終:決意
彼は手近な岩に座り、私にも隣に座れと促してくる。
「ここなら少しは落ち着いて話せるだろう」
私が大人しく従うと、彼は私の手を掴んだまま、私の瞳を覗き込んだ。
「これだけ教えてくれ。アリス、俺が嫌いか?」
その瞳が、不安そうに揺れている。
その目を前にして、嘘は言えなかった。
「……嫌いじゃないよ」
嫌いではない。それは本当だ。
「じゃあ好きか?」
「好きか嫌いかで聞かれたら好きだよ」
それも本音。
クロヴィスは少し意外そうに目を瞠って、その後で悲痛な顔で呟いた。
「それなら、どうして婚約を辞退するなんて……」
「……私は皇太子妃にも、皇妃にも向いてないから」
「向いてない?」
本気で解せない様子のクロヴィスは、怪訝そうに眉を顰める。
「私は、たまたま聖女になっただけの田舎娘よ。貴族でさえない」
「それがどうした?」
「今更、貴族のマナーだとか作法だとか、皇妃教育なんて真っ平なのよ。そんな事に時間を割く暇はないの。前にも言ったけど、私はこの人生、世界平和のために尽力すると決めているから」
私がそう告げると、クロヴィスは虚を突かれた顔をして、それから盛大に溜め息を吐いた。
「……それが理由か?」
「それだけで充分よ」
「皇妃教育が嫌だと?」
「皇妃教育を受けるのも嫌だし、そんな暇はないの。だから皇太子妃にはなれない」
きっぱりと告げると、クロヴィスはにやりと笑った。
「つまり、皇妃教育を受けなくて良いのなら、俺と結婚しても良いと思っているんだな?」
そういう事になるが、何だろう、ここで素直に頷いたらいけない気がしてしまう。
と、私が反応に困っていると、クロヴィスはそれを肯定と受け取ったらしく、私の両手を再び掴んだ。
「安心しろ。聖女が皇族と結婚する場合、皇妃教育は免除される」
「……は?」
「あまり知られてはいないがな。そもそも、聖女は貴族出身でない事が多い。その上で、その能力を外部に漏らさないためにも、皇族と婚姻を結ぶ事は珍しくない。だが、聖女には聖女にしかできない仕事があるからな。皇妃教育でその時間を奪うなと、大昔の神官長が当時の皇帝に進言したそうだ。だから、聖女が皇太子妃や皇妃になっても、公務より聖女としての仕事が優先される」
そんな事聞いた事はないが、皇族の一部の者しか知らない可能性は充分にある。
過去に聖女が皇族と結婚する際、皇妃教育を受けたかどうかなんて、その時の皇族とその側近くらいしか知りえない事だ。
「……これで、お前の憂い事は消えたか?」
悔しい。皇妃教育を受けるのが嫌だからクロヴィスとは結婚できないと言い張っていたのに、その理由がなくなってしまった。
そもそも、クロヴィスの事は決して嫌いではない。
使命とか身分とか関係ない世界で出会って求婚されたのなら、喜んで受けただろう。
そんな私の心境など知らないはずのクロヴィスは、私の両手を握る手に、ぎゅっと力を込めた。
「俺が皇太子である事で、少なからずお前が嫌な思いをする事もあるだろう。それは本当に申し訳なく思う。だが、俺に許される全ての権限を使って、できうる限りそれらを排除すると誓う」
熱を帯びた、真剣な眼差し。
「だからどうか、俺と結婚してくれ」
これほど熱烈に求婚されて、嬉しくないと言えば嘘になる。
でも、嫌だと思っていた理由がなくなってしまったからと言って、はい喜んでとすぐに気持ちを切り替えられるほど、私は器用ではない。
私はクロヴィスの手をやんわり解いた。
拒絶と捉えたクロヴィスの顔に絶望が過る。それを見ないようにしつつ、私は彼の二の腕に両手で触れた。
「っ! アリスっ?」
「……鍛えたっていうのは本当みたいね」
私が筋肉を付けろと言ったから、彼は素直に鍛錬したらしい。
「そうだ。お前が言うから、あれから毎日、基礎鍛錬をしているんだ」
「……うーん、八十点かな」
彼の腕を触りながら正直に感想を述べると、クロヴィスは一瞬不満げな顔をしたが、すぐにはっとした。
「百点になったら、結婚してくれるのか?」
「百点になったらね」
意地悪のつもりでそう答えると、彼は心底嬉しそうに破顔し、私を抱き締めた。
「わかった! 今まで以上に鍛錬して、すぐにでも筋肉を増やす!」
「百点って、そんな簡単じゃないわよ?」
心臓が早鐘を打っている事に気づかれたくなくて、わざと可愛くない言い方をしてしまう。
「体を鍛えるだけなら単純な話だ。女心を理解するよりもよほど簡単だ」
「あんまり待ってあげないわよ?」
「ひと月だけ時間をくれ。必ずお前の言う百点の筋肉を手に入れてみせる!」
真正面から、曇りなき眼でそう言われて、私は更にうるさく逸る心臓を宥めるのに必死だった。
そんな私を、クロヴィスの青い瞳がじっと見つめてくる。
「……もう、逃げるなよ」
ここまで来たら、受け入れるしかない。
皇妃教育を受ける必要がない事はわかったが、皇太子妃、更には皇妃になった暁には、それなりにやるべき事は出てくるだろう。
聖女としての仕事を優先しても良いと言われたのでそうするつもりだが、それでも公務がゼロになる訳ではない。
腹を括るしかない。
私は、クロヴィスの右手を両手でぎゅっと握った。
「……逃げないよ。もう、逃げない」
皇太子妃となれば、当然今まで以上の様々な厄介ごとが降り掛かるだろう。
それでも、クロヴィスの隣に立つことを選んだ。
私の決意を受けて、クロヴィスはもう一度、強く私を抱き締めたのだった。
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