2.亡者と稲妻(1)
「あり…えない…!」
思考と口先は否定を叫びながらも、冷たい床が顎に触れたことで否応なしに現実ということを突き付ける。
先ほどまで通っていた血の気は失われ、その内の幾らかは這って来た廊下に置き去りにしていた。
こうしている内にも刻一刻と死神の足音が近づいてきている。
それは比喩や修辞学的な表現ではなく、だ。
文字通り這う這うの体で閉めた扉が無遠慮に蹴り破られ、紺の髪をした死神が姿を見せた。
「気は変わったか?お仲間の所に行きたいなら今からでも送ってやる」
青年の姿をした死神がだらりと提げた直剣は既に血に濡れており、粘性の液体が切っ先で赤い雫を作っている。
見下ろしながら放った言葉に威圧の雰囲気は一切なく、逆にそれが機械的な不気味さを漂わせていた。
「わ、分かった、投降するから命だけは…」
男の命は俎上の魚も同然。
逃げ場は袋小路故になく、部下は漏れなく昏倒するか血だまりに沈んでいる事をこの目で見た。
厳重配置の中、事前情報も抑えて対抗措置も取ったというのに、この死神はそれを当然のように突破している。
…が、それぐらいで自由を投げ捨てられる程潔い生き様をこの男は送っていなかった。
「(そこだ!)」
男は降参とばかりに掲げた手をそっと青年に向ける。
薬指を畳んだ独特な指先が体内の術式を励起させ、血とは別の物が体を巡るような感覚を発生させる。
詠唱の破棄は誰にも見せてこなかった秘中の秘。
「……」
男の手から不可視の風の刃が放たれ、青年の首に迫る。
たちまち必勝の笑みを浮かべる男と対象的に、青年の表情は実につまらなさそうな物だった。
青年のぶらりと下げた右手が迸るように跳ね上がり、風の刃もろとも男の手を真っ二つに裂いた後もそれは変わらなかった。
「いっ…!?ぐぁ!」
剣を振り上げた体勢のまま青年の右脚が杭のように男の腹に刺さり、たまらず吐き気を催しながら前のめりに倒れ込む。
そのまま容赦なく剣の柄頭で男の左手も躊躇なく打擲し粉砕する。
「どうして小悪党の考えはこうも似通るんだ」
心底うんざりした口調で青年は零した。
床に伏した魔術師は見るも無残な姿だったが、それでも死神の手にかかったにしては幸運な容体だと言えた。
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「ノックスさん、一人で大丈夫でしょうか…」
ペンをくるくる手遊びながら、誰もいない詰所でコヨイは呟いた。
ノックスはコヨイの異動で単独任務から解放されたのも束の間、初任務で早速足を負傷してお留守番と化したためまたも一人で任務に勤しんでいる。
改めて言葉にしてみると自分の迂闊さが憎い…。
任務の度に同行出来ない事を詫びてはいるが「たまたま初任務が特別危険だっただけ」と返されるので気持ちのやり場がない。
せめてもの役に立とうと書類仕事に精を出してはいるが、逆にそれがノックスの任務の回転率を上げている節もあった。
「(でも次の任務は出れそうですかね)」
傷のあった箇所を撫でながらこれまた器用にペンを回す。
幸い比較的単純な傷跡だったこともあり、大事には至っていない。
治療院にも定期的に通いもう完治は目前だ。
と、そこで玄関近くの砂利道を踏みしめる音が聞こえた。
「ノックスさん?」
背筋を正してドアの方を見ると、特にノックもなしに扉が開かれた。
「邪魔するぞ」
残念ながらというか、飛び込んできたのは女性の声だった。
女性としては背が高く、ショートに揃えた漆黒の髪。
制服は見慣れた紺色だがノックスのそれとはワンポイントで異なる徽章が誂えられている。
「はい、すみませんがどういったご用向きで…?」
コヨイがそう訊ねると、女性は日に透かした葡萄酒のような瞳を鋭くこちらに向けた。
怜悧な表情は大人の女性という印象を強くコヨイに抱かせる。
可愛げというよりは色気、女性らしい華を感じさせる美貌だ。
飾らない美しさという意味では生け花を連想させる。
「むっ、そういえば貴様と会うのは初めてか。挨拶が遅れてすまないな、私はウィステイリア。ウィステリア=エル=シーンメイン。ここ執行局の局長を務めている」
女性が名乗った家名を聞いて、コヨイはいっそう背筋の伸びを確かにした。
エルに連なる家名は伯爵家以上の位を持つ貴族だ。
シーンメイン家と言えばその名は王国では有名な侯爵家。
ほぼほぼ貴族階級の末端である騎士たるコヨイにとっては頭の上がらない相手だ。
「いえ、滅相もありません。こちらこそご挨拶が遅れて申し訳ございませんでした。コヨイ=ベル=クロイツラインです」
コヨイは名乗りと同時に左手を胸に当てる形で敬礼の姿勢を取る。
うむうむといった感じでウィステリアは頷きながら話を始めた。
「報告は聞いているぞ。融銀の頭の義弟を仕留めたらしいな、憲兵隊はほとんどあいつにのされたそうだからな」
「いえ、それに、任務自体はノックスさんがいなければ失敗していたでしょうから」
ノックスの名前を出すと、薄く微笑みを浮かべていたウィステリアが思い出したように目を見開いた。
「そういえばノックスの奴がいないな。任務中か?」
「はい、つい今朝出立しました。ノックスさんにご用件でしたか?でしたら、私の方から伝えておきますが…」
口ぶりから察するにノックスとは面識があるようだ。
こうも美しい女性と知り合いだといろいろ疑いたくはなる部分もあるが流石にまだ早計か…
「いや、あいつの知り合いを連れてきてやったから反応でも見てやろうと思ってね。いないならいい。こいつだけ置いて行こう」
ウィステリアはくいくいと背後に向かって手招きをし、彼女の影に隠れていた人物が室内に入ってくる。
長身かつブロンドの髪をオールバックにまとめた青年といった風貌だ。
目鼻立ちは精悍といって差し支えない程には整っており、市井の婦女子に受けが良さそうだという印象が出てくる。
「ご紹介に与りました、スミス=ベル=スワイトベルトです。魔導省戦略企画局からの異動になります、何卒よろしく申し上げる」
テノールで朗々と読み上げられる挨拶も実に淀みがない。
年はノックスより幾つかは上だろうか。
若くはあるが少年と形容するものではない洒脱な物を感じさせる。
それはそうとして丁寧に挨拶されたので、こちらも挨拶を返す。
騎士の家系ということもあってコヨイは礼儀作法も一通り修めてはいるので慣れたものではあるが。
「こちらこそよろしく、コヨイさん。ところで閣下、先ほどのノックスとはノックス・レイシールドの事で相違なかったでしょうか?」
「そうだぞ。よく知ってるだろう?」
あっけらかんと答えるウィステリアだったが、彼女が首肯するや否やスミスは露骨に表情を歪ませた。
元が整った顔立ち故にとても機嫌を損ねたのが分かりやすかった。もしかすると不敬まであるが、ウィステリアはそこまで神経質でもないらしい。
「そういえば先ほどお知り合いだと…」
「知り合いだと?とんでもない!あいつには煮え湯を飲まされた!因縁の相手だ!」
思ったよりあっさりと平静を崩すスミス。
これは彼が怒りっぽいと見るべきか、ノックスが手ひどいやらかしをしたのか判断に悩む所だ。
残念ながらどちらか判断するには彼の事を知らない。
出来れば前者であって欲しいかと思うのは意中の相手だから仕方ない。
しっかり目上の立場のウィステリアが見てる前なのだが、当の彼女は「長くなりそうだから戻る」と言わんばかりに踵を返した。
あの人割と分かっててこの話を振ったのかもしれない。
「まあまあ、今お茶を淹れますからとりあえず座って下さい」
ただそれはコヨイに取ってそう悪い話でもなかった。
何せノックスの事を知る人物と会ったのはこれが初めてだ。
真偽は一旦置いておいても有意義な物かもしれない。
そう思って着座を促す。
スミスはまだ眉を怒らせているが、それには素直に従ってくれた。
良い人なのか悪い人なのか判断が付かない人物だ。
まあそれは話を聞いていく過程で見極めれば良い。
今はとりあえず茶葉を選ぶことにしたコヨイだった。
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「うっ」
ノックス、帰還する。
そこで目撃したのはティーカップを片手に管を巻く見覚えのあるオールバック貴族。
と、打って変わって花がほころぶように笑うコヨイ。
状況の不自然さはさておき、帰還に気づいたスミスとノックスが顔を合わせた瞬間お互いの顔が歪んだ。
表情の機微を言語化するのは難しいが、概ね「うわっこいつか」みたいな顔だった。
そこまで行ってノックスはようやく状況の把握に入った。
コヨイに聞くと、スミスが自分と知り合いであると聞いて詳しい所を聞こうとこの席を催したらしい。
ただその間柄というのが問題で・・・
~~~~(回想)~~~~
「忘れもしない97回の王国統一武技祭!決勝まで順調に駒を進めていた僕の前にあいつが現れたんだ!」
「ノックスさんですね!それでどうなったんですか!?」
「どうもこうもない!負けたんだよあいつに!」
「まあ!ノックスさんが優勝したんですね!決勝戦はどんな戦いになったんですか!?」
「うっ、あいつはほとんど剣一本で突破してきたよ…」
「特に卑怯な搦め手があった訳ではないんですね?」
「うぅっ、そうだ…。厳正な規則に則った試合で負けたからあいつは何も悪くない。でも悔しいだろ…?」
「本当にそれだけでしたか?かなり拗らせているように見えますけど他にもあったりとかは…」
「…これは本当に関係ないけど、僕が決勝で敗退してから途端に実家の領地経営が不振になったんだ。いや、本当に何も関係はないとは分かってはいるが…くぅっ…」
~~~~(終わり)~~~~
「──っていう感じなんですよ」
「…悪魔か?」
純粋な評価がノックスの口をついて出てきた。
因縁の相手に関する情報をフラッシュバックさせて情報収集に勤しむ姿を見た順当な評価だった。
が、それを言葉にするとそれまで上機嫌だったコヨイがむっと膨れた。
子どもを叱るような目つきでこちらを見上げると一歩距離を詰めて来る。
「だってノックスさん全然ご自分の事話してくれないんですもの」
「………」
反論材料が見つからなかった。
スミスには自分も苦手意識を持っているが、自分の煽りを受けてあの様子にまで追い込まれたのは少し同情する。
「…今後は善処しよう」
「本当ですか?約束ですよ?」
「おい、『眼』を使うな。本当だから」
今後の改善ということで一旦許しを得た。
ともあれ、人材の補充が来たのはノックスとしてもありがたかった。
武技祭はノックスにとっても苦心惨憺のイベントであり、その象徴のようなスミスは当時の苦労を簡単に思い起こさせる。
が、対戦相手として苦労したならともかく今回は同僚だ。
であれば逆に実力が裏打ちされている分やりやすいという物。
ただ…
「クソッ、どうして僕はこんなに大一番が駄目なんだ…!僕は赫々たるスワイトベルトなのに…!」
「(面倒臭そうだなこいつ…)」
ティーカップで酒でも飲んでいるのかと疑う様に言い知れない不安を覚える。
ノックスは内心で直球な感想を抱いた。
実力に関してはノックスも認める所ではあるが、逆に言うとそれ以外の素性はほとんど知らない。
トーナメントでは言葉を交わすこともなかったし、知っているのは術式ぐらいだ。
今目の前で見て分かるのは、制服から戦略企画局からの異動ということとセンチメンタル的な雰囲気があることくらいか。
「…まあいがみ合うつもりはないとだけ言っておこう。よろしく頼む」
「うっ…そうだな、すまない。変な所を見せて申し訳ない」
「(本当にな)」
一応ノックスの年上に当たるはずだが、心の中で突っ込むのが許される程度には王国にも自由がある。
とはいえそこまでおかしな人間でもないらしい。
任務で敵対する人間の狂人っぷりに慣れているノックスにとっては会話が通じるだけでまともな部類に分類された。
「そうだ、せっかくスミスさんも来た事ですし、各々気になっていることを交代で質問するというのはどうでしょう?」
ここでやや突飛ながらも、ノックスの分のお茶を淹れながらコヨイが新しい話題を切り出す。
「それはありがたいな。丁度聞きたいことが色々あった所だったんだ」
「…お喋りをしにここに来ている訳では」
「ねっ、いいですよねノックスさん?」
ノックスが話し始めると同時にコヨイから圧が飛ぶ。
満面の笑みには言外の意図が含まれているのが大いに伝わった。
あれは「さっき善処するって言いましたよね?」の目だ。
「…始めようか」
ノックスは目を伏せてソーサーとカップを手繰り寄せた。
「ではあらかじめ聞かれそうな事は伝えておこう。スミス=ベル=スワイトベルト、戦略企画局からの異動だ。攻勢術式がメインの術師だ」
年長者らしくすかさずリードを取ったスミス。
術師を名乗った通り制服の腰周りを見ても刀剣の類は帯刀していない。
攻勢術式は文字通り対人・対物の破壊に用いる魔術で、魔術師にとって最もスタンダードな攻撃手段になる。
その他の術式は便宜上は非攻勢術式とまとめられ、より細分化した分類に枝分かれする。
こちらは主に支援や補助的な効果の術式が分類されるカテゴリになる。
「魔術師さんでしたか。でしたら交戦距離は中距離から遠距離という感じでしょうか?」
「いや、確かに魔術師は距離を保つ輩が多いがその男に限っては違う」
反応したコヨイにノックスは首を横に振った。
思い出していたのは統一武技祭の最終戦。
試合開始の合図と共にノックスは術式を発動したが、トーナメント中で散々使い古した術だ。
既に手口は割れており、スミスはこれに素早く方陣を組んで対応した。
当然それは折り込み済みのためノックスは距離を詰めるが、ここでも彼の対応は的確だった。
進行を阻む形での徹底的な魔術の行使。
その精度の高さと攻撃箇所の判断は教本通りといった様子で、頑としてノックスの接近を拒んだ。
そこまでであれば熟達した魔術師だという評価に落ち着いたが、その評価を覆したのは逆に剣の間合いにスミスを捉えてからだった。
普通なら距離を稼ごうと後退する所を、スミスは臆せず前へ踏み込んだ。
そして近距離交戦用の術式にて応戦。
ノックスが攻勢に怯めばすかさず距離を取って遠隔攻撃が可能な術式を行使する。
術式の多様さももちろんその強さを支えてはいたが、あれはそれだけで可能な芸当ではない。
術に使われるのではなく間違いなく術を使いこなしていた。
「んんっ、まあ高く評価して貰っているのは感謝しよう」
と、そんな感じの事を喋るとスミスが気恥ずかしそうに咳払いをした。
「事実を伝えたまでだが」
「…スミスさんの事は素直にお褒めになるんですね」
隣に座ったコヨイがじっと睨んでくる。
何で怒っているのかは分からないが、とりあえず目を逸らしておいた。
「他に気になることがあれば遠慮せず聞いてくれ。僕からも質問するから可能な限りは答えよう」
「はい、恋愛対象は女性で間違いありませんか?」
矢継ぎ早にコヨイが名乗りを上げる。
かなり業務に関係なさそうな質問だったが、今日の彼女は妙に怖いのでノックスは聞かなかったことにした。
「…うん?そうだが…」
「そうですか、安心しました」
「…?」
スミスもよく分かってない顔をしていたが流すことにしたらしい。
質問は?と言いたげにこちらを見るので身振りで否定を返すとそうか、と答えた。
「であれば普段の業務の内容について伺いたい」
…薄々感付いていたがこいつはまともな人種かもしれない。
雑談に寄りかけた雰囲気を仕切りなおして真っ当な話題に戻している。
ノックスは内心でスミスの評価を見直した。
「コヨイ、報告の控えを」
「…!はい。こちらを」
コヨイの傍にある書類をそのままスミスに回してもらう。
中身は任務の報告の控えで、提出とは別でこの詰所でも保管してある物だ。
「基本的には諜報局からの伝達を受けて指令が降りる。後は指令に沿って現地で行動する。大部分は戦闘だ」
「やはり戦闘が基本か…ん…?」
「どうしました?」
紙面をめくるスミスの手が早まる。
目線を追うと担当者の欄を注視しているようだった。
「この辺りはほとんどノックスだけで行っているようだが、指令は個々人でこなすのか?」
「いや、単純に俺以外の人員がいなかっただけだ。人の入れ替わりが激しいからな」
「…噂通りの危険地帯ってことかな。理解したよ」
返事をするとスミスは幾分か乾いた笑いを浮かべた。
まあ多少は警戒してもらった方が変に侮って被害が出るよりはいいだろう。
スミスも自分の身が守れる程度には実力者であることは確かなのもある。
「差し当たって取りかかるべき事は?」
「…任務はさっき片づけてきたのが最後だ」
「出来ることをしながら待機ですかね」
指令がない時は基本的に指令待ちになる。
専ら装備を点検するか、訓練場にでも向かうか、書類を片すかといった感じだ。
「そうか…良ければ一つ頼みを聞いてくれないか?」
手を組んで顔を伏せるスミスの表情は真剣に見えた。
そこでコヨイはあることに気づく。
それはスミスの指先が僅かに震えているという点。
コヨイは無言でノックスに視線を送って返事を促した。