零:迫る悪意
太古の魔物、ビュートの胴体の消息は掴めないまま、結婚式まで遂にあとひと月となった。
本格的に準備が忙しくなり、忙しない日々を送っていた私の元に、不穏な報告が届いた。
「……シエンタ子爵領で?」
「はい、妙な薬物が出回っているそうです」
聞き返した私に、アネットが神妙な面持ちで頷く。
彼女の兄である現シエンタ子爵から、彼女宛に相談の手紙が届いたらしい。
要約すると、今はシエンタ子爵が管理することになった元リバティ侯爵領の町で、異常行動をする者が続出し、調べたところ、全員妙な薬を飲んでいた、ということらしい。
私の脳裏に、聖王国での出来事が過る。
聖王国の聖女候補だったアリーヤが、父親から渡されて飲んだという、ヘルバという薬草から創り出された魔薬。
神官昇格試験中にパオ遺跡に現れた魔牛からも、それと同じニオイがした。
ヘルバはロレンマグナ王国の特産品で、調合の仕方によっては、どんな毒にも効く万能の解毒薬になるが、一方で特殊な調合をすることで異常行動をきたす魔薬にもなる危険な薬草だ。
ロレンマグナ王国においても、ヘルバの調薬は、国の管理する魔薬剤師の資格がなければ行ってはならず、異常行動をきたす魔薬の調合は法律で禁止されているし、ヘルバそのものの輸出もかなり制限されている。
つまり、何者かが、法律で禁止されているはずのヘルバから創られた魔薬を、ファブリカティオ帝国内にばら撒いているということ。
聖王国からは、アリーヤの父親であるアルシオーネ公爵がどこから魔薬を入手したのか、結局掴み切れなかったと報告があった。
アルシオーネ公爵は、謎の商人から買った、正体は知らない、としか答えなかったという。
「ロレンマグナ王国を調べた方が良いかしら……」
ロレンマグナは、先の三国同盟による帝国侵略事件で国王が責任を取って退位し、帝国の皇帝が指名した第七王子のウェズリーが王位を継いだ。
彼は私の目から見ても、良識的で国王の器として申し分ない人物だ。
私は伝書魔術ですぐにウェズリー宛に手紙を書いて飛ばすことにした。
「……アネットも、子爵領が心配でしょう? 一度領地へ行って直接調査をしてきてもらえる?」
「私が行っても良いのですか?」
「子爵領付近の地理がわかっているアネット以外に適任者はいないでしょう? でも一人で行かせる訳にはいかないから、リュカかトリスタン、それから神官も二人くらい同行させましょう」
私は即座に、神官以上の面々を会議室に招集した。
「……という訳で、シエンタ子爵領の調査に同行して欲しいんだけど……」
事情を説明すると、トリスタンがすっと手を挙げた。
「では俺が行きます」
「そうしてくれるとありがたいわ。トリスタンならいざという時に転移魔術も使えるし」
となると、あと神官から二名ほど選出しなくては、そう思って視線を巡らせると、クラリスが名乗りをあげた。
「私が行きます! 同性がいた方が何かと良いかと思いますので」
「それはそうね。じゃああと一人は……」
実力的にハリーかな、と思った矢先、ニールがさっと挙手した。
「俺も行きます!」
「そう? じゃあ、今回のシエンタ子爵領の調査は、アネット、トリスタン、クラリス、ニールの四人にお願いするわ。あと、シェイドはクラリスの護衛としてついて行ってね」
今回も当然のようにクラリスの後ろに控えて同席していたシェイドが、驚いたように目を瞬く。
「良いのか? 神殿の警護は……」
「私が神殿に残るから大丈夫よ。寧ろ、私がクラリスと一緒に行動できない以上、ラウルが現れた時のことを考慮してシェイドにクラリスを守ってもらわないと」
私がそう言いつつクラリスを見ると、彼女は頬を赤らめて何か言いたげな顔をしたが、そのまま口を噤んだ。
ラウルはトリブスの影と呼ばれる王族直属の諜報員で、私を暗殺しようとして失敗した男だ。
本来極刑となるところを、諸々特殊な事情が重なって今は帝国に忠誠を誓っている。
その特殊な事情の一つが、彼がクラリスに一目惚れしたということだ。
以来、仕事が休みになる度に神殿に現れ、クラリスに付き纏うので、彼女も辟易していた。しかし周りをうろつくだけで実害はないし、彼女が嫌がることは絶対にしないので、クラリス自身もあまり強く拒絶できないでいた。
しかしそれでも異性に、それも私の暗殺を依頼されるほど腕の立つ諜報員だった男に近付かれるのはクラリスも怖いと感じるだろうと、私はシェイドにクラリスの護衛を命じたのだ。
元々神殿の用心棒として雇ったシェイドだったが、最近ではすっかりクラリス専属の護衛になっていた。
「という訳で、準備が出来次第出発して。神殿からシエンタ子爵領までは馬車で数日かかるから」
「はい」
私の言葉に、アネットが頷く。
この時、私はニールから僅かに漏れ出ていた感情に気付けなかった。
それが波乱を呼ぶことになるなんて、この時の私は微塵も想像できていなかった。
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