姿態の曖昧さ、危うさ。

 皇太子は彼に心を奪われ、彼を渇望した。そのとき彼は、十四歳だった。

 大帝崩御ののち、皇太子が即位して皇帝になると、寵愛の小姓(オウラン)は異例の速さで昇進した。内廷の太刀持、外廷の門衛長、イェニチェリ軍団長官、欧州(ルメリ)総督。第五宰相に任命されたときには、まだ二十二歳という若さだった。

 当然のように、彼を批判する者は少なくなかった。彼を皇帝の側室(カドゥン)と誹謗し、あからさまな敵意をぶつけてくる者もいた。

 だがそれらの者たちも、彼の才知と文官としての手腕が群を抜いている事実は、認めざるを得なかった。なにより、先帝の代から深く信任されていた大宰相が、彼に一目置いていたのだ。

 少年徴集制度(デヴシルメ)によって徴集されてから十六年。セルボ正教徒出身の奴隷の子供は、帝国の第三宰相の地位にまで昇っていた。




「……のう、リュステムよ」

 皇帝は寵臣の手に身を委ねながら、虚ろに呟いた。

「余は、あとどれくらい生きられるのだろうか」

「なにを仰せられます。陛下は帝国の威光の具現者たる御方、まだまだご健勝でいただかねばなりません」

 皇帝の汗を拭い、絹の夜着を着せてやりながら、リュステムは答える。

「……あれさえあれば、なにも問題はなかったのだ」

 かすかにふるえた低い声。

「のう、リュステム。あれはもう見つからないのか。どこへ行ってしまったのだ。あれは余のものだ。大帝国の皇帝にして教主(カリフ)たる余のものなのだ。そうであろう、リュステム」

 子供が駄々をこねるように、皇帝は肥満した二本の脚をぶるぶる揺すった。

(――酔いどれ(サルホシュ)め)

 リュステムは心中で毒づいた。酒で溺死しそうな男が、教主(カリフ)とは、聞いて呆れる。

 啓典の教えは飲酒を禁じている。しかしテュルク人は伝統的にこの教えを犯してきた。先帝も葡萄酒の愛飲者であったが、この皇帝は絞れば酒が滴りそうな身体をしている。

「もちろん、あれは陛下の御物にございます。全力を尽くして捜させてございますゆえ、いましばしご辛抱を」

「あれは、余のものだ。余の……」

「仰せの通りにございます」

 リュステムは、不恰好に肥大した海獣のような皇帝の身体を寝台に横たえ、宥めるように腹を撫でた。

「陛下は偉大なる世界の王、御手に入らぬものなど、ございません。――たとえ、奇蹟と呼ばれるものであろうとも」

「うむ」

 皇帝は満足そうに腹を揺らした。

「あれは余のものだ。余だけに、神が与えたもうた恩恵だ。……したがリュステム、そなたにだけは、分けてやってもよいぞ」

「ありがたき御言葉」

 リュステムは恭しく頭を垂れた。

「安堵したら酒が飲みたくなったぞ」

「直ちにご用意させましょう」

 リュステムは扉の外に控えていた小姓(オウラン)に命じ、葡萄酒を運ばせた。

「そういえば、そろそろ収穫期だな。ピントのやつが、今年は葡萄の出来が良いので美味い酒ができると申しておった。楽しみだ」

 葡萄酒を注いだ酒杯を皇帝に捧げながら、リュステムはひそかにその名前に反応する。

 ――ナクソス公ホルグ・ピント。

 冷えた意識の中で、赤ら顔で酒樽のような短躯のハブル人と、この血色が悪く蒼白い肥満体の皇帝とを並べてみた。滑稽なくらい好一対だと思った。

 リュステムは配下の者から、近頃のピントの不審な動きについて報告を受けている。それが、三年前に宮殿(サライ)から忽然と消えた、あの幻の生き物に関係しているということも知っている。

 そしてそのものが、眼前にいるこの愚昧な男の、いま一番の関心事であるということも。

「あれの奇蹟を手に入れたら、余は世界の王だ。世界は余の足下にひれ伏すのだ。不老不死の王に、怖れるものなどなにもないのだ」

 皇帝の小さな目の縁が赤く染まり、瞳が狂気じみた興奮に輝く。酒杯を握る手が小刻みにふるえているのは、興奮のせいか、深酒による中毒のせいか。

(そうだ。そうやって、おのが生に執着するがよい。おのが欲望ことだけ考えていればよい。それが、おまえの命の価値だ)

 リュステムは、豪奢な夜着の下で不自然にうごめいている大きな塊を、射抜くように見据えた。

 ふと、部屋の一隅の物陰に気配を感じた。リュステムにしか感じ得ることのできない、密やかな気配。誰もいない闇に潜む、その存在。

(大事ない。控えておれ)

 声に出さずに語りかけると、一隅の気配は、答えるかのようにわずかに揺らぎ、闇に溶けて、消えた。

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