第44話 鮮やかな横顔
初めてのデートは水族館だった。
水族館に誘ったのは千里からだった。千里曰くその場所ではなんでもそこだけで見れる特別のシャチのショーがあると調べてくれたようで他の水族館ではなく此処に行きたかったそうだ。
千里は水族館に来てチケットを買った後、すぐに水族館の中へと入った。
俺はどうしてそんなに慌ててるんだ?と聞くと千里は見せたいものがあるんだと紙に書いていた。すぐにシャチのショーの場所へと向かった。行って分かったが此処の水族館のシャチのショーの座席は俺達が行った時点でかなり混んでいたのだ。
あまりにも座るところがなかった為、シャチのショーの会場に着いた俺達は何処に座ろうかと悩んでいた。と言うのもこのシャチのショーは前側に行けばかなり濡れると係員さんから聞いていたのだ。シャチにより水飛沫攻撃がこれでもかとサービスされると……。俺は濡れることに別に躊躇いはないのだが千里は女性である為、店で雨具を買ったとはいえ濡れるのは嫌だろうと思い少し躊躇っていると、千里が紙に何かを書き出していた。
このときの千里は既に声を失っており俺は水族館に誘われたときかなり迷っていたのだ。
彼女をあまり外に連れ出していいものかと不安になっていたが彼女の父親から千里と一緒に居てやってくれと言われて俺は了承したのだ。
「前に行こう……って本気か?」
冗談かと思って俺は聞き返してしまう。
千里は優しく笑いながらも紙に続きを書き始めると「濡れた方が楽しくない?」と書かれていたのだ。
俺はそれに対して「そうだな」と返していた。悩んでいたはずなのに千里に言われたことで了承したのには理由があった。千里の服が濡れる心配こそしていたが本人が「楽しいじゃん」と付け足しながらも笑いながら言ってくるのを見て俺の不安は消えていたのだ。
きっと後ろから見ている人達かすれば俺達のことを勇気を無謀と履き違えている馬鹿なカップルなように見えていたのかもしれない。
でも……。
「つめてぇぇぇ!!」
いよいよ始まったシャチのショーであったが、自己紹介と言わんばかりにシャチが水飛沫をこちらに浴びせてくる。手加減など全くせず客を持て成そうとする姿勢には感服するが雨具が無ければずぶ濡れだっただろう。
千里の方を見ると俺に「大丈夫?」と言いたそうな表情で見つめていた。
「ああ、俺は大丈夫だけど千里は大丈夫か?あいつらマジで容赦ねえな……」
隣にいる千里は首を振りながらも「そんなに」と言っているように見えていた。
もしかして俺にだけ集中的に狙って水を飛ばしてきたのか……?とそんな器用なことが出来るはずがないのに思わず考えずには居られなかった。
シャチのショーは続いていた。
飼育員さんとシャチとの華麗なる連携が俺達の目の前では繰り広げられていた。シャチの上に飼育員さんが乗り何度も回転したり、一緒に泳いだりしている姿を見て俺は凄く感心していた。これほどの芸当、きっと長年に渡る経験と信頼があってのものなんだろう。
「信頼か……」
シャチと飼育員さん達の連携を見ながら俺はあることに惚けていた。
自惚れるつもりもないし、勘違いするもないがきっと千里は俺のことが好きなはずと何となく感じ取っていた。香織に付き合ってるんだからさと言われる度に俺は否定してきたが俺はそろそろちゃんと告白しなくちゃいけないのではないのかと悩んでいたのだ。
「!!!?」
シャチの尾から放たれる冷たい水飛沫が、隣にいた千里の体や顔に散らばった瞬間、彼女の表情は輝くように楽しそうに笑っている。笑い声が軽やかに響き、無邪気な感じに楽しそうにしているのが俺にも伝わり、ほっこりとしながらも俺はまるで時で止まったように目を奪われていた。
彼女の横顔は眩しい光に包まれており、純粋に楽しそうに笑っている彼女に俺は心が満たされる様に見惚れていたのだ。
「ああ、そういうことか……」
俺はこのとき初めて自分の中で好きだという感情が湧いた気がする。
いや、湧いていたのは何もこのときが初めてではないのは分かっていた。俺が初めて千里の歌声を聞いたとき、千里の人となりをしったとき俺はそのとき既に千里と言う人間に惹かれていたのだから。
「千里これすげえ楽しいな!!」
千里は一生懸命首を縦に振りながらも嬉しそうに笑っていた。俺にとってこの記憶は一生のものに残るはずだった。この二年間、楽しかったあの記憶は記憶の片隅から消して俺は違う人生を歩もうとしていた。
あの記憶すらも忘れようとして……。
「千里今日はありがとうな、誘ってくれて」
千里はノートに「私こそありがとう」と書いていた。
シャチのショーを見た後、俺達は水族館で水槽の中にいる静かに魚たちを眺めていた。こんなにも長い時間一つの水槽を見つめているのはきっと俺達ぐらいかもしれないと思いつつ、千里の方をチラッと見る。彼女の綺麗なポニーテールが揺れるたびに、周囲の淡い証明が彼女の影をより美しく際立たせていた。
こんなにも彼女のことを観察してしまうのはきっと俺が千里に対して好意があるからなんだろうとは気づいていたが俺は今もそれを言わずにただ時間が流れるのを待ちながら彼女の方を見ていた。彼女は魚が自分の目の前を通る度に心が安らいでいたのか、水槽の世界というものに夢中になっているようだった。
水槽から目を離した千里はペンギンについて書かれている掲示物を呼んでいたのか、ノートにあることを書き始めていた。
『ペンギンって群れで協力して暮らしてるんだね』
千里のノートを見て俺も掲示物に書かれている内容を見る。
ペンギンの豆知識が書かれており、口の中がギザギザだとかペンギンは全部で18種類いるとかそういうことが書かれていた。
「どうしたんだ千里?」
千里が興味深そうに掲示物を見ている為、俺は千里に「どうかしたのか?」と聞くと、千里はノートにペンで文字を書き始める。暫くして俺に内容を見せて来たので俺は文字をゆっくりと読む。
『あーいやさ……アタシ達のバンドもみんなの協力がなければきっと此処まで来れなかったんだなって改めて思ってさ。最初このメンバーでやって行くんだってなったときアタシはちょっと不安だったんだ。こんなの当たり前だけど好きなものだとか趣味だとか皆バラバラだったから……。でもいざライブが始まれば息ピッタリだった。苦い思い出もあった最初のライブだったけどアタシにとってはいい思い出だったんだ』
彼女の書いた文字には重みがあった。
俺は知っていた。彼女がどれだけの努力を重ねて最初のライブに挑んだのか。クセの強いメンバーが多いバンドではあった為、惹かれる人は多かったものの最初のライブで千里は何度も音を外したりしてしまっていたようで千里はライブが終わった後、そのことを何度も悔いていてライブが終わった後ただ一人カラオケ屋で反省会をしていたのも知っていたからこそだ。
『勿論竜弥の協力があったからこそ此処まで来れたと思ってるよ?此処までの光景を見せてくれたのは全部竜弥のおかげだからさ……』
「千里のおかげだろ?俺はただ千里にならその才能があると信じてただけだ、なんもしてねえよ」
『そういうところなんだろうなぁ……』
このときの千里が何を思っていたのかは今ならなんとなく分かっていた。
きっとあの日俺に歌声が好きだと言われて頑張ろうという気持ちで此処まで来ることが出来たのだろう。本当に感謝しているというのはそういう意味での言葉だったのだろう。なにより、千里が意味深で言っていたあの言葉はきっと謙虚なところが好きだと言ってくれていたのだろう。
こう考えるとなんとも恥ずかしくなってくる……。
ただ当時の俺も分かってない訳ではなかった。
全部が全部分かっていなかっただけで千里が何を言いたいのかは分かっているつもりだったのだ。何故なら俺の瞳は千里のことが陽の光のように見えていたのだから。
「千里!俺も……俺も千里が居なかったらきっと此処まで来れなかったと思う。大袈裟かも知れねえけど、俺は千里のおかげで自分になれることが出来たんだ。本当に感謝してる」
中学三年生のときに千里に出会い、千里の歌声に惹かれ千里のことを知ってから俺の人生は日陰から日なたに歩けるようになっていた。中学時代の俺は常に母親を見る度に苛々していたからだ。
千里からすれば何を言っているのか分からないかも知れないと思って、自分でもこんなことを言ってどうして欲しいのか分かってないくせにと心の中で葛藤しながらも俺は千里に伝えていたのだ。
でもこれだけは彼女に伝えたかった。
俺に生きる意味を与えてくれた彼女だからこそこの言葉だけは言いたかった。
「此処まで来れたのが千里のおかげだからこそ俺は千里を守りたい!!なにより俺はもうあんな悲劇を二度と繰り返したくはねえ。だから……!!俺はどんなことがあっても俺が千里の傍にいる。絶対に守るから……!」
水族館の薄暗い照明の中で千里のあのときの横顔を見て俺はこの青臭い台詞を吐く決心がついた。周りの人はきっと俺が告白紛いの台詞を言っていることに気づいていたのかもしれない。実際、俺の言葉を聞いて微笑んでいるように笑っている人達もいた。それは悪い意味ではなく青春しているんだなと言った感じで……。
千里がこの後、どんなふうに言葉を投げかけてくるのか俺には分からなかったが俺はちゃんと伝えたい気持ちを伝えることが出来た。俺の心は静かに熱く燃え上がっていて今にもその火は俺全体を燃やし尽くそうともしていた。心の火を抑えつけながらも俺は千里の答えを待っていると千里は俺の手を壊れ物を扱うようにして握ってくれていたのだ。次の瞬間、喋れるはずもない、千里がこう言っているように聞こえたのだ。
────ありがとう、と。
◆
俺は最低だ。
自分を今まで正当化させる為に千里のことを捨てて新しい人生を歩もうとしていた。かつての高校時代の俺も坦々だった頃の俺も殺して今の自分を作り出そうとしたのに俺はあの二つの人格だった頃の俺に縋ろうとしていた。
これじゃあ恵梨に失望されて裏切られたと感じられても仕方なかった。
俺はあそこまで言い切ったのに千里のことを捨てたのだから。
『竜弥がアタシの歌声が……好きだって……言ってくれたからだよ!?』
捨てたからこそ俺はもう千里と関わるべきではないと決めていたはずなのに俺は千里を捨てきることが出来なかった。昔本で読んだことがある気がする。繋がりというものは深い根っこになるほど断ち切ることが出来ないんだと……。
俺は旅館に来たとき、千里にああ言われて本当に嬉しかったからこそ俺はこれ以上千里のことを悲しませたくない。何度も彼女を悲しませるようなことをしてきたのだから。
「竜弥、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
今は少しでも自分のことを許せている間に千里と一緒の時間を過ごしていたい。自分を取り繕う為の言い訳に過ぎないかもしれないが俺は今ならかつて自分が起こした過ちを許せそうな気がしていたのだ。
千里のあの言葉があったからこそ……。
「竜弥どれ見るの?」
「ああ、それなんだが……」
既に映画館に来ていた俺達。
千里はどれを見るんだろう?と今現在やっている映画と睨めっこをしている様子を見て俺は少し面白いなと感じながらもチケットを買っていた。今の時代、紙で買うよりネットで買った方が色々とスムーズだけど俺は紙のチケットを買う事で記憶としてあのときこの映画を見に行ったんだなというのを残したい人間だ。
俺は千里に「これ見るけどいいか?」と言った。
内容は高校生バンドの青春を描いた映画のようでバンドを組んでいた千里からすれば共感できる要素がかなりあるかもしれないと思いこの映画を選んだのだが千里は快く「いいよ」と言って了承してくれた。
「席此処だよね?」
「ああ、そうだな」
俺がチケットを買っている間に千里は俺の分を含めた飲みものを買って来てくれたようだ。因みに千里はいつも通りペプシを飲んでいる。
「竜弥とこうして二人っきりで映画見るのって初めてだっけ?」
「確かに言われてみれば二人っきりで映画を見に行くことなんてなかったな」
千里と二人っきりで何処かに出かけるなんてことは割とあったが二人で映画を見に行くというのは初めてだった気がする。
「アタシら二人で遊ぶにしてもカラオケ屋ばっかりだったもんね」
「だな、後は考査が近い時に千里の部屋に行って勉強したりとかだったか……?最近は勉強の方大丈夫なのか?」
「もしかしてアタシが今でも馬鹿だと思ってる?少なくとも竜弥に音楽の授業を教えられるぐらいは全然出来ると思うよ」
「千里から音楽教わるの楽しそうだな」
どうして音楽だけなんだ?という追求を俺はしなかった。
追求をしたら不機嫌になりそうな気配がしていたからだ。高校時代、俺が勉強を教えていたし成績も徐々に上がっていたし流石に大丈夫だろうしな……。
「じゃあ教わってみる?アタシから」
「いいのか?大学とかも忙しいだろ?」
「基礎から竜弥と一緒に学んでみるのも楽しそうだしアタシは全然いいよ、楽しそうじゃん?ボイトレの先生みたいで」
千里からすれば俺と一緒に音楽の勉強をしつつ基礎も振り返ることが出来るから悪い話じゃなかったのかもしれない。偶々口から出た言葉だけだったのに此処まで話が膨らむとは思わなかったけど確かに楽しそうだ。
「分かった……千里が暇なときでいいから教えてくれないか?」
「いいよ、付きっ切りで教えてあげる」
これから行われるであろうことに楽しみを見出しているのか千里は笑顔で「何を教えようかな」と言っているのが聞こえると、映画館の中が暗くなっていく……。どうやら映画が始まろうとしているようだ。俺達は喋るのを止めて映画に集中し始めた。
こういう青春バンドものの映画を見たことが無かった為、よくあるものなのかないものなのか分からなかったが俺は内容よりもあることが気になっていて仕方がなかった。映画というものが上映されている間にこんなことが気になるのはどうかと思うが気になって仕方なかったのだ。
気になって仕方なかったのは千里の横顔だった。
惚けてないで映画を見ろと怒られそうだが俺はかつてあの日見た千里の横顔を彷彿とさせているように見えていたのだ。水族館に誘われシャチや水槽の中にいるペンギンに魅了されている千里の横顔を……。
薄暗い映画館の空間の中で彼女の目が瞬きする度に、俺の心は鼓動を速めていた。まるで映画のワンシーンごとに微妙に変わる表情は俺にとって宝物のように見えていたのだ。彼女の純粋な笑顔を見る度に俺は実感させられていた。
俺はこんなにも綾川千里のことを愛していたんだ、と……。
俺は何度だって嬉しそうな彼女の表情を見る度に胸に深く刺さっていた。彼女の表情はまるで魔法そのものに感じられていたからだ。彼女の表情、生き様こそが俺にとって映画そのもの様に見えているのだ。
「良かったね、映画。アタシ主人公が最初音痴だったり楽譜読めなかったりするところ凄い共感出来たな。最初のライブだって失敗ばっかりで辛かったんだろうなって分かるし……って竜弥聞いてる?」
「え?あ、ああ……」
間抜けな声を出しながらも飲み物を片付けていた俺。
千里の横顔ばかり見ていて映画に集中していなかったなんて俺には到底言うことが出来なかった。
「……アタシのことばっかり見てたでしょ?」
「なっ!!?み、見てないからな!!」
本当に見ていたし図星だった為、俺は分かりやすい声を上げてしまう。これじゃあはい、そうですと言っているようなもんじゃないか俺……。
「ふーん?本当に?」
「み、見てないから……!!あーもう俺手洗い行ってくるから……!!」
自分の気持ちを落ち着かせるためにも俺は一旦手洗いに行くことにする。
「千里……」
彼女の鮮やかな横顔を見て俺はなんとなく分かったことがある。
俺は彼女の変わりゆく表情が好きなのだと……。さっきだってジト目で俺のことを見ていたし、千里は割と表情が変わりやすい方だ。中でも俺が好きなのは彼女の笑顔であり、彼女の嬉しそうな表情、楽しそうな表情を見るのが本当に好きだ。色が付いたような表情が本当に好きなんだ。
色を付くような表情とはいえ俺はもう千里を悲しませるようなことはしたくない。
彼女が怒っているところなんて想像もつかないし、見た事もないが俺は千里の怒っている表情も見たくない。
俺は千里に純粋なように嬉しそうに笑っていて欲しいし、楽しそうに笑っていて欲しいし……。楽しんで欲しい。ただそれを願いたい、守りたいんだ。かつての俺は出来なかったが今の俺になら出来るはずなんだ。
決意を込めるようにして拳を強く握り締めて洗面所から出ようとする。
『どうして?目を背けるの?』
誰も居ない静寂の空間の中、声は突如として聞こえて来ていた。
洗面所の鏡を見るとそこには中学生ぐらいの少年が映っており、見覚えがあったのだ。
「……またか」
鏡越しに映っている自分が中学生頃の自分だと言うのには気づいた。
此処最近起きている奇妙な出来事のせいもあって俺は最早幻聴や幻覚が見えていても特に驚くことはなかった。
『なんで目を背けるの?』
少年は同じことを言うばかりだった。
まるで今の俺に対して目を背けているだけだと言わんばかりに……。
「なぁ俺……俺側からの声が聞こえているのかよく分からないがこれだけは言わせてもらうぞ。俺はもうこれ以上止まるつもりはない。Vになって……ようやく自分を取り戻すことが出来そうなんだ。誰に何を言われようとも今更止まるつもりはない。俺は千里を絶対に守ると決めたし、これ以上悲しませたくもないんだよ……」
二年前のあの日……。
二年間消え続けた事……。
與那城のことを庇った炎上……。
気絶したこと……。
これ以外にもきっと俺は千里のことを悲しませることをしてしまったに違いない。旅館で見せたあの涙……。見せた事はないがあれ以降もきっと不安になることはあったからこそ俺はもう……。
「千里から逃げたくないんだ……!!だから俺は《《お前ら》》に何を言われようとも繋がりを断ち切るつもりなんてない……!!あいつが居てくれたから俺は今まで自分であり続けることが出来た!!これ以上……俺を惑わすのはもうやめろ!!!」
鏡越しに映る熱く語り書ける。少年は何も言わずただ下を見つめているだけだった。自分に対して話しかけるというのは何とも滑稽なものにしか見えないかもしれなかったが俺はあいつらに対して言いたかったことを言うことが出来た。
俺は少し息を荒くしながらも鏡を見つめ続ける。
下を向いていた為、少年の表情を見る事は出来ずにはいたが彼は徐々に俺の目の前から消えていくのを見て俺は拳を前に突き出しながらも消えた少年たちに対してこう言うのであった。
「もう邪魔すんな……」




