1.月下真銀(3)
「終わりました。すみません、時間を取ってしまって…」
「いや、充分だ。後は俺がやっておく、休んでろ」
それだけ言うとノックスは制服の内ポケットから何かを取り出した。
制服と同じく暗色に彩られたそれは、仮面のように見える。
コヨイは不思議に仮面を見つめたが、彼は意に介さず塔に向かって歩き始めた。
「えっと、不躾な質問ですみませんが…まだ大勢いらっしゃると思いますよ。大丈夫ですか?」
ノックスの腕前が未知数とはいえ、彼を侮る意図はコヨイにはない。
ただ、相手は仮にも結社。先のリケラの言からもまだ多数構成員が残っていると見るのが妥当だろう。
「術式を使う。想定外があれば呼ぶから階下に控えておけ。扉と窓の開放部は開けておくように」
それに対する返答は極めて端的だった。
何をすればいいかは分かるが、何故そうするのかは分からない淡白な指示だ。
ただ、なまじやることが分かる分コヨイも異議を申し立てる程でもない…。
もしかするとあまり術式の情報を晒さない魔術師の不文律とかがあるのかもしれないと思ってコヨイは指示に従っておくことにした。
何かあれば伝達があるらしいし、危険に晒されれば助太刀は可能だろう。
そう考える間にもノックスは進んでいた。
そのまま徐に扉に手をかけ、当然のように建屋の中へ入っていく。
「おう、お疲れ…!?なっ、誰だお前!?」
あまりにも自然な入室に入口近くに控えていた構成員が気さくな言葉を掛けるが、即座に苦痛の声に変わった。
無造作に跳ね上がった右手が男を逆袈裟に切り裂き、壁面を血で汚しながらしばしの沈黙を生む。
「おい、侵入者だ!!」
途端に視線はノックスに集まる。
その数はゆうに六、七は超えるだろう。
逃げ場も限られる室内でこの多勢は分が悪い。
だがあくまでノックスの足取りはそのままだった。
彼は素早く左手を掲げる。
剣を握る右手は皮の手袋で覆われているが、それとは非対称に左の手のひらは素肌を晒している。
その意図は明白で、掲げた左手が高く乾いた音を鳴らしたことでそれを見た物に明らかにさせた。
もちろんそれに敵の魔術師達も感付いた。
即座にノックスに多数の指先が向けられ、それぞれが唱える呪文が混ざりあって音の洪水となる。
そこでようやく魔術師の一人が異変に気づいた。
「おい待て、なんだこの煙、は…」
それっきり言葉をなくしてローブの男は倒れ込んだ。
動揺が広がったのも束の間、男に続くように一人、また一人と床に蹲る。
瞬く間にノックスを見つめる者はいなくなり、辺りに立ち込めるのは薄くたなびく灰色の煙だけになった。
「もうしばらくしてからでいい、こいつらを捕縛しておけ」
仮面越しにくぐもった声がコヨイに語り掛け、鎮圧した面々の拘束を命じた。
ノックスは返事は待たずにそのまま次の階への階段を登り始めた。
「…これがノックスさんの魔術ですか」
その場に取り残されたコヨイは目を瞬かせてその光景を眺めていた。
言いつけどおり間を置いて塔の中に入ると、何かが焦げたような匂いが鼻につく。
それを押して倒れた魔術師を見ると、息絶えた訳ではなさそうだった。
流石に斬撃を受けた者は別だが、独りでに倒れた者達は薄く呼吸をしている。
「(吸うと意識を失う毒のようなものでしょうか)」
有りあわせの物で魔術師達を縛りながら見分する。
つくづく…謎の多い人物だと思いながら。
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「ぐっ…」
ノックスは三階まで足を進めていたが、繰り広げられる光景は変わらなかった。
何かが燻るように煙が立ち、次いで居合わせた魔術師がくず折れる。
術式「焼却」。
本来広範囲を火炎で焼く魔術だが、ノックスの物は術式に細工が施してある。
燃焼の対象となるのは攻撃対象ではなく、一帯の空気そのもの。
これによって空気は薄まり、術式の影響下で呼吸を行った者は失神する。
彼が身に着けた仮面はその影響を緩和するための装具だった。
仮面の内側で酸素を発生させ、術式下での行動を可能にする。
仕掛けは単純だが情報のない相手には覿面の効果を発揮する。
その反面味方との連携を阻害するなどのデメリットも十二分に存在するが。
現にコヨイを帯同していないのがその証拠だった。
「この階は終わった。上がってこい」
「はい。お早いですね」
窓を開け放ちながら階下のコヨイを呼ぶ。
「構造的に次が最上階だ。頭が控えてると思って良いだろう」
「ええ。次も同じように制圧されますか?」
「…通ればな。この術式はそこまで万能じゃない」
軽く息を吐きながらノックスは倒れた魔術師の一人に近寄った。
そのまま襟元を掴んで持ち上げ、引きずるように歩き出す。
「人質さんですか?」
「ああ、使える物は使う。手筈通り呼ぶまでは待機」
人質の使用に疑問が出ることも懸念したが、特にそういった事はないようだった。
魔術師を背負いこむようにして階段を登り、最上階の扉の前で下ろして盾にする形に抱きなおす。
仕上げに魔術師の喉元にロングソードの刃を突き付けて、乱雑に扉を蹴って開けた。
「執行局だ。この塔は既に制圧した、大人しく投降しろミケラ・ルクサント」
蝶番の軋む音が響いて、四階の広間が姿を現す。
壁際には多くの書棚が並び、方陣の刻み込まれた作業台などもある。
一般的な錬金術師のイメージに外れない内装だと言えた。
部屋の奥、窓際にはベッドとナイトテーブルが並び、その付近に拵えられた椅子に男が腰掛けていた。
「やあやあ、夜分にご足労頂きどうも。愚弟は充分なもてなしが出来なかったみたいですね?」
ケラケラと神経に障る声で男は笑った。
蝋燭の火も声を聞き流すように野暮ったく揺れる。
灯りが照らし出すのは紫の生地に白の刺繍を施したローブ。
そしてその下に隠れた脂っぽい髪と、不気味にぎらついた双眸。
結社「融銀」の頭領、ミケラ・ルクサント。
諜報局が指示書に記した人相書きと一致する。
商家の生まれだが幼年期に借金が原因で一家は離散。
以降はスラムで育つ。
同時期に義弟のリケラと出会い、貧民窟で"逞しく"育つ。
その後融銀を組織し、裏社会と繋がりのある錬金術結社を幾つも淘汰しながら巨大化した。
「…チッ」
面倒と嫌悪感を嚙み殺しきれずにノックスは舌打ちした。
ミケラの足元には既に魔法陣と触媒が設置されており、青く輝くそれはノックスにとって見慣れた形だった。
触媒から酸素を生成する組成変換術式。
錬金術師という看板は伊達ではないようだ。
それと同時にこちらの手口も割れているのは明らかだった。
「しかし、かの『燻り火』にお越し頂けるとは…融銀も名が売れた物ですねぇ」
「…武技祭から漏れたか、忌々しい」
ノックスは一つしかない心当たりを口に出した。
王国統一武技祭は、その名の通り王国が主催する決闘のトーナメント大会。
ここで結果を残した者は、その才を買われて王国が武官登用することが通例となっている。
集客力も高いため一般にも観戦が認められており、ここで頭角を現す者も多い。
ノックスとて例外ではなかった。
「御託はいい。投降するか死ぬか、選ばせてやる」
吐き捨てるように最後通牒を突き付ける。
勧告を受けて、ミケラはゆっくりと口唇を裂いた。
「強気に出ましたねぇ?子供騙しの術式一つしか使えないちんけな『魔術師もどき』さん???」
コツコツ、と爪先で魔法陣を叩いて不気味に笑うミケラ。
慇懃な態度をかなぐり捨ててこちらを睨めつける。
「『力があれば無法は通る』んですよ、国家の走狗風情がァッ!!」
突如として狂乱したミケラが甲高い声で吠えた。
何もない空間を握り潰すように右手を突き出し、詠唱をすっ飛ばして掌に火炎が現れる。
「(励起詠唱の破棄─!)」
励起詠唱は術式の起動に用いる言葉のこと。
唱えることで術式は完全な効果をもたらすが、対人として用いる場合はその詠唱から術式の正体および術の発動を看破されることもある。
これを避けるためあらかじめ術式を改変することでこれを省略することが可能。
その場合、ノックスの焼却然り特定の動作を発動の条件に盛り込む。
ミケラの場合はあの独特な指の形だろうか。
ノックスが人質を部屋の隅に投げ捨てた時、火炎は放たれた。
ノックスのそれとは違う、術式効果に改変のない焼却。
蝋燭の火とは比べ物にならない規模の火炎が鎌首をもたげて襲い掛かる。
「『吹き荒れろ』!!」
ノックスが選択したのは防御。
胸元から方陣の刻まれた札を放り投げ、詠唱によって術式を励起させる。
札は火炎に呑まれる前に独りでに焼き切れ、輝いた魔法陣の光を残して霧散する。
直後に爆発めいた風が吹き、ノックスに迫った炎をまばらに散らした。
いくつかの書籍の装丁が焦げる匂いが部屋に充満する。
「呪符頼りの原始人がッ!『谷王を裂きて現れよ、虚ろなる腕』!」
ミケラの詠唱が終わると同時に、ノックスの視界が回転した。
それと併せて左足に尋常ならざる圧迫感を覚える。
傍から見れば、不可視の巨人によって足を掴まれた小人のようにノックスの体は逆転して浮かび上がった。
詠唱から察するに「不可侵の把持」か。
念動力めいた力で遠隔から物体に干渉する魔術。
亡霊のように人間を絞め殺せる様は呪殺にも喩えられる。
「くっ…そっ!」
視界を回しながらノックスは右手に意識を集中させる。
魔術と真正面から対峙するには魔術が一番と言われ、魔術戦が術式の相性に左右されるというのはここに端を発する。
しかしそれに待ったをかけたのが各流派の剣士達。
魔術を持たない彼らは、己が振るう刃で以て魔術に立ち向かう術を編み出した。
淡い光を帯びた剣が振るわれ、左足を掴む何者かの腕を断つ。
破斬、魔術斬りと流派によって異なる呼称をされるそれは、一様に魔術を断つ技だ。
本来触れられざる魔術に干渉するその技を以て上級剣士と見做す風潮もある。
左足からの圧迫が途切れると同時に体は支えを失い、勢いそのままに壁面へ投げつけられる。
身を捻ってさらに半回転し、書棚を蹴って本来の地面へと戻る。
絶えず肌を刺す視線に本能が警鐘を鳴らすが、それを無視してノックスは前進した。
術式のほとんどないノックスにはまともな攻撃手段はロングソードしかないからだ。
「『穿つ氷礫』『幾重に』『十重に』!」
呼吸の暇すらなくミケラの甲高い声が続く。
行われた追加詠唱に忠実に、ミケラの手元に異様に鋭利な氷柱が生まれていく。
宙に浮く氷柱の数は部屋を埋め尽くさんばかりだが、後退の余地はない。
右足で書斎を蹴り上げ、さらに軸足を入れ替えて回転。
左足で浮いた机を蹴飛ばして盾として利用する。
すぐさま机に幾つもの氷柱が突き刺さる光景が展開される。
押し戻される書斎を切り裂くように、深々とロングソードが斬り込む。
切断の対象は机ではなく─その向こうの魔術師。
薄板越しに悲鳴が響くの期待して振り抜いたが─その期待は裏切られた。
「…チッ!」
剣から伝わってくる不愉快な感覚に、ノックスは即座にその場を飛び退いた。
刹那、炭化して役目を終える書斎。
照り返した炎が肌を焼くのに顔を顰めて腕で顔を覆った。
「馬鹿の一つ覚えが…」
「馬鹿?私が編み出したこの叡智を馬鹿と罵りましたか?許せん、許せん許せん許せんッッッ!!」
憤怒を露に頬を掻きむしるミケラの指先から、不愉快な金属音が高く鳴り響いた。
爪を立てた跡からは血が流れ──すぐさま白銀の層が転び出た。
義弟、リケラと同じく金属製の外骨格。
リケラに魔術的素養がなかったのを見ると、こいつが発明者か。
「(薄々こいつらが違法な取引に手を染めたのも分かるな)」
コヨイの太刀も阻んだのを見るに、外骨格の主成分は真銀。
その強度・汎用性から高値で売買される金属だ。
人体の表層を覆う程度に仕入れるにも多額の出費となったことだろう。
「(しかし本当に─面倒だな)」
コヨイの渾身の太刀ならば突破出来ようが、この弾幕を縫って一撃を放てるか確証がない。
今呼びかけても無用に危険に晒すだけの結果になりかねない。
そう思った直後、白い影が視界を過った。
「っ!おい、よせ!!」
姿勢も低く疾駆するのは、コヨイだ。
既に刀は鞘に納められており、「無明月光」の構えに入っている。
同時にそれは抜刀以外の選択肢がない状態であり───
それを認めたミケラが、つんざくほどの笑みを浮かべたのをノックスは見逃さなかった。
ノックスは半ば激突する形でコヨイに飛び掛かり、その華奢な体を抱いて前方に転がった。
直後足元に灼くような痛みが走る。
「くっ──!」
同時に耳元でコヨイの苦悶の声が漏れる。
二人の足元には先の氷柱にも似た鋭角な針が伸びていた。
その根本はミケラの頭部に向かって伸びており─いや、ミケラの頭部から伸びている。正確には、顎部より。
顎部が異常な伸長によって針と化し、コヨイの腿を貫いてさらには床面にまで穴を空けている。
「『爆ぜよ』!」
即断即決で呪符を投げ捨てたノックスは励起詠唱を口走るとコヨイの頭を抱き込んだ。
札は千々に破れ、方陣の輝きは即座に爆炎によって霧散した。
至近で爆風を受けた二人はそのまま吹き飛ばされるが、今はそれも良しとするしかない。
衝撃の余波でノックスが身に着けていた仮面が脱落する。
制服に延焼した炎を転がって消し、投げるようにコヨイの体を扉の方へ突き飛ばす。
そのまま跳ね起きて床に剣を突き立て、剣の腹でミスリルの刺突を止める。
「あなた…この術式を知っていましたね?」
先ほどの狂態が演技だったのを隠そうともせず、ミケラは表情の消えた顔で問いかけた。
それは凪いだ湖面のように静かで、物言わぬ骸骨のように不気味な表情だった。
「…聞かせる必要はない」
肯定でも否定でもない返答に、再びミケラの顔が歪む。
「うるさい、話せ、話せ黙れ話せェッ!!」
剣山の如く体を、正確にはミスリルの骨格を流動させ始めたミケラを見かね、ノックスはたまらず扉の奥へ退避した。
一部は壁面を貫いて破片を飛ばすが、直撃を受けるよりはと思い甘受する。
「すみませんノックスさん、足をやられましたがなんとか私が一太刀…」
「いい、いいからあいつは俺に任せろ」
蹲るコヨイは続投を希望するが、無謀に過ぎると判断して却下する。
それまで頑なに合わせようとしなかった視線を真っすぐ合わせて。
その様に、場違いながらもコヨイの心臓が跳ねる。
「っ!」
その反動でコヨイの左目は輝き、運命の加護が二人にもたらされる。
胸の高鳴りと、足の痛みも等しく。
一瞬ノックスは痛みに目を眇めたが、それ以外は何も言わなかった。
「でも、あの骨格に通せる攻撃が…」
「一つだけならある」
言い聞かせるように肩に手を置き、前のめりになるコヨイの体を壁に預けさせる。
それだけ言うと役目は終えたとばかりにノックスは立ち上がる。
実際、運命の加護が二人の間にある以上言葉にしない感情は余すことなく伝わっていた。
「ただ──誰にも言うな。守れるな?」
「…はい」
コヨイが頷くとノックスは踵を返し、連れてきた人質の方へと歩いた。
徐に右手を挙げ、そのまま逆手に握ったロングソードを魔術師に突き立てる。
「『来たれ、十三番目の結末』」
無慈悲に突き込んだ切っ先は血に塗れ、そして次第にその色を黒く変貌させていく。
滅紫へと転じた色はやがて影のように伸び、柄の部分までをも食むように伸長した。
それに比例して剣を突き立てられた魔術師はミイラのように萎びていく。
「なん、ですかその術式は…!あなたはそんな術式は使えないはずです!」
「武技祭でこんなのが使えるか馬鹿が」
吐き捨てて、滅紫に染まった剣を携えたまま全力で駆けた。
当然それを許すミケラではない。
全身のミスリルを流動させて複数の刺突を繰り出す。
これの回避はもう、反射神経に頼るしかない。
捻転、ステップ、跳躍を駆使して着弾を回避する。
いくらかは掠めて鮮血が散ったが、致命傷ではない。
「ええい面倒です!『灰を生め猛火』!」
今度は励起詠唱を伴った焼却が唱えられ、先ほどより大きな火炎の壁となって目の前にそびえる。
ノックスは迷いなくこれに突っ込む。
「『冬戯れよ』!」
三度によって投じられた呪符は辺りに霜のような壁を生み出す。
火炎の壁とぶつかることによってたちまち液状化。
勢いを全て殺すには至らないが、生じた水をもろに被って炎の壁を突っ切る。
「この間合いも─私のモノだッ!!」
ついに剣の間合いまで一足の所まで迫るが、ここでミケラの両腕が変貌し、人一人分はある大鉈のような形状になった。
そのまま鋏の要領で目の前の空間を剪断せんとする。
「ふっ─!」
ノックスは前のめりに跳躍。
刃と刃の間に存在する空間に体をねじ込むように回転、刃の上を転がるような形で間合いに潜り込んだ。
殺った。その確信を以て剣を首筋に向かって叩き込む。
ガギッ。
不愉快な擦過音を立てて刃は止まる。
傷口は浅く血が流れた程度。
「ふっ…その術式も所詮、児戯だったということですか?あるいはハッタリ?」
勝利を確信したミケラに穏やかな笑みが戻る。
やぼったい剣を押しのけて、ノックスの顔を見た時──その笑顔は消えた。
「なっ…あなた、その瞳は…」
「『星辰の廻りが其を告げる』」
応じる言葉は厳かな響きに満ちていた。
そして─声を発する少年の左目は、剣と同じく滅紫の光が灯っている。
「『月暈が見下ろして其は来る。終には夜天をも其が満たす』」
それは呪詛にも、祝詞にも聞こえた。
一言口ずさめば、世界が薄れていく。
「『万物の終点は其。万象に待つ結末。即ち死なり』」
今、世界から色が消えた。
唯一色づく物はかの者の瞳のみ。
「『天地万物遍くの宿痾を今ここに』」
今、世界から光が消えた。
唯一輝くのはかの者の瞳のみ。
「『汝、畢生を惜しめ、冢塋の闇が身を侵す時まで』!!」
ノックスが詠唱を終えた時、絵画に色を塗ったくるように世界に色と光が戻った。
一見した限りでは、特にこれと言った変化はない。
「なんだ、虚仮脅しですか。下賤の犬が考えることはやはり─痛っ」
ミケラは言葉を中断して首筋を抑えた。
引き剥がした手についたのは──"二筋の血痕"。
?
おかしい。先ほどの一撃は間違いなく一回だけだったはず。
その答えは嫌でもすぐに分かった。
「ひっ!痛っ、痛い痛い痛い痛い!!イ゛ッ、ヴァッ!!」
瞬きの内にミケラの体についた切創が十重二十重と増えていく。
体表だけでもすでに赤くない所がないほど血に塗れているが、口からも滝のように血を吐いている様を見る限り体内も無事ではないだろう。
何を行えばそうなるのかと言うほどに傷口は独りでに増え、血糊をばらまくだけの凄絶なオブジェと化した。
「ゲッ──」
ミケラがたまらず膝をついた時、ようやく耳障りな声が止んだ。
不可視のピアノ線に括られたように独りでに首が落ちた。
「やっと静かになった」
輝きの消えた剣を振って血糊を落とし、ノックスは納刀した。
コヨイの方へ振り返った時、青年の表情が見える。
まだ少年の面影がある容貌に、虹彩異色の瞳が薄く輝きを纏っていた。
右の虹彩は夜空のように暗く、左の瞳は藤の花のように深い紫。
やがてはそれも輝きを失い、双眸は漆黒に染まった。
「お揃いですね、私達。これも運命でしょうか?」
「知らん。何でもいいから口外はするなよ」
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「あの…流石に恥ずかしいのですけれど…」
「うるさい」
「……」
弱めの抗議が切って捨てられてコヨイは頬をむくれさせた。
眼前には青年の青みがかった髪がすぐそばにある。
塔での戦闘を終えて、二人は事後処理に取り掛かった。
とは言っても大部分は憲兵を中心とした他の部署への引継ぎになる。
専ら行っていたのはミケラの火葬だ。
あまりにも異常な死にざま故に、そこからノックスの秘密が暴かれるのを警戒してのことだ。
無事に憲兵が到着した頃にはそれも片付き、二人は帰路についた。
が、コヨイは足を負傷している。
コヨイ自身は無理を押して自力で立ち上がろうとしたが、無言でノックスに担ぎ上げられて今に至る。
「…本当に危ない仕事なんですね、執行局って。ノックスさんは気になりませんか?それほど実力があれば異動の希望も通るはずですが…」
手持ち無沙汰になったコヨイはすっぱり思考を切り替えて会話に花を咲かせる事にした。
ノックスは機械的な部分が目立つとは思うが、今コヨイを背負っているように根本的な部分は人並み以上に親切だ。
何か外的な要因でこういう風になったのかと思って、軽く業務環境の話題を振る。
「…俺には他に道はなかった」
案の定というか、決して軽くはなさそうな返答が返ってくる。
「そうですか…聞いてみたいです。貴方がよければ、ですが」
踏み込み過ぎたかな、とも思ったが、同時にコヨイの偽らざる本心でもあった。
少し不安になる長さの沈黙が挟まったが、ノックスは観念したように話し始めた。
「面白くないぞ」
「聞きたいです。それでも」
それからノックスが語ったのは…切実な背景だった。
突然だが、王国には「魔女」がいる。
まことしやかに語られる存在だが、少なからず実在の物証を王国各地に残していた。
「魔女の苗床」。
そう呼ばれる被害者達は、皆一様に眠り続ける。
ただただ何かの時を待つように静かに眠り、やがては死ぬまで目覚めない。
症例は少ないながらもこれらは複数件が通報され、幾度か世間を賑わせた。
事実として語ればそれだけだが、それが当事者ともなればその喪失の程は想像出来る。
それがノックスだった。
「父、母、姉。目の前でむざむざと奪われた。俺は何も出来なかった」
平素と話す雰囲気はあまり変わらなかったが、僅かに声に震えが混じるのをコヨイは確かに聞いた。
「だがまだ…取り戻せる。ここで稼いだ金で家族を生き長らえさせて、『魔女』を討つ。必ず」
言葉に熱が灯り、歯を噛みしめる音が暁に染まる街路に響いた。
それは燃えさしの残った暖炉に薪をくべたような情景。
ノックス自身も目的を思い出したかのように静かに燃えているのが分かった。
「…では私もお力添えしたいです。…今日の御恩もありますし」
言った言葉も本心だったが、コヨイはもう一つの本心を伏せたことを胸の内で自覚した。
二度、運命の瞳で通じ合った仲でそれを隠すのは無駄かもしれなかったが、彼の目的を遮ってまで言葉にするのは…コヨイには出来なかった。
「…好きにしろ」
「…はい、ありがとうございます」
ぶっきらぼうに返すノックス。
それっきり会話は途切れて、お互いに何も言わない。
朝日の光を受けて、桜色の瞳が薄く輝いた。
────────────
王国魔導省特別執行局『月下真銀』
END