捌:潜んでいた魔物
ぽたり、血が滴った。
「……っ!」
声も出ない激痛。
私の腹部に喰らいついたのは、まるで豹のような形をした大きな黒い影だった。
おそらく、魔物を召喚する魔具が、もう一つ残っていたのだろう。
カイロンは神殿に仕掛けた魔具は五つだと言った。それが嘘だったのか、彼が把握していないだけでもう一つ隠されていたのかは後で尋問するしかない。
ああ、でもそれは、私はできそうもないかな。
急に思考が鈍り始める。
もはや痛みもよくわからなくなってきていた。
どう考えても、これは致命傷だ。あとひと噛みで、内臓諸とも腹を喰い千切られるだろう。
と、思った直後、白い光が一閃して魔物を貫いた。その直後、魔物が発火し、一瞬で燃え尽きる。
ああ、クロヴィスとオロチが倒してくれたのか、とぼんやり思う。
「アリス!」
「アリス様!」
クロヴィスとオロチの声が聞こえたのを最後に、私の意識は途絶えてしまった。
ああ、私は死ぬのか。
真っ黒な闇に沈みゆく意識の中で、呑気にもそんな風に考えていた。
結局世界平和を達成する事はできなかったな。
前世で沢山の人を殺めた私だったけど、少しはその罪を贖う事はできただろうか。
と、闇を漂う私の手を、誰かが掴んだ。
柔らかい、女の人の手だ。
え、と思って視線を巡らせると、淡い金髪に碧の瞳の女性が、闇の中で私の手を掴んでいた。
真っ暗な闇の中なのに、お互いの姿だけははっきりと見える。
凛とした、気の強そうな美女だ。その顔には見覚えがあった。
「グレース、様……?」
そう、聖女グレース・ノア様だ。
私の三代前の聖女であり、かつ完璧な浄化魔術が使えた本物の聖女だったという彼女は、十七年前に亡くなっている。
私は彼女が亡くなった年に生まれたので、当然その顔を直接見た事はないが、神殿内に飾られた肖像画と、同じ面差しをしていた。
それを認識すると同時に、これは夢か、と理解する。
「アリス・ロードスター。私の後継よ、お前はよくやっている。もっと自分のことを考えても良いくらいだ」
そう言って、彼女は僅かに笑った。
「それにしても、お前がこちらに来るのはまだ早いぞ」
「こちら?」
「この闇を抜けた先は、死者の行く場所だ。私が道を示してやるから、お前は戻れ」
肖像画では優しく微笑んでいたグレース様だったけど、随分言葉遣いが荒いな。
意外に思いつつ彼女を見ると、彼女はついとある方を指差した。
そこに、一筋の光が射す。
「光を辿れば戻れる。今頃、お前の身体は神殿の連中が総出で治癒している頃だろう」
「グレース様は戻られないのですか?」
私の問いに、彼女は苦笑して首を横に振った。
「私はもうとうに死んでいる。戻る身体もない」
そういえば、グレース様は強大な力を持っていたはずだったけど、死因は何だったのだろう。
歴史書にも神殿の記録にも、彼女の死因については記載されていなかった。
「良いんだ。私は。あの世界で、できるだけの事はやった……残してしまったオロチや、ジャン達の事は気がかりだったが、お前が引き受けてくれて良かったよ」
グレース様は、ジャン達、と言った。
グレース様が崩御した時の神官長はゴーチエだ。彼もその頃はまだ就任二年目で、真面目に職務を全うしていた頃だったはずだ。
まぁ、彼女は、知るはずの無い私の名前を知っていた。それを思うとゴーチエ事件の事も知っている可能性が高い。
そもそも、これは私が勝手に見ている夢と言う可能性もある。
「……グレース様……?」
「ジャンに、よろしく伝えてくれ。私は此処で待っていると」
彼女はそう言って切なげに笑うと、光が伸びている方へ向かって私の背中を強く押した。
振り返った時には、もう彼女の姿は無くなっていて、一筋の光が、頼りなげに揺れているだけだった。
私は意を決して、その光を辿って進み始めた。
やがて、闇が薄れて、目の前が真っ白になった。
目を開けると、私を心配そうに覗き込むクロヴィスとオロチの顔が目の前にあった。
どうやらクロヴィスに抱き抱えられている状態のようだった。
「……クロヴィス?」
名を呼ぶと、クロヴィスが泣きそうな顔になって、私を強く抱き締めた。
「ああ、アリス! 良かった……!」
声が震えている。よほど心配してくれたんだ、と申し訳ない気持ちになる。
「アリス様! このオロチ一生の不覚にございます! ドラゴンの死骸を処理する事に気を取られ、神殿に潜む魔物を見落とし、アリス様にお怪我を負わせてしまうなど、痛恨の極み……!」
地に伏して項垂れるオロチに、その横でガリューもしょんぼりしていた。
「魔豹は気配を絶って獲物に近付くのが上手いからな……僕も気付けなかった」
いつも憎まれ口を叩いているガリューだが、それなりに私の事を心配してくれたらしい。
「心配かけて、ごめんね……」
言いかけて、クロヴィスに手を伸ばす。
その手の甲を見て、私は目を瞠った。
気付いたクロヴィスも、愕然とする。
私の右手に、あの穢れ特有の黒い痣が走っていたのだ。
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