第1話 月を喰う者(1)
「危険ですから、下がっていてください」
自分の背後から恐る恐る覗き込んでいた人々を、イリアンは中庭の端まで下がらせた。
天には、宮殿の衛士の刀のような白く細い月。その頼りない光を追い払って、真夜中の中庭には、荒々しいまでの篝火が燃えさかっている。
篝火に照らし出されるのは、土にまみれた女性用の棺。中からかすかに、物音と呻き声が聞こえる。
邸の主人と下僕たちが遠巻きに見守る中、イリアンはかがんで棺の蓋に手をかけた。一度暴かれた棺の蓋は、仮止めをしているだけなので、難なく開く。
開かれた棺から、獣じみた唸り声があふれ出す。見物の一同は身を竦ませて寄りかたまるが、イリアンは怯むことなく中を覗き込んだ。
かっと見開いた真っ赤な眼。ぱんぱんに張り詰めた皮膚は薄く、体内に充満している血液が透けて見えそうだ。はちきれそうに膨れた身体を覆うのは、汚れた血にまみれた薄い屍衣、その上から茨と葡萄の蔓を編んだ縄が打たれ、身動きできないよう拘束されている。
まだ若い女だった。生前は細面の可憐な若妻だったという。
いま、その変わり果てた姿を晒している女は、口に含まされた大蒜を吐き出すこともできず、ただ苦しそうに呻くだけだ。狭い棺の中で窮屈そうによじる身体の動きに会わせて、艶のない長い黒髪がうねるようにふるえている。
生前――女はすでに死んでいた。四十日前に埋葬もすませ、彼女の生命は終わったはずだった。
イリアンは清潔な布を広げ、棺ごと女を覆いつくした。薔薇から精製した香油を布にたっぷりと振りかけ、染み込ませる。そして腰帯から山査子を削って作った短剣を抜くと、布の上から心臓と思しき位置にあてがい、体重をかけて一気に突き通した。
「ぐうぅぅぅ……!」
くぐもった声が布越しに響く。わずかに布が波打ったが、すぐに収まった。
イリアンは篝籠から松明をひとつ取り、棺の中に放り投げた。香油を含んだ布は、ぱっと炎に包まれ、勢いよく燃え始める。
人ひとり燃やし尽くすのには、大量の薪を必要とする。時間も数時間かかる。
だが女の身体は、みるみるうちにしぼみ、やがて棺の底に黒い液体を少量残すのみとなった。
「終わりました」
イリアンは用具を片付けながら、邸の主人に声をかけた。
「ほ、本当に、もう大丈夫なのかね?」
裕福な商人である中年の男は、見事な口髭を不安そうに垂らしながら、恐々と近づいてくる。ゆっくりと棺を覗き込み、嫌悪をあらわにした顔で鼻と口を覆った。
「心配はいりません。奥さまが、あなたがた……あなたとご家族を苦しめることは、もうありません」
「信用していいんだな」
疑いの滲む言葉に、イリアンはちらと目を上げ、依頼人を見つめた。
「あ、あ……いや、すまん。疑っているわけじゃないんだ。決して、な」
男は慌てて手を振った。気圧されたのか、気まずそうに自分の太鼓腹を撫で回し、引きつった笑みを浮かべる。
イリアンはなにも言わず、用具を入れた雑嚢を肩にかけた。
「いや、ご苦労だった。残りの半金を払うから、中へ入ってくれ」
男はイリアンの肩を抱くようにして邸の中へ促す。居間へ案内すると、革袋に入った硬貨を手渡した。
「……約束より多いのですが」
中身を確認したイリアンが顔を上げるや、男の太い指が伸びてきて、彼の白銀色の髪に触れた。
「この手触り……最上級の絹糸のようだ。瞳の色もめずらしい。昼間は金色に見えたが、本当は菫色なのか。欧州の出身だな」
男はごくり、と喉を鳴らし、指先をイリアンの頬に這わせる。
「規定の金額以上は、いただくわけにはまいりません」
「まあ、そう言うな。ほんの気持ちだよ。感謝している」
イリアンが逆らわないと見るや、富商の男はその湿った肉厚の手のひらで、彼の白い頬を無遠慮に撫で始める。
「たったひとりで、こんな危険な仕事をしているのか。まだ二十歳には間があるだろう。それに……これほど美しいのに」
男の息が耳にかかる。イリアンは落ち着いた所作で身をかわし、男の手に余分な金を乗せた。
「ありがとうございます。なにかあれば、また御用命ください」
「お、おい」
未練げに呼び止める男を無視し、イリアンは依頼人の邸を出た。
外に出ると、秋の夜の涼気が彼を取り巻く。心地よい風に、濃い潮の香り。イリアンは深呼吸をし、体内に溜まった邪気を吐き出した。
そのとき、足元になにかが落ちてきた。ふわりと軽いそれは、女物の手巾。焚きしめられた上質の香料が、艶めかしく鼻孔をくすぐる。
見上げると、二翼に分かれた邸の女性居住棟、街路に突き出した二階の飾り窓に、面紗を被ったふたりの女の姿があった。女たちは富商の愛妾だろう。熱っぽい視線が自分に注がれているのを、イリアンは夜闇にも感じ取った。
女が飾り窓から街路の男に向けて花や手巾を投げるのは、求愛の証、誘いの手段である。
拾った手巾を扉の取っ手にかけ、イリアンは振り返らずに、外出禁止時間となっている夜の街路に歩み出した。
朝一番の渡し船に乗り、イリアンは帰宅するために湾を対岸へ渡る。
振り返ると、海に突きだした岬に巨大な街が展開しているのが見える。
古のキリスト教徒の王が築いた、堅牢な城壁と城塞。七つの丘の稜線を這うように増殖した、赤茶色の屋根の家々。無数のモスクの円蓋と、林立する尖塔。
イリアンは岬の突端を見遣った。丘の斜面の広大な土地を占める建築群は宮殿、この帝国の政治や行政、軍事の中枢である。
大帝国ユルドゥルム――始祖の尊称〈雷光〉にちなんで名付けられたこの国は、三百年ほど前に小アジアに突如現れた、イスラムの遊牧騎馬民族テュルク人の国である。破竹の勢いで欧州に侵攻した彼らは、一二〇年前、ついに地中海東海域を制して大帝国となった。
そしてここは、世界でも一、二を争う栄華を誇る帝都コンスタンティニエ。かつてこの地にイオニア人の帝国が在った時代から、世界の中心だった街である。
イスラムの朝の礼拝を告げる朗誦が、帝都中に響き渡った。朗々として心地よい独特の韻律に合わせて、海の彼方から曙光が差し、宮殿を光に包み始める。
朝日に細波がきらめき、視界を眩ませる。波に揺られ、朗誦に揺られながら、イリアンはかすかな胸の疼きとともに、眩い宮殿を飽くことなく見つめ続けた。
やがて渡し船が波止場に着く。イリアンは軽い足取りで、舳先から桟橋へ飛び移った。
宮殿岬と湾を挟んで対岸のこのガラタ街区には、異国人の居住者が多い。
交易のために訪れたジェノヴァ人やイオニア人、アルメニア人。キリスト教徒からの迫害を逃れてきた流浪の民ハブル人も、旺盛な商業活動で他国の商人と渡り合う。ここでは、帝国公用語以外の言語を聞くことが対岸よりも多い。
すでに市場では早起きの商人たちが走り回っていた。
市場を抜けながら、イリアンはあくびを噛み殺す。夜通し仕事の疲れが、眠気となって襲ってくる。彼は足を速め、家路を急いだ。
太陽から逃れるように踏み込んだ小路は、しんと冷えた闇に閉ざされている。イリアンはほっと息をついた。
活気溢れる表通りから遮断された、必要な者しか通らない道。湿り気のある埃を踏みながら、迷路のような小路を巡り、たどり着いたのは、正十字を戴く古い教会――聖ジョルジェ教会。
灰色の石で造られた小さな教会は、迷路の奥に忘れ物のようにたたずんでいる。それも当然で、ここはもはや教会としての機能を失っていた。最後の司祭が亡くなってから、一年が経っていた。
門扉を開け、前庭をぐるりと裏手に回る。イリアンの足音を聞きつけてか、狼に似た犬が走り寄ってきた。
「ただいま、サヴァ」
ひざまずいて愛犬を撫でる。サヴァと呼ばれた犬は、嬉しそうに主人の顔を舐めた。背中と頭が黒く、顎から腹、足にかけては白い。両目の上の黒い毛並みにふたつ、白い斑点があるのが特徴的だった。
サヴァにだけ朝食を出してやると、無造作に服を脱いで寝台に倒れ込む。なにを考えるひまもない。すぐに意識は暗転する。
仕事はかなりの疲労をともなう。身体ももちろんだが、それより精神が疲れることのほうがこたえる。仕事の依頼は人が持ち込むが、事件で相対するのは、すでに人ではない場合が多い。
人ではないもの――だがそれとて、もともとは人だった場合がほとんどである。出自も人ではなかったというものは、皆無ではないが稀だった。
もとが人間であるだけに、変じてもなお切り離せないしがらみが、そこにはある。それは、人が死ぬまで秘めておきたい類の欲望や邪心だったり、または秘密だったりする。大半は、依頼者と、そのものの間に存在するしがらみだ。一方はそれを切りたいと願い、他方はそれを引き寄せたいと欲する。
イリアンの仕事は、その目に見えないしがらみの糸を永遠に断つことだった。
本来は、家族や親しい者たちの間に起こるはずの事態に、招かれざる他人として介入することで、イリアンの受け取る疲労は、より密度の濃いものとなる。邪気や毒気は、彼に容赦なく叩きつけられる。
だから、ひと仕事終えたあとの彼は、とにかく眠りたいだけ眠るのだ。昼も夜もない。たとえ睡眠中に新たな依頼人が訪れたとしても、よほどのことがない限り、彼は目覚めたりしない。
彼の忠実な相棒は、主人を守るために寝台の下に控え、不作法な侵入者に備えている。
人の依頼で、人ならぬものを狩る職能者――それがイリアンの生業だった。
人ならぬものとは、生ける死者、起きあがった屍体。家族や親しかった者のもとを訪れ、騒いだり血を吸ったり交わったり、さまざまな害を為す。この国ではジャドゥと呼ばれ、イリアンの生国ではヴコドラク、またはヴァムピールと呼ばれていた。