壱:アビエテアグロ公国アテンザ領
アビエテアグロ公国とは、ファブリカティオ帝国の支配下にある小国で、神殿のある町から見て西方、早馬でも十日はかかる距離にある。
その中でもアテンザ伯爵領は、西端に位置しているため、馬ならば十日に加えて三日は必要になる。
神官見習いの時に帝国内外の地理を習うので、大まかな地図は頭に入っている。
その記憶を頼りに飛翔魔術で風を切って進む。
早馬で十三日かかる道のりも、空を飛べば三日で行ける。
私は途中町や村で泊まりつつ、許す限りの最短ルートでアビエテアグロ公国のアテンザ伯爵領に向かい、無事出発から二日後の日暮前に目的地へ辿り着いた。
私は、顔を隠すために外套のフードを深く被った。
アテンザ伯爵領はそれほど広くなく、町が一つとあとは鉱山があるだけだ。
ただ、アテンザ伯爵はアビエテアグロ公国の王都にも屋敷を持っており、普段はそちらで過ごし、領地には定期的に足を運ぶのみらしい。
そのため、主な町政は伯爵から命を受けた町長が代行しているようだ。
その町に到着して、フィアンナ・タントという手紙の主を探そうとしたところ、その女性は町の診療所で看護師をしているという。
手紙には、町の様子がおかしくなったと書かれていたが、いま見ている限りでは特段変わった様子は見受けられない。
手紙は悪戯だったのだろうか。
そんな事を考えつつ診療所のドアを開けると、目の前に現れた異様な気配に思わず顔を顰めてしまった。
あの黒い靄が、診療所内に広がっていたのだ。
「……呪いの気配? 何で……」
濃さは大した事ないが、この診療所のみに充満しているその光景は、思わず呟いてしまう程、異様だった。
入ってすぐの待ち合いスペースには、三人の老人と二人の中年男性がいたが、皆顔色が悪い。
「見ない顔だね? アンタ、名前は?」
受付と思われるカウンターの向こうから、中年の女性が私の顔を見て首を傾げた。
「あ、えっと……ア、アリエル・セレナです」
ここでアリス・ロードスターだと名乗るのは得策ではない気がして、私は咄嗟に前世での本名を名乗った。
前世は違う次元の世界だったようなので、この名前を使う事で不都合が起きる事もない。
「初めてかい?」
「ええ……旅をしているんだけど、ここ最近疲れやすくて、ちょっと見ていただこうかと……」
適当な事を言ったが、受け付けてもらえたのでとりあえず待ち合いスペースの椅子に腰掛ける。
程なくして診察室から呼ばれて、中に入り、同時にぞっとした。
にこやかに椅子に座って振り返った初老の男から、盛大に黒い靄が噴き出していたのだ。
「どうしました?」
「あ、えっと……最近なんだか疲れやすくて……」
柔和そうなグレーの目の奥に、昏い光が炯々としている。
「そうですか。旅の道中では大変でしたでしょう」
口調も穏やかだが、彼が一言言葉を紡ぐ度に、自分の体温が下がっていくような心地がした。
穢れを取り込むあまり魂が穢れと同化してしまった元神官長のゴーチエでさえも、ここまで不穏な気配を放つ事はなかった。
それとはまた異質な何かだ。
男に怪しまれないように、私は男の問診に応じ、大人しく脈を測ってもらった。
彼の手が私の手首に触れた瞬間、生気が吸い取られるような錯覚に陥る。
同時に、確信した。
コイツは、人間じゃない。
魔物だ。
しかし、敵意も殺気も感じない。
「……脈も正常ですね。良く眠れる薬を出しておきますから、それを飲んで様子を見てください」
人語を解す魔物については、神殿に保管されている歴史書でも読んだことがある。
魔物というだけで邪悪な存在とされることも多いが、稀に人語を解し、人間と共存する魔物がいるという。
これはそれか。
だが、確証はない。
人語を解すという事は、少なくとも知能が高いという事。
人間を欺き、近付いてから捕食したり、絶望させてから殺す、という残忍な事を好む魔物も中にはいるかもしれない。
油断大敵だ。しかし、今はフィアンナ・タントの所在が気になる。まだ、下手に動かない方が良いだろう。まずは彼女を見つける事が先だ。
「わかりました。ありがとうございます」
一礼して診察室を出る。
そのまま受付にいた女性に呼ばれ、カウンターに歩み寄ると、さっきの今でもう薬を渡された。
用意が早すぎる。まるで、最初から渡す薬が決まっていたかのようだ。
私が怪しんでいる事を悟られないように代金を払い、それから最後に女性に尋ねる。
「ここに、フィアンナ・タントという女性がいると聞いたのですが、貴方ですか?」
中年女性は、露骨に眉を顰めた。
「あの小娘の知り合いかい? 三日前から来てないよ。無断欠勤さ」
「無断欠勤……?」
「ああ。おかげでアタシ一人で受付と薬剤師の仕事までやらなきゃらなくて参ってんだ。会ったらさっさと出勤するように伝えとくれ」
「彼女の家は何処ですか?」
「アタシはそんなん知らないね。さ、薬を受け取ったらさっさと帰んな」
女性はそう言うと、気怠そうに手をしっしっと払った。
彼女の眼には昏い光は視えない。が、目の下にはくっきりとクマができている。黒い靄の影響を少なからず受けているようだ。
私は診療所を後にして、町を歩きながら、再度様子を探った。
特段活気に溢れている訳ではないが、地方の町や村ならばこんなものだろう。
しかし、先程の診療所を見てしまった後だからか、妙な違和感を覚える。
何か、大事な事を見落としている気がする。
それに、看護師として診療所に勤めているはずのフィアンナは、一体何処へ行ってしまったのか。
私は路地裏に身を潜め、彼女からの手紙を取り出した。
それに右手を翳し、小さく唱える。
「探知魔術」
この手紙に残った僅かな気配を辿って、手紙を書いた人物を探す。
しかし、気配が不自然に途絶えていて、なかなか探れない。
まるで遮蔽魔術を使って隠れたかのようだ。
目を閉じて、更に注意を凝らして視える魔力の糸を手繰る。
手紙からは魔力を感じなかった。つまり、フィアンナという女性は魔力を有していない一般人、または自身の魔力を完全に制御できる魔術師かのどちらかだ。
まぁ、魔術師の希少さと、このような田舎の町で看護師をしていたという情報から察するに、前者とみてほぼ間違いない。
「……こっちか」
ほんの髪の毛ほどの細さの、頼りない魔力の糸が繋がった先に視線を投じる。
その先にあったのは、鉱山だった。
「……鉱山」
その時、先程町を見て生じた違和感の正体に気が付いた。
もしよろしければ、ページ下部のクリック評価や、ブックマーク追加、いいねで応援頂けると励みになります!
 




