捌:制圧
この部屋の室温が、凍り付くほどに寒くなったような気がした。
オロチは私の命令通り、この部屋でエルヴィラのブローチを見張り、次の指示を待っていた。
そんな中で、エルヴィラの言葉は彼の逆鱗に触れた。
「ひっ! 何ですのっ?」
「馬鹿か! 聖女様になんてことを言うんだ! 今すぐお詫びしろ!」
アルバートがエルヴィラの腕を掴んで促すが、彼女はそれを受け入れはしない。
「い、嫌ですわ! 化け物を化け物と呼んで、何が……!」
更に言い募ったところで、オロチがその場に姿を現した。
同時に、あの凄絶で禍々しい魔力が、部屋中に広がった。
「アリス様、申し訳ございません。ご命令もなく御前にまかり出てしまいました。罰なら後でお受けします」
「許すわ。でも余計な事はしないで」
「承知いたしました」
私に対して恭しく一礼するオロチを見て、アルバートが声を震わせた。
多分、オロチの声で気付いたのだろう。
「これは、まさか、さっきの……聖女様、この者は一体何なのですか!」
「彼はオロチ。私の僕よ。私に心酔しすぎているから、侮辱的な発言は命取りになるわ」
私がそう告げると、オロチがエルヴィラを睨んだ。
ひっと息を呑んで、彼女はその場にへたり込んでしまった。
「……で、クロヴィスを返してくれる? 大人しく返すなら危害は加えないけど、拒否するなら奪い取るわよ。骨が何本か折れると思うけど、覚悟してね」
私が声色を強めて言うと、彼女はガタガタと震えながらも、ブローチを握り締めた。
その態度を拒絶と受け取った私が、ブローチを奪い取るために構えると、アルバートが慌てた様子でエルヴィラの手からブローチを引き剥がし、私に差し出してきた。
「聖女様! どうかお許しください!」
アルバートの手も小刻みに震えている。
私はそれを受け取りつつ、エルヴィラを見た。
「封印を解除して」
「い、嫌ですわ!」
「そう?」
私は脅しのために彼女の首を掴んで軽く絞めてやろうと思ったが、それよりもオロチが動く方が早かった。
彼は右手を軽く振り、ほんの少しの魔力を飛ばしてエルヴィラを壁に縫い留めたのだった。
「アリス様のご命令に逆らうならば、私が八つ裂きにして差し上げましょう」
余計な真似はするなと言ったのだが、彼も頭に血が昇っているらしい。
まぁ、それでも彼女の身動きを封じる程度で済ませているのだからまだ良い。その気になれば指先一つ動かすだけで、人間の首を切断する事など容易いだろうに。
壁に磔にされたエルヴィラは、オロチに睨まれて完全に委縮している。
「私はアリス様のためであれば、人間を痛めつけることも厭いません……さて、どのような苦痛から始めましょうか? まずは指を一本一本引き千切るとしましょう。ああ、失血死しないよう、その都度止血しますからご安心を」
つらつらと穏やかな表情で物騒なことを述べるオロチに、それが脅しではないと悟ったエルヴィラは震える声で答えた。
「わ、わかったわよ! 解除するから、これを解いて!」
エルヴィラが応じたので、オロチはすっと手を下ろした。
同時に、エルヴィラも身動きを許された様子でほっと息を吐く。
彼女は胸元からペンダントを取り出した。ブローチと同じ紫色の宝石が嵌め込まれた大ぶりのものだ。
それを握り、彼女が何か唱えると、私の手の中のブローチがきらりと光った。
どうやらあのペンダントでブローチの動作を制御するらしい。
瞬き一つの間に、私の目の前にクロヴィスが姿を現した。
「アリス!」
人目も憚らず、クロヴィスは私を抱き締める。
「クロヴィス! ちょっ、それどころじゃないでしょう!」
赤くなる頬を誤魔化したくて、口調が乱暴になる。
クロヴィスは腕を緩めると、私に優しい笑顔を向けた。
「ありがとう。助かった」
「……どういたしまして」
彼の存在が、こんなにも安心するとは思わなかった。
胸がいっぱいになりながらなんとか答えると、クロヴィスはエルヴィラ達を振り返った。
「帝国は、リベラグロ王国の要請に応じて罪人を無条件で引き渡した。それにもかかわらず、そちら側は皇太子である私を誘拐した……これは明らかな宣戦布告行為である。異論はあるか?」
クロヴィスの周りに、魔力が渦を巻き始める。
バチバチと音を立てる程に、濃密で膨大な魔力だ。
この状態で攻撃魔術を発動させたら、それこそ城が消し飛ぶだろうと想像できてしまうほど。
「大変申し訳ない! これは妹がクロヴィス皇太子殿下に懸想するあまりに独断で行った事で、断じて宣戦布告などではありません! どうか、どうかご容赦を……!」
アルバートが身体をくの字に曲げて謝罪する。
「アルバート王太子か」
アルバートとは初対面のクロヴィスが、彼の髪と瞳の色を見てそう判断する。
彼と話を進めようとした矢先、エルヴィラがクロヴィスに縋りつこうと前に出てきた。
「クロヴィス様! クロヴィス様は騙されておいでです! この女は化け物のような強さを隠して……!」
「おいやめろ!」
アルバートに制されながらもそう訴えてくるエルヴィラ。
先程私への侮辱が命取りになると思い知ったはずなのに、もうそれを忘れたか。
オロチが今にも彼女を殺しかねない程の殺気を漂わせ始めたので、動かないように小声で命じて、成り行きを見守る。
クロヴィスは、呆れ果てたように嘆息した。
「……エルヴィラ王女」
「はい!」
「アリスは聖女だ。強くて当たり前だ」
「で、ですが、魔剣を持った衛兵を、魔術も使わずに短剣だけで倒すなんて、とても人間とは……」
「その強さも含めて、俺はアリスに心底惚れ込んでいる。何度も俺から結婚を申し込み、ようやく婚約に漕ぎつけたんだ。その邪魔をするのならば、相手が一国の王女でも容赦しないぞ」
他国の王族の前で一人称が俺に戻ってしまうくらいには、クロヴィスも怒り心頭のようだ。
「エルヴィラ王女、貴方は、俺を連れ去れば俺が貴方に惚れると思ったのか? それほどの価値が自分にあると?」
「だ、だって、私はリベラグロ王国の第一王女で、美貌も教養も、他の誰にも負けたりしませんもの!」
「結婚を望む相手を誘拐する者に教養があるとはとても思えないが? それに美貌も、アリスの方がよほど美しい」
本気で解せないと言う様子で首を傾げるクロヴィスと、それに同調して首がもげそうなほど頷いているオロチ。
私は人間の美醜に関してあまり興味がないから自分の顔もあまり気にしていなかったが、クロヴィスは私の顔も気に入ってくれていたのか。それは知らなかった。
「そ、そんな……! 私は、世界で一番美しいのに……!」
エルヴィラが信じられないと言わんばかりに膝から崩れ落ちた。
確かに彼女は美人だが、本人がここまで自身満々傲慢なのは、間違いなくあの父親が溺愛していたからだろう。
国王はかなり罪な父親だな。
娘を溺愛するあまり、王族以前に人として重要であるはずの善悪の区別を教え込まなかったのだから。
きちんと躾けられなかったエルヴィラも、被害者といえばそうなのかもしれない。
勿論、彼女の犯した罪は消えないので、私は同情心を捨て、この後どうするつもりなのかとクロヴィスを見た。
もしよろしければ、ページ下部のクリック評価や、ブックマーク追加、いいねで応援頂けると励みになります!