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第5話 葡萄酒王(1)

「リュステム・ハリール・パシャどの」

 外廷の庭園で、陽気に呼びかける声があった。

 リュステムが振り返ると、赤ら顔で酒樽のような短躯の男が、皇帝と同じくらい豪奢な長衣(カフタン)を着込み、小さい歩幅をできるだけ大きく開きながら、此方へやって来るのが見えた。

「お元気かな、第三宰相どの」

 男はなれなれしく挨拶する。リュステムは鄭重に辞儀し、

「息災にございます。ナクソス公どのも、ご機嫌麗しゅうございますな」

「ああ、麗しゅうございますぞ。気分も体調もすこぶる好調でしてな。おかげでなにを食っても旨い」

 男は天を仰ぐようにして笑った。ナクソス公爵ホルグ・ピント――皇帝のお気に入りの男である。

「いやあ、なにしろじき収穫ですからな。今年は葡萄の出来がことのほか良い。皇帝陛下にもお悦びいただけること請け合いですぞ」

 言って、男はまた笑う。酒臭い息。この男は、いつでも酒気を帯びている。あるいは体臭になってしまっているのかもしれない。

「そうそう、さきほど大宰相どのをお見かけしましたが、なにやらひどくおやつれのご様子。どこかお悪いのではあるまいか」

 ピントは口元ににやにや笑いを浮かべている。心配するそぶりすらない。

 大宰相とピントは政敵である。二年前、キプロスを巡るヴェネツィアとの戦争の際、皇帝からキプロス王の座を約束されていたピントは、有力な高官(パシャ)たちと手を組み、戦争反対派の大宰相と真っ向から対立した。

 かつてヴェネツィア領出身の妻の財産を総督府に不当に凍結された怨恨から、ピントのヴェネツィア憎悪はあからさまだった。戦争前年にヴェネツィア海軍造船所が火災に遭ったのも、彼の密偵の暗躍によると言われている。

 絶大な経済力を誇示するように、華美粉飾を好む。帝国に追従する裏側で、私兵や密偵を暗躍させ、イスパニアやポルトゥスカレ、ジェノヴァ、トスカーナなどと通じている、との噂もある。

 その俗物的ななりふりと不透明な行動が、潔癖な大宰相とは相容れないのだろう。

 リュステムは自分の意志はともかく、表面上は大宰相派と見なされている。だが政敵ピントは、いまのところリュステムを敵視してはいない。

「こう戦役続きでは、いかに頑健な大宰相どのとても、心休まる暇などなかろう。そろそろ引退なさるのも、お身体のためかと思うがなあ」

「滅多なことをおっしゃいますな。閣下は国政の要、帝国の安泰のためには、欠かすことのできぬ御方にございます」

「そうかね」

 ピントが矮躯をにじり寄せ、リュステムの袖を捕らえた。

「わたしは御身の心配をしておるのだよ、第三宰相どの」

「さて、わたくしには公に御心配いただくようなことに、なにも心当たりなど」

「腹を割って話そうではないか、リュステム・ハリールどの」

 むっとするような酒の臭いが、男の呼吸とともにリュステムの顔に吹きつけられる。

「大宰相どのは確かに国政の要かも知れん。だが年も年だ。いずれ遠からぬうちに引退をお考えになるだろう。第二宰相どのは無難な凡人で、臣民の信頼を勝ち得る手腕と魅力に欠ける。引き替え御身は、その若さにして誰よりも栄光の座に近く、またそれに見合うだけの才覚と手腕とを備えておられる。……これは大きな強みだ。そうは思われんか」

 ピントの湿った鷲鼻が、リュステムの胸元の飾りボタンに触れるほど近くに迫った。

「御身がその気ならば、わたしは全面的に御身を支援しよう。金も惜しまん」

 声は潜めているが、言葉は強かった。ぎらぎらと燃えるように光る黒い眸を、リュステムは見つめ返す。そして、微笑する。

「わたくしに、さような野心はございません」

 ピントは瞬間、鼻面を弾かれたような間の抜けた顔になった。

「なんと気弱な。御身とて才の高さを認められ選抜された身、栄華を極めんと欲してその座に至ったのではないのか」

「皇帝陛下に身を賭してお仕えするのが、わたくしの生きる道と心得てございます」

「陛下の寝室を守るだけの侍童に甘んじてもよいと仰せか」

 リュステムはピントを刺すように見た。意識が、視線が、急速に冷えていくのを感じた。

 ピントは身を退き、鼻の頭を拭った。

「いや、こ、これは、失言」

 大慌てに取り繕うピントを、リュステムは侮蔑を潜めた静かなまなざしで見下ろした。

「とにかく……御身にとって決して悪い話ではないはずだ。――ともに、帝国の栄華を」

 餓えた狼のような目を光らせ、ピントはリュステムの喉笛に近づいた。

(――下種)

 さや、と裾を捌き、リュステムはピントに向けて一礼した。そして背を向けて歩き出す。

「しかとお考えあれ、リュステム・ハリールどの」

 背後から、ピントの声が追いかけてきた。リュステムは振り返らず、鷹揚な足取りで庭園を進み、門を通って内廷に入る。

 内廷の中庭では、彼の姿を見かけた宮廷学校の小姓や宦官たちが、敬意を払って道を譲る。帝国史上、最年少の宰相を、尊敬と憧れのまなざしで見送る。

 ――ともに帝国の栄華を。

リュステムは小さく失笑した。

(愚かなハブル。おまえごときが、わたしを懐柔できると思うのか)

 だが、利用価値はある。それに、血族であるメンデス家の権勢は侮れない。

(あの男、近頃なにやらこそこそと動き回っているようだが、今回はよほど自信があると見える)

 ピントが暗躍するとき、その結果は帝国にとって必ずしも吉と出るとは限らない。あの男は、ただ自分自身の欲望のために働いているのだ。

(それならば、それで良い。決して動かしにくい駒ではない)

 ひとり庭園を歩きながら、リュステムは低く笑った。

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