夜と令嬢 夜界ー2
さて、実りの国で騒ぎに火がついた頃、遠く離れた場所でミルファは目を覚ましていた。
ぼんやりと目を開けても、何も映らない。目の前が黒く塗りつぶされている――そんな風に彼女は思っただろう。
なにしろ、こんな闇をミルファははじめて見るんだ。貴族の使う発光室は十分な明るさがあるし、だいいち庶民が発光室がわりに使う地下洞だってこれほど暗くはならない。
これはなにかしら。あたしはなにを見ているのかしら。ミルファはぼんやりと考えた。なぜこんな黒いものが目の前に迫っているのだろう。手をのべると届かず空を切った。そこでようやく、この黒はあたり一面に広がっているのだ、と理解する。
あたし、なにを見ているのかしら。なにも見ていないのかしら?
「うわ、まぶしっ」
誰かの声がした。
まっくらじゃないの、とミルファは心の中で言った。そうだ、真っ暗なのだ。これが真っ暗というやつなのだ。どこまで広がっているのかすらわからない、ただののっぺりとした黒。これが、暗闇。
「間違えた、間違えた……」
誰かの声は響いて消えていった。
そりゃあそうでしょ。こんなに暗いのにまぶしいわけがないわ。
どうして暗いのかしら。どうしてなにも見えないのかしら。
ああ、そうか、あたし寝てしまっているんだわ。目を閉じているからなにも見えないんだわ。これは夢なのね。うん、きっとそうだわ。
ミルファは、夢ならば夢なりの景色が広がるはずだということを忘れて、そんなことを思った。
こんな闇は現実にはありえない、そう感じていたからこその逃避だったかもしれない。
けれどやがて、ミルファは震えた。それは寒さのためだった。肌をじわりと浸食していく、たちのぼってくる、えもいわれぬ冷たさ。違和感に、ミルファは少しずつ意識をはっきりとさせていった。絨毯のような手触りのいいものの上に寝そべっていたことに気づく。手さぐりで起きあがる。まばたきを繰り返し、それでもなにも見えてこない。
両腕を広げてみる。前に、後ろに動かしてみる。ぶつからない。なにもない。じめじめとした重い空気をつかんだだけだった。
息が苦しくなるのをミルファは感じた。これは夢ではない。
さっきまであたしは何をしていたかしら?
記憶の糸をたぐる。
それは、小さな炎を見つけて駆け寄ったところで、ぷつりと切れていた。
足元の床から足が離れたような、奇妙な浮遊感があった。階段を踏み外した時のような。それであっと思って――そこから先が、ない。
たぶん、落ちた。床が抜けたのだろうか? それにしてはどこにも痛みを感じない。どうやら眠ってしまったようだが、幸いなことに、まだ生きている。
けれどこの闇はなんだろう。夜がまだ去っていないのだろうか。だとすれば早く発光室に行かなければ。
発光室に――右も左もわからないこの闇の中で、どうやって?
ぞくりと寒さに震えて、両手を胸元に抱きしめたその時、トン、トン、となにかを叩くような音が頭上から響いてきた。
猫が階段をおりているみたいに軽やかだ。ミルファは祖母が昔飼っていた白い猫のことを思い出した。
おりている、そうだ、この音は近づいている。なにかが上からやってくる。
ミルファはほっとした。猫だろうがなんだろうが、一人よりはましだ。
できれば人の方がもっとありがたいけれど。
「ああ、起きたんだね。大丈夫?」
ミルファは思わず立ち上がった。人だ。若そうな男の声だ。
助かった。
そればかりを考えて、ミルファはかけられた言葉の中身にまで気が回らなかった。冷静であれば、おかしなところに気がついただろうに。
「あのっ、あたし……わたくし、足を踏み外してしまって、困っていたところなの。発光室まで案内してくださらない?」
人の気配はすぐ目の前まで近づいて止まったが、返事がない。ミルファはじれて付け足した。
「わたくし、ミルファ・アクラと申します。あなたは? 招待客ですの?」
国内の貴族であればミルファの名を知らぬはずがない。城の兵士でも同様だ。そしてもし国外からの賓客であったとしても、サリアンの宰相を務めるアクラの名は知っているだろう。
そう思ってわざわざ名前を出したのに、相手は驚く様子もなかった。
なによ、恥をかかせるつもり? こうしてこのあたしが頼んでいるのに。あとで顔を見てから後悔しても知らないから――
そこまで考えて、ミルファはようやく気付いた。
どうしてこの男は、あたしがここにいるとわかったの?
どうしてあたしの目の前まで来て立ち止まっていられるの? こんなに暗いのに。あたしには何も見えないのに。
あたしには。そう、向こうには見えている。この暗闇の中が。
ミルファは息をのんだ。見えていないのだ、自分だけが。それの意味するところは、つまり。
わななく唇を励まして、ミルファは言った。
「あた、しの目……」
見えていないの? 夜はもう去ったの? ここはどこなの?
聞きたいことは次々と浮かんだが、うまく喋れなかった。
「震えているね」
やっと相手が話した。けれどミルファの望んだどの答えでもなかった。
「寒いの? そうか、気がつかなかった」
寒い? 確かにそういえばそうだった。気温のことなど、ミルファはすっかり忘れていた。
男の言葉は的が外れていたが、ミルファの不安を煽る効果はあった。震えているのが「見えて」いると証言したのだから。
「でもここを動いてもらうわけにはいかないんだ、ごめんね。待っていて、すぐになにか取ってくるよ」
ミルファが止める間もなく、男は身を翻した――翻したと感じた。風が頬に当たって、足音が遠ざかり、そしてふと消えた。
取り残されるとますます不安になった。暖かくすることなんかより、居てほしかったのに。
ミルファは両手を顔の前まで持ち上げて動かしてみた。闇は動かなかった。目の周りをこすってみたが、なにも巻かれていないし異変もない。
いよいよ絶望的な気分になって、膝を折る。足元の絨毯のようななにかに手が触れる。ここは、城ではないのだろうか。夜が終わった後ならば、皆が発光室の外に出てきて、倒れているミルファを発見したはずだ。意識が戻らないのだから家に運ばれただろう――けれどそうだとすれば、誰も傍についていないのが不自然だ。
「お兄様……」
そうだ、屋敷に戻ったなら、ミルファが気を失って倒れたと知ったなら、兄はきっと傍にいてくれるはずだ。
ここは家じゃない。だとすれば、まだ王宮にいる? 知り合いが誰もかけつけていないのは不意打ちで夜が来た混乱が残っているから? じゃああの人は誰?
そもそも、ここを動いてはいけないとはどういうことなのだろう。
まるで地下のように冷え冷えとした場所。手探りで足場を確認すると、平らな床に敷かれている、少し厚みのある絨毯のようなモノは、両手を広げるとどちらも端に届く程度の寸法だった。その敷物の先に手を伸ばすと、ざらりとした嫌な感触があった。ひやりとした固い石の表面に泥と砂が混じり、しかも湿っている。
ミルファは手を戻して、念入りに敷物で拭いた。爪の中に砂が入っているような気がして、左右の指の爪を滑らせてかき出すようにする。溜め息がもれた。独りでそんなことをしていると、どんどん落ち込んだ。
このまま視力が戻らなかったらどうしよう。きっとお祖父様がいい魔法医を探してくれる、でももし治らなかったら――どうなるんだろう?
いろんな悪い想像が駆けめぐって、ミルファは首を振った。ともかく今は、自分の状況を把握することの方が先だ。ちっぽけな敷物の上に寝かされていた。石床はまるで手入れがされていない。あの男はあたしがいることを知っているようだった。そして――
そこでようやく、ミルファははじめに聞いた妙な声のことを思い出した。厚い布を口にあてて喋ったようなくぐもったあの声。まぶしいとかなんとか言ったではないか。あとは何だったか。
「やっぱり、ここは明るいんだ」
ぽつりと呟く。
あの声の主はどこへ行ったのだろう。本当にここには誰もいないのだろうか。見えていないだけで、今も誰かがこちらを見張っているのではないか。
「ねえ、誰かいる?」
思い切って張り上げたつもりの声は、弱々しく響いた。もう一度息を吸い込む。
「誰かー、いませんかっ」
今度はちゃんと大きな声が出た。そうすると、うなりをあげて言葉が反響した。低く、低く。
返事はなかったが、ミルファはそれを求めていたことをもう忘れていた。冷たい空気を胸に満たして、力一杯にわーっと叫んだ。そしてそれがこだまして消えていくのを注意深く聞いた。
ここは狭い。
ここは穴の中だ。
少なくともそれに似た、なにかの底だ。
ミルファは確信して顎を上向けた。思えばあの男も、横からではなく上からやってきたではないか。




